30話 伽藍の徒花悔い互い

 息荒く開け放したドアから一歩踏み出すと、ほの赤く照らされた木床の上に俺の影が落ちる。静まり返った図書館を踏み付け、俺は「目当ての本」を探していた。真木のことを書いた本があったなら、茜のことを書いた本だってあるに違いない。見つかる、見つけられる。探し出そうとする限り、俺は、必ずそれに辿り着く。知識が向こうから俺を待ち構えているんだ。

 頭が重く、背骨が軋み、奥歯がぎりぎりと音を立て、頭蓋骨の後ろらへんまで不快な震えが伝染する。ぐらつく視界の中を足音が踏み荒らしていく。俺は今この瞬間、俺が陥ったこの地獄から抜け出す。生き返るんだ。絶対に。そう思った時、俺の身体は弾丸に撃ち抜かれたように翻って横を向いた。反射。何かの気配だ。誰かが俺のことを見つめている──そういった直観に神経をきつく殴りつけられ、俺の目線がびたりと止まった時、その先にあったのは、一冊の本だ。気づかぬうちに止まっていた己の足を持ち上げ、もう一度踏み出し、固形化した空気をかき分け、前へと進んでいく。足の上に乗った胴体が膝の運動に遅れながら付いていき、ぐらりぐらりと上下してそこに収まった。

 そびえ立つ書架の胴体、俺の腰くらいの高さに収まっている革張りのその本は、周囲の本と比べて随分地味な風貌であって、こじんまりとした面持ちで棚の中に潜んでいた。今も息を殺し、俺のことをその低みからじっと睨み付けている。俺のことをやり過ごそうとしてるみたいだ。どう見たって地味な本で、けれど、俺は何故かこの本に妙に惹きつけられるのだった。屈みこんでその背表紙に目を凝らすと、何も書かれていないと見えた革の表面に僅かな凹みがあるのがわかる。アルファベット……いや、違う。これは数字だな。数字が彫り込まれている。アラビア数字。自分自身の影が落ちてよく見えない背表紙に手を伸ばすと、俺の指の隙間で、焼印を押されて刻まれた文字列が一瞬くるりと閃いたように見えた。

「四百二十二……」

 その背表紙に触れた瞬間、指の先から心臓へと、か細い悪寒が走った。指の腹の表皮から肉を貫き骨を通って身体の中心に届いた電流が、「開けてはならない」と俺の理性に鋭い警告を発している。感覚だ。身体中の肌がぴりつくような、自然と口が戦慄くような、足が一歩退がるような、それらの全てを俺に促す痛みの感触。この本の中に俺の求めるものはある。それは明らかだ。けれど、これを開けば必ず後悔する。震える悪寒は、そう警告しているように思われた。俺にとって都合の悪い何かが、その背表紙に束ねられた紙片の塊の中に、確定的に存在している。

 本当に知りたいか? という、あの男の声が、俺の耳の内側に塗りつけられたままでいたらしく、今も奥で鳴っている。あいつには、知らない方がよかったことを知らされた。けれど、あいつの口から語られたのは、遅かれ早かれ知らなければならないことだった。だから、今も同じだ。知りたくないことを知ることに、つまりは、俺の内臓のどこかにある傷を白日のもとに引きずり出し、開いて並べ俺が何をすべきかを知ることに、それにこそ意味がある。知ることによって地獄の火に焼かれる苦しみを見ようとも、俺はきっと、いつかはこれと向き合わねばならない。

「あの女は」

 口の中だけで声を鳴らす。俺は皮肉なことに、俺は今も、あの魔性の瞳の色を容易く目前に描き出すことができる。あの女が隠していることの全て、俺にとって都合の悪いことの全て、それら全ては毒に違いないが、毒を知らなければ、俺はあの女と戦うことさえできない。今の俺にできるのは、せいぜい地面に転がって、あの冷たい顔を見上げて唾を吐き、睨みつけながら死ぬことくらいだ。けれど、俺は知識でもって俺自身の力を底上げできる。まずは、リングに立ち上がってポーズをとるところまで這い上がるんだ。戦うんだ。大丈夫だ、俺にはまだ、勝機がある。

 棚の中からその本をぐっと抜き出すと、巨大な書架の中に埋まっていた、みすぼらしく貧相な体躯が露わになった。間も無く平常通りひらりと紙の間から蝶が抜け出し、俺の頭上を舞い踊り始める。本を開いてやると、飜るページが次々蝶の形に組み上がり、かさつく羽音を立てながら一頭、また一頭とその華奢な身体を宙に踊らせていった。まもなく俺の周りを数えきれぬほどの紙の群れが旋回し始める。ページの擦れる不快な羽音の中で、俺は羽と羽の隙間から天井を見上げ、紺碧の夜空に散らばった星々の瞳をぼうっと視界に入れていた。羽の音が重くなっていく。もうじき、俺は記憶の海に沈むのだ──そのとき、再びどこからか視線を感じ、俺はびくりと振り返った。その感覚ってのは、確かじゃなかった。でも、羽音の向こう、白い羽根に埋め尽くされようとする、切れ切れの森の中に、きんいろの髪が揺蕩っていた。俺のことを見つめる、不安げな少女の口元。俺の耳に聞こえるのはもはや、耳障りな紙の轟音だけだ。でも、彼女。

