25話 最初の結末

 一歩一歩石畳の上へと踏み出される俺の足と、俺の腕に抱きかかえられて揺れる、少女の遺骸の足。徐々に冷たくなっていくその身体を、壊さないようにしっかりと抱きかかえたまま、人気のない、しんと藍色の表通り。


「赤い、閃光が」

 飴玉みたいな色をした枇杷の目が、こちらを見る。

 枇杷は俺の腕から彼女を抱きとり、跪くように石畳の上に膝を折る。枇杷は黙したまま、彼女の細い身体を、その肉の端一片すらも惜しむように抱きしめた。


***


 目を開ける。見慣れた部屋の天井が広がっているだけだ。