 彼女の瞳は、何色だったっけ。


 生まれた時からそういう性分だった。

 俺には、他人や自分をしきりと試そうとするような気質があった。それは好奇心に由来する実験の精神で、とにかく俺は、安全地帯から一歩外に踏み出したいという、どう湧いたか見当もつかない動機に、不意と背中を押されることがあった。一度じゃない。習慣と言えるほど、何度もそうだった。そういった類いの子供じみた欲求は、けれど常に大人ぶった理知や計算尽くでいつも自ら押さえ込まれていた。俺自身の内部にある抑圧が、自然に息をすることさえ許さなかった。今思えばそうなのだ。きっと、俺はずっとそうだった。それが決定的に俺を苦しめたのは、三月のあの夜のことだった。

 兄はこの家から出ていかないことになった。生真面目な親父の背中を追った兄は、親父と全く同じ職についた。親父は言葉にこそしなかったが、険しいその顔を微かにほころばせ、母親は俺たちの目をはばからずに泣いた。兄は両親を前にして食卓で黙りこくり、しかしその俯いた横顔にはいつになく喜びの色が差しているように見えた。その、調和に統合された食卓の光景である。俺はそれに、違和感を覚えていた。

 どうして。そういう漠然とした、問いの形に至るようで至らない無体の感覚が俺の胸中を占め、箸を持つ右手の感覚がどこか痺れて遠く思った。その感覚は、物語の中に忽然と現れた誤植のようなものではなかった。そういう、はっきりと俺の目の前に現れる誤りではなくて、物語全体を通して、いわば、俺が生まれてからそのときまでを通してずっと漂い続けていた、誤りとも呼べない「気持ちの悪さ」だった。

 生真面目な父親の背中と、それを尊敬のまなざしで追いかける兄、さらにそれを見つめる涙ぐんだ母親のひとみ。そういった、論理的に完成されたささやかな幸せに、入り込んで行けない俺がいた。兄は望まれた通りになることを望んだ。きっとこれを親孝行というのだと、俺はその時理解した。けれど。なあ、兄貴。兄貴は、これがおかしいとは思わないのか。

 食卓の壁掛け時計の針の音が、硬く一刻一刻と脳の端に刺さって抜けない。薄い布を纏ったように感覚の遠のいた左手ですくい上げた茶碗から、鈍い温度が手のひらにじわりと滲んでくる。こういう幸せを幸せと思われない俺は、性根が腐っているのだと、そのときから俺は解釈するようにした。もっと真面目に、誠実に生きれば、いつか俺もこの調和の光景の一員になれるのだろうか。俺がもっと正しく生きれば、そうすればあるいは、俺だっていつか、この食卓の異物ではなくなるのかもしれない。この、原因不明の罪悪感にまみれた「曇り」が、そのときには、嘘のように晴れて。そして、そうしたら、俺も、俺だって、俺にだって。感覚の鈍る夕食の席で、自分の薄情な心臓が震えるのを押さえつけるように息をして、噛み砕いた粘つく液体を飲み込んだ。ふっと目を閉じると、三人の談笑が闇の中にふいと消えて、俺はたった一人になった。きつく閉じた目の端が熱く痛んで、俺はたったひとり、ぬるい床の上、誰もいない家の廊下に裸足でしゃがみこんで、受話器を耳に押し当てていた。

「俺、だめなんだ」

 受話器の向こう側、相手は困り果てて黙っていた。それはそうだった。こんな声音で、こんな言葉で、こんな感情を押し付けられたところで、もし俺が相手の立場だったら、どうしたらいいのかなんてわからなかったろう。涙は流れ、震える声音はどうしようもなく狂った人間のそれだった。それが、まぎれもなく俺自身なのだ。

「だめなんだよ」

 溜めた息を食いしばった歯の隙間から吐き出し、それでも俺は祈るようにして、相手の声を、言葉を、何かしらの感情の跳ね返りを待っていた。しばらくの沈黙の後で、相手が躊躇いながらとうとう口を開き、ため息のように声を吐き出すのが聞こえた。

「そう」

 向こう側の諦めたような声が俺の耳に流れ込んでくる。何を言ったらいいのかわからないんだ。それはそうだ。当たり前だ。けれど、でも。

「そうか……」

 俺のことを否定も肯定もしない、良心に満ちた堅実なため息が、俺の胸に染み入るような、静かで確かな痛みを残して滑り落ちていき、俺はなんて馬鹿なことをしたんだろうと自己自身を嫌悪した。何が正解だったのかなんてわからない。そんなため息を吐き出させたかったわけじゃない。別に、そういうつもりじゃなかったんだよ、俺は。わかってくれよ、兄貴。俺は、俺はさあ。俺が、望んでいたことってのは。


「ぐ……」

 喉の奥から酸味がこみ上げ、俺が全身を揺すって吐き出したそれは、固形物を含まない濁った唾液だった。吐くものなんて腹の中になかった。吐き出したもので黒く濡れた絨毯の床に手をつき、俺は自分が洋館の廊下に額ずいていたのに気が付いた。心臓が馬鹿みたいに早鐘を打ち、息を吸うほどに胸の震えが大きくなる。

「なんで」

 吐瀉物の残りのように言葉が口の端から溢れて、呼吸に合わせてぜいぜいと痙攣する胴体が、熱く滾る心臓に逆らうように凍りつく手足を、引きずっている。周りの音が遠い。頭が締め付けられるように冷たく、熱く、軋み、和らぎ、また軋むのを繰り返す。口が勝手にぞっとするほど深く息を吸い込んだ。

「こんな」

 涙に溺れながら吐き出した言葉と共に激しく腹が引きつって、俺の身体は再び嘔吐しようとした。視界が小刻みに揺れて、床についた手足は痺れて動かない。どうして、どうして、なんでだ。身体の重さのまま、自分が吐き出した唾液の上に身を崩し、俺は残った力で奥歯を噛み締めた。感覚のない冷え切った指を胴体に引き寄せようとして、上手くいかない。

「全部」

 無人の廊下で、俺は俺自身に話しかけるほかなかった。今しがた見てきたばかりの記憶の渦に、また巻き込まれるような、引き摺り込まれて、窒息するような。やめてくれ、もう。もう、俺は、あそこに戻りたくない。垂れた前髪の間に、壁紙の染みがぼんやりと浮かんで、消える。

 今見てきたのは全部、俺自身の記憶だ。


***


 びり、と足元の空気が震えるのを覚えたときには、華の足元から土煙が上がっていた。枇杷が後ろへ素早く身を翻す刹那、その目に焼き付けたのは、らせん状にねじれた黒い物体だ。それが瓦屋根の大地から次々に生え上がり、枇杷のいた場所を抉るようにして再び瓦へと墜落しているのだ。その物体が、華の異能によって巻き込まれ形を変えた瓦屋根そのものであることは、枇杷にはほとんど自明だった。彼は、華の異能を既に知っていた。久方ぶりに見た歪な「牙」が次々と己の足元を襲うのを耳の後ろで聞きながら、彼は追いすがる華の足音にのみ神経を集中させていた。

「きりがないとは思わないわけ」

 次々と連なる瓦の山脈を踏みつけ、屋根の切れ目を飛び越えて通りの向こう側に飛び移った枇杷は、華のほうへ身体ごと向き直って足を止め、彼女を睨みつけた。

「君、僕の異能を知っているんだろ? そんな攻撃が効かないことだって」

 飴玉のような枇杷の瞳が、尖ったアイラインの下でぎらりと歪んで艶めく、と、その瞬間に枇杷は後ろに飛び退った。華は一瞬前まで枇杷の身体があったまさにその場所に着地し、その右腕が貫くように真っ直ぐと瓦屋根の上に突き立てられている。彼女が触れた部分は、瓦も、その下からむき出した木材までも、全てを巻き込むようにしてひとつの物体となり、夜空に向かって花咲き、裂け、伸びているのだった。歪に広がる黒い花の先端は、不気味に鋭く尖って月の光を映し込んでいる。枇杷は、華の「戦略」を知っていた。彼女に触れられた瞬間、己の肉体さえも、ねじり裂き伸ばされ「花にされる」。確かに、あらゆる物と溶け合う異能を持った枇杷には、彼女の「花」による攻撃は効かないだろう。ただし、彼女が彼に「直接触れた場合」は、どうなるか知れないのだった。試したことはない、が、もし彼女に触れられて己の胸から赤黒い大輪が咲き誇ることになれば……。

「鬼ごっこをしたいのか」

 枇杷は不恰好な着地姿勢から身を起こし、腰に提げた刀ががちゃがちゃと鬱陶しく鳴るのに顔をしかめつつ、すぐさま華から距離をとる。華は抉れた瓦屋根の花の中央に腕を突き立てたまま、垂れた頭の眼鏡の奥にある瞳だけを動かして枇杷の動きを追っていた。次の瞬間、彼女が触れたままの花の端から新たな黒い花弁が伸び、轟音を上げながら一直線に枇杷の背中を追う。当たらない攻撃は、しかし彼の足元を崩すには十分だった。足の下の土台がなくなる前、すんでのところで一つ高い屋根に飛び移った枇杷は、華に裂かれた瓦屋根のずたずたの切り傷を忌々しげに見下ろす。そのとき、華はようやっと身体を起こして枇杷を見上げた。

「私の目的はひとつ。あなたが持っている筈のものを取り戻すこと。それのみです」

 粉塵を含んだ風がざらりと吹き付け、華の上着がめくれて警告のような黄色の裏地がはためき、枇杷の視界の中央に烈しく映り込んだ。

「あなたが『不当に』持っているもの」

 崩れた瓦屋根に埋まったハイヒールの踵を抜きながら、華は枇杷から目を逸らさない。

「そんなもの知らないよ」

 枇杷がそう吐き捨てたのを聞き届け、華は、ずれ落ちた眼鏡を黒手袋の右手で押し上げた。

「そう。そちらがそういうつもりでしたら、こちらも、こういうつもりです」

 言うが早いか、枇杷の上には何者かの影が落ちていた。彼が息を飲み首を上に振り向けたとき、彼の全身を包み込むように黒の大輪が花開き、彼のことを頭の上から押し潰した。

「無駄なことを」

 自らに覆いかぶさった真っ黒な視界の中から、溶かしていた己が身を引き上げ、瓦屋根の切れ目に足を蹴り出して飛び上がったとき、枇杷の目が捉えていたのは眼鏡の奥の氷のような瞳だった。鼻先三寸に迫った華の髪の端が月の光に透けるのを捉え、飴玉の瞳が、見開かれる。猟犬の可憐な唇がふつり、と解けて開く。

「『溶けている間』は、目も見えず、遅い」

 華の右手が自分の脇腹に触れているのを、枇杷は覚えていた。背中の後ろの虚空に、冷え切った夜風が吹き抜けるのを彼は知っている。驚いたように見開かれていた飴玉の目元が、一転して、嘲笑にうねった。

「……っ」

 枇杷の横腹に向かって突き出された華の手が、彼の背中へと「抜ける」。華の全身は均衡を失って前のめりに倒れこみ、枇杷の体内を通って、滑らかに暗闇の路地に呑まれた。恐らくは五階分ほどの高さのある、瓦屋根の渓谷の底へ。枇杷の視界から華の黒衣が消えるのと、彼の背中が通りの向こうの屋根に叩きつけられるのが同時だった。枇杷は屋根の上に不恰好に伸びた身体を引き起こし、手をついて起き上がった。上がった息を整える。右足が引っかかるような感覚に顔を振り向ければ、ハイヒールの踵が折れている。枇杷は折れたヒールをむしりとると、今度は左足の踵を瓦屋根の上に叩きつけ、もう一方のヒールをその手で折り取って、華が落ちていった路地の暗がりへと投げ入れた。

「伊達に十六年もここで生き抜いちゃ居なくてね」

 虚空に放った独り言に連なるようにして、彼の左腹が不気味に疼いた。口の中にこみ上げたものを吐き出せば、一口分の粘ついた血だ。違和感のある左の脇腹に触れると、上着の厚い生地を通してでもわかるほど、身体がごつごつと変形し、肉体の配置が乱れている。ぐしゃぐしゃに再構成された脇腹は、中の骨が表皮まで突き出しているらしかった。咄嗟に受け流したが、触れられたとき、多少は異能を流し込まれたようだ。早い所安全圏まで逃げなければならない。だって、あの猟犬は。

「知っています」

 冷たい女の声が屋根の縁から這い上がって来る。想定していたよりもずっと早い帰還に、枇杷の口から舌打ちが漏れる。華は尚も言葉を続けた。

「あなたが十六年、ここで生きていることは」

 黒く装った女の手がその体を押し上げ、持ち上げられた足がハイヒールの踵を瓦屋根に叩きつける。枇杷の鬱陶しそうな視線を意にも介さず、乱れた髪が垂れ下がるまま、黒衣の猟犬は月の光の下に帰ってきた。

「知りそうもないけど?」

「知っているんです」

 自分に向けられた鋭利な氷の目に視線をくれてやりながら、枇杷は口元の血を拭う。

「あなたが嘘を吐いていることも」

 華は屈んでいた体を伸ばして上半身を持ち上げ、傾いたままの身体で執念深く枇杷の顔を見つめ続けている。上下する胸の動きに合わせて白い息がどっと溢れる。獣じみた華の風貌に嫌悪感を露わにしながら、それでも枇杷は犬との対話を試みた。

「だから、お前は何を探している」

 枇杷の問いに、華は何かを諦めたようにふっと肩の力を抜く。びぎり、と彼女の足元から割れるような音がしたのを、枇杷は聞き逃さなかった。

「……あなたが知る必要のないものですよ」

 二人の立つ屋根が揺れ始め、周囲にみしみしと音を立てながら瓦礫の花々が咲き誇る。枇杷は崩れる足場を蹴り出して飛び退る。

「くそ、二進も三進もいかないな」

 着地した足場さえもろい。このままでは建物ごと崩されかねない。割れ崩れる屋根の上を踏みつけ獣のような形相で迫り来る華を前にして、枇杷はもう一度足を蹴り出すと、空中に倒れ込んだ。すらりと弧を描く中性の肢体。気づいた時には、華の視界から、枇杷の姿が消えていた。残されたのは、崩れ落ちていく瓦屋根を踏みしめなんとか立ったままでいようとする彼女自身だけ。

 枇杷は屋根の中へと溶け込んだのだ、と華は一瞬遅れて気がついた。すると、嫌に冷静な精神が狂える獣の胸へと吹き込み、相手を追ううちに自分が人通りの多い区画へ踏み込みつつあることに彼女は気がついた。まずい。上手くいっていない。己の心臓が早鐘を打ち始めるのを恐れ、消えた相手が立てるはずの音を探り当てようと、耳を澄ます。繁華街の喧騒の手前、彼女が真っ黒な足場の上で聞くのは、非情なまでの無音。彼女は身体をぐるりと回し、周囲のあちらこちらに気狂いのような視線を向ける、が、得られるものは何もない。屋根の上に残されたのは、お使いも果たせないみじめな猟犬女いっぴきだけ。

 そのとき、華の顔はびぎりと音が鳴りそうなほどに歪み、強張って冷気の中に凝固した。まだ、あれは近くにいるはずだ。彼女はそう思うや否や素早く膝を折ると、息つく間もなく足元に両手を突き立て、その手のひらから黒い瓦の内へ、ありったけの異能を流し込んだ。彼女に触れられた瞬間、家屋はびりりと震え、間も無く激しい破壊音を立て始め、黒く鋭い花々が彼女の周囲の虚空を貫き轟く。粉塵と瓦礫の交差の間、家屋もろとも闇へと沈み込みながら、華の翡翠の両目はぎらぎらと不気味に光り獲物を探し続けていた。どこだ、どこだ。この際、あの「どっちつかず」のひとでなしが柱や瓦にねじれ紛れて人としての形を保たなかろうが、もはや問題ではない。私は、私は「あれ」を取り戻さなければ……! 彼女の周囲に咲き誇る破壊の植物たちは、彼女の使命感と不安の絶大さに任せて伸び上がり、月の下にその肢体を広げていく。彼女の周囲が黒い花園に化け切ったとき、彼女は異能を止め、瓦礫の芸術品の間に枇杷の姿を探す。足音の一つ、息の根の一つでも、見つけられれば──。

 しかし、虚しくも、そこには相も変わらず澄み切った沈黙が留まっているのだった。冷たい、硬質で無情な月の時間。彼女は、今、ただ一人。息を殺す。音を聞く。身じろぎもせず、花の影に隠れ、神経の全てを費やして獲物の背中を追う。が、得られるものは剥がれた土壁の匂いだけ。彼女の背後でぱらりと乾いた音が鳴り、夢中でそちらを振り向くが、それは彼女自身が咲かせた黒い花の花弁がかすかに剥がれて落ちた音だった。生き物の音が、しない。

 凪のような冷たい沈黙の中で彼女の心臓はかすかに揺れ始め、それまでの頑なな使命感の支えはぐらつき戦慄いた。彼女の視界の中を、彼女自身の白い呼気が細く流れ、溢れる蒸気の湿り気が口の端を濡らす。影の中、ただひとりそこにいる、黒衣の猟犬。冷えた内臓がじわじわと恐れに震えだし、彼女の脳髄はきりりと嫌な寒気を持って軋み出す。あれに情報を与えすぎた。話しすぎた。それなのに、これだけやったのに、逃げられた。

 彼女は瓦礫の上に伏した両手を、その関節をきしきしと軋ませながらそこから剥がし、ふらりと重心を背中に逸らすようにして立ち上がった。彼女の周囲に咲いていた花々が、重たいその頭を支えかねて、ばらり、ばらりと崩れ落ちていき、彼女に覆いかぶさっていた黒い影は足元に折り重なって、とうとう花弁のような彼女の髪が、月の光の下に透き通った。彼女の色のない世界に降り注ぐ、月の白さと、ぽつりぽつりと灯った、星の輝き。彼女の口元から、どっと白い息が吐き出されて、音のない空気の中をどうどうと流れていく。背骨の描くカーブの上に乗った彼女の頭は、不安定にぎしりと揺れて、その口元は自嘲気味に笑った。崩れた氷の仮面と、体温に溶ける鋼の心臓を持て余し、彼女は笑ったのもつかの間、心細さにぞっとして、両腕を夢中で自分の体に巻きつけた。早く、早急にあれを処分しなくてはならない。今から追いかけても見つけられる可能性は低いだろう。今日与えた情報を娼館の中でむやみに広げられる前に、手を打たねば。いや、自分はまだ決定的なことを喋ってはいない。だから、まだ、大丈夫かも知れない。まだ、自分はまだ、決定的な過ちを犯していないのだ。きっと──。そう考える彼女の脳裏をさらりと流れる髪束が横切り、胸の奥を見通すような盲目の瞳の円形が明滅する。彼女は気がついた。なんにせよ、自分は命令を果たせなかったのだ、と。

 彼女の喉は乾いてひくつき、瓦礫の足場の上を吹き抜ける風に、黒衣の身体は揺すられる。自分は、許されるだろうか。目の内に熱い塊が押し寄せ、溢れ出そうになるのを堪え、自分の身体を抱きしめ立ち尽くす華は、凍える耳の端が痛むのを覚えて、わずかに膝をよろめかせた。冷たい夜の黒。遠く霞んだ喧騒が、わずかに彼女の耳に届く。そのとき、ぞっとするような違和感が彼女の足元から這い上がった。華がそれを感じ取った時には、もう遅かった。下半身を埋め尽くすざわりとした寒気がその身体を足先から侵し、恐怖感と違和感が喉の奥までこみ上げた時には既に、枇杷の上半身が彼女の腹から「生えて」いた。少なくとも彼女の視界からすれば、事態はそう見えた。より客観的に描写するならば、華の周囲に溶け込み息を潜めていた枇杷が、彼女の足の下へと忍び寄り、そこから蹴り上がって華の身体を通り抜け、彼女の前、まさに目の前に姿を現したのだった。同一に溶け合った重なる下半身から、弧を描き二つに分かれた彼らの人影は、双頭の鷲のようであって、もしくは、胚を縛られたまま孵った実験室のトカゲのようでもあって。はっと息を吸い、再び闘争本能を取り戻そうとする華の視界を輝く抜身の刀が貫いている。その白刃は、彼女に溶け込みながら、しかし今、彼女の胸を確実に貫いている。

「年長者を舐めるなよ」

 その言葉を合図に、枇杷は彼女の体内に白刃だけを残して抜け出すと、そこで終に異能を解いた。彼女の胸部に溶け合っていた刀が、ついに異物となって肉の中に顕現する。突き抜ける真っ白な痛みに声も上げられぬ華の腹に足をかけ、枇杷は華の胸から、その異物たる銀の輝きを引き抜いた。刀と共にどっと華の胸のうちから吐き出される黒い血を浴びる枇杷の顔が、白刃の瞬きと共に路地裏に落ちて消えるのが、一瞬一瞬馬鹿に鮮明に、彼女の目に刻み付けられた。枇杷の上着の裾がはためき、憎っくきその顔とともに暗闇に飲まれて消えるのを、彼女は何もできないまま見つめていた。こぼれ落ちる血と共に、彼女の体もまた、重さに引きずられて崩れ落ちる。

 「あれ」はまだ息をしている。そのことを彼女は分かっていた。己の失態を目にしたあの不定の人物を、自分は消さねばならない。そう思い念じながら、けれど、華は軋んで思うように動かない己の右腕の先から、生暖かい血が滑り落ちていくのを覚え、こみ上げた痛みに胸を押さえてまたうずくまる。心臓は貫かれていない。けれど。頭がぼうっとかすみ、身体は休息を求めていた。

「く……」

 もうまともに動けない。


  ***


「知ってるぞ」

 部屋に入った瞬間にそう口にした俺に、ベッドに横になっていた茜は鬱陶しそうに顔を上げた。

「なに」

 あの廊下から死に物狂いで這い出し、口の中に酸味が残ったまま部屋に帰ってきた俺は、茜の刺すような視線を一身に受けていた。彼女がゆるやかに寝返りをうつと、下着姿の白い腹が露わになる。その色に惹かれる自分の目を嫌悪しながら、俺はなんとか顔を背けた。

「俺はな、もう知ってるんだよ」

 そうして、目の前に横たわる誘惑を打ち棄てるように、俺は女に向かって丸めた上着を投げつけた。そこでようやっと、茜は俺の尋常でない様子に気づいたらしかった。睫毛に縁取られた溶けるような朱色が、ふ、と見開かれる。

「『知っている』……?」

 起き上がった彼女の髪が肩の上に転がって弾み、その朱色はびたりとこちらを凝視したまま。

「何を、どこまで?」

「君が、俺を使い捨てようとしていることだ」

 俺は自暴自棄になっていた。こんなことを敵に話す必要はない。話すべきじゃない。でも、ただ口から言葉がぎこちなく、すべり出るままに彼女に言葉を投げつける。そもそも、「お前」と呼ぶべきだった、と彼女の瞳の前で固まった己の舌を俺自身情けなく思うが、彼女の目を見ているうちに、足元が覚束なくなっていく。

「誰から?」

 それから茜は、すと、と軽やかな所作でベッドの横に立ち上がり、猫のように音もなくこちらに近づいてくる。もう、目の前にいる。彼女はそうして、誰から聞いたの、と言葉を継いだ。

「誰だっていい」

 俺はにじり寄る茜から逃れるように、顔を背けたまま部屋の隅へと後ずさる。

「真木? 枇杷?」

 それから茜は、あっという間に俺を壁際に追い詰めた。するりと身を寄せる魔性にぞっとして、俺はなんとかその肩を突き飛ばして距離を取る。

「寄るな。俺にはわかってるんだ。お前、が、とんでもなく醜い……女郎蜘蛛だってこと……」

 俺が吐いた「女郎蜘蛛」の言葉に、茜はぴくりと頭を揺らした。

「市井ね」

 そんなことを言うのはあの男だもんね。と茜はふっと笑った。可憐で、触れれば壊れそうな繊細な微笑み。ふふ、と揺らした肩の横でくるくるとしなる黒髪は、重さのない色味でもって跳ね躍る。月の光が、その滑らかな白い肩に差して、陶器のように精巧なその肢体を目の中に焼き付ける。もう一度顔を上げた女の目には、確実にひとではないものが宿っていた。

 ドアの方に回り込み、背筋に寒気の走る俺の退路を絶ってから、女は一気に距離を詰めた。獲物を食い殺す動物の仕草で、俺をしなやかなその腕の先で軽々と突き倒す。ベッドに転げた俺に、女は素早く覆い被さった。

「何に見える?」

 俺のことを見下ろす女の顔は、相も変わらず恐ろしいほどに美しかった。

「は」

 俺の喉から漏れた息と判別のつかない声が、響きもしないまま女の瞳に吸い込まれていった。

「私の姿はね、見る側の目によって変わるんだって」

 女のしなやかな手が、俺の首筋をするりと撫で、やがて両の手で俺の頰を包み込んだ。均衡のとれた微笑みが、俺の目の前に広がっている。

「私に取り憑かれた男は、私が理想の女に見える。というよりもね、私を理想だと『勘違い』するんだって」

 そう教えてもらったの、と俺の目の前の艶やかな唇が開くのを、俺の両目が間違いなく捉えていた。長いまつ毛の下の、魂を引きずり込むような深い朱色の瞳。その虹彩に映り込んだベッドサイドランプの光の色。少女と女性の中間のような、謎めいて華やかに映る顔立ちの頰には薔薇色が刺していて、それでいて鋭利な刃物のような冷たさがある。これに、目の前の「これ」に、侵略されたい。「これ」にひれ伏したいと思うような、美しさという絶対的な力。これがこの女の力。男を酔わせて狂わせて眩ませて食い殺す、女郎蜘蛛のさが。その魅惑の存在性が、ねえ、と鼓膜を痺れさせるような声を震わせた。

「どんな風に見えているの?」

 これが、俺だけに見える虚像。

「ねえ、私は、あんたには、何にみえるの」

 見えているのは幻覚だと、偽物だと、嘘のものだとわかっているのに、俺はその瞳の儚い色を、形の良い眉を、小ぶりのととのった鼻先を、解ける艶やかな唇を、食い入るように見つめていた。俺がつぐんだ口に、女は無理やり自分のを重ねた。彼女のなるい舌先が俺の中にぬるりと押し入ってくる。その肩を押し返そうとしたって、細い身体は揺らがない。脳みそがくらりくらりと、揺れて、足の先まで身体がしびれて。一瞬離れた俺の口から、ばけもの、と声が漏れたのを聞いて、女の喉がくつ、とひとつ鳴った。それから女は俺の上にのしかかったまま、背筋をすらりと伸ばす。俺の顔に面してそびえるその美しいばけものの顔立ちには、自嘲の色が滲んでいた。

「可哀想だよね。こんなのに取り憑かれてさぁ、あんたこのまま死ぬしかないんだよ」

 かわいそうだね。と女はおどけた声で繰り返す。女は突然身をかがめ、食いちぎるために、俺の首元に口を寄せた。

「私が憎いよね。殺したい?」

 いいよ、殺しても。冷たい夜の空気を揺らす、吐息を多分に含んだ声は笑っていた。笑うように、震えていた。刃物のような文言の羅列を、くすぐるような掠れた女の声音が、全て美しい音楽に変えてしまう。

「殺したってかまやしない。生きたって死んだって、変わらないもの」

 わたし、とひとつ言葉を零してから、もう一度身を起こした茜は、鋭利な輝きを持ちながら、どこか砕けそうな不均衡でもって俺を見つめていた。白い身体を覆った赤い下着の品のなさが、なぜかその瞬間、俺の視界の中にべったりと張り付いて、恐ろしく滑稽に見えた、気がした。女の瞳がふらりと見開かれると、細い指が俺の胸ぐらを力なく掴んで、冷たい目線が俺の両目を貫く。

「殺してよ」

 俺の喉の奥から声は出ない。息もできない。彼女は、俺が彼女を殺す力など持たないことをわかっている。わかっていて「殺してよ」とこい願うような声を出す。彼女は俺に話しかけていながら、俺に掴みかかりながら、おそらく俺のことなど見ていない。目の前にいる人型の塊に、届かない言葉を吐きつけているだけなのだ。これは、コミュニケーションなんかじゃない。彼女は俺の胸ぐらを掴んだまま、尖った犬歯を剥き出し、獣のように口を開いた。

「最初からそうよ。死なせるとわかっていてあんたを捕まえた。あんたはそれを知らなかった。けれどもう知った。でも、抗えない。知っていたとして、あんたは、抗えない」

 彼女は俺の上でふるりと笑うと、それから俺の上に横たわり、俺の背中とベッドの隙間に手を差し入れた。

「魂というのはね」

 彼女の声が、俺の胸の上に落ちる。

「生まれた時からその性質が決まってるの」

 彼女の指先が俺の肩甲骨を探り、するりと撫でてみせた。

「善か、悪か。その天性は、その性根に染み付いた抗いようのないもので」

 彼女はそこで、ため息のように小さく声を漏らし、彼女の口から吐き出された湿った体温が、俺の心臓のあたりに吹き当たる。

「私もあんたも、それが生まれつき悪だったってだけ」

 彼女の膝が俺の腰のあたりに当たって、硬く刺さっている。

「だからもう、苦しまなくていいの。どうにもならないもののために」

 彼女が微かに身を浮かせ、俺の視界の端に朱色のぎらつきが一瞬映り込むが、まもなく、彼女はそのまま俺の首筋に顔を埋めた。息を吸う音がする。差し込む夜の明かりが、天井に窓枠の影を黒く刻んでいる。その影の形が、歪む。見ているもののすべてが、にわかに揺らぎ出した。彼女の滑らかな肉体が確かな肉感と重さを持って、俺にのしかかったまま。この女は、なんて。なんて。

「もう『斯くあるべし』なんてね。望まなくていいんだよ」

 耳元の彼女の声が俺の頭を熱くかき乱す。手足の感覚がぼやけて、全身が熱くぼやける。どうにもならない無力感に、叫び出したい喉が疼いて、けれど力なく寝台に横たわったまま、俺は何もできなかった。彼女は、距離のないその場所から、俺に呪いの言葉を吐き続ける。

「もう、望まないの」

 彼女の最後の言葉は、俺の胸の中に尾を引きながら沈み溶けて行く。分からず屋の子供に言い聞かせるような芯を持ったその語調は、悲しげに高く響く夜の跫音に混ざり合って、もはや、誰に向けられた言葉であるかも定かではない。そのとき視界が一気に濁ったかと思うと、すべてがぼやけて灰色になり、朱色の痛みに似た溺れるような激しい快感に飲み込まれ、俺は全身の触感を失った。それなのに、耳だけが相変わらず彼女の声を聞いている。

「私もあんたも、このぬかるみに沈んで、沈み込んで、泥の中を、深み深みへ」

 灰色の景色はやがて光のない深海へ。いや、この目が何かを見ているのかも定かじゃない。視界の効かない、暗がりの深み。

「酸素もない泥の深み、呼吸もできず、もう、考えることもない」

 静かな彼女の声だけが、俺に堕落を促す。

「それで最後に辿り着く先は、地獄」

 静かで、けれど絶対的な女の声だけが聞こえている。

「ここは、世界で一番、地獄に近い場所」

 そのとき、死んだように凪いでいた脳裏に、何か白い色が開いたように思えた。それを確かに見たのか、この目が捉えたのか、その形が視界に映り込んだのか。なにもわからない。けれどあれは、きっとあれは、蓮の花。

「あんたがここに来るのは、最初から決まっていたの」

 聞こえてくる女の言葉に温度はなく、突き放すような語調に誤りはない。けれどその言葉のひとつひとつは、冷たい泥のように俺の存在を包み込んで、否定も肯定もせず。

 俺、最初から。

 口が動いたわけじゃない。けれど、脳は、もしくは、俺の言語機関は、確かに言葉を紡いでいた。ぽつり、ぽつりと、俺の一生を俺自身の外側から見ているような別個の言葉が、空中にぽかりと浮かんでは泥に飲まれて消える。

 どこに行っても不幸にしかなれないようにできていたんだな。


***


 鉄の扉を叩く拳の音。しんと静まり返ったホールを、違うことなくまっすぐに進み、観音開きのドアを押し開けると、そこには荒い息遣いがひとつうずくまっていた。

 盲人である十夜であったが、自分の寸前で息も絶え絶えに跪く生物が自分の手足たる華であることはすぐにわかった。そもそも、そうでなければ扉を開けもしなかったろう。

「検校様」

 乱れた髪の頭をうつむかせたまま、片手で胸を抑え、石畳の上の華は苦悶の内側から苦々しく声を漏らした。

「……申し訳ありません」

 華を見下ろす十夜の背中は揺らぐことがない。

「取り戻せ、ませんでした」

 そこまではっきりと述べたててから、なんの声も発さない主人を見上げ、華は懇願するような瞳を泣きそうに歪めた。

「検校様」

「どうしたの、華」

 焦点の合わない十夜の両目が、自分の肩のあたりに向けられているのを見、その一見して心配するような声音に、実際は何の感情も込められていないのを知った時には、華の腹の底には恐ろしい絶望感が湧き上がっていた。

「まだ、あれを取り戻していないのでしょう?」

 平生と同じような口調でそう問うてくる十夜は、華の哀れなやられようを知っている。知りながら、なんとも思っていない。十夜は慄く華の目の前で少女のような無垢さを気取って首を傾げ、もう一度確認するように

「そうよね」

 と詰問した。華が呆気にとられたまま何も言い返せないのを聞き、十夜はそこでふっと肩の力を抜くと、控えめに両の頰を持ち上げて微笑んだ。

「ならば、帰ってこなくていいのよ」

 自分の顔を困惑のまま見つめる華の切実なまなざしを、彼女は一生目にすることはない。十夜はそれからもう一度自分の言葉を繰り返した。

「帰ってこなくていい」

 その一言一句、言葉に含まれた音の全てが、目の前に跪く可愛い猟犬の頭に染み込んで、突き刺さって、抜けなくなるように、彼女は言葉に揺らぎのなさという力を与えた。

「時間はある。そうでしょう」

「……はい」

 冷たく正しい十夜の言葉に、華は間抜けに開いていた口をぎっと引き結び、目を下げて十夜の靴の先を見つめた。そのまま痛む胸から手を下ろし、その傷をなかったことにするようにまっすぐに立ち上がった。白い月が容赦無く照らし出した決意に満ちた目には、怯えた女の人間性は消え失せている。華はそのまま踵を返すと、黒衣のコートを揺らしながら歩き出し、まもなくその歩調は早く弾むようになり、彼女の背中はあっという間に十夜の前から遠のいた。

「お行き。私の望みを果たすために」

 ほう、と吐かれた白い生体の証が、十夜の冷徹な微笑みに交差する。くるりと振り返り扉の奥に消えようとする彼女の背中に、長い髪がさらりと冬の空気を滑り、付いていった。

「夜の果てまで」

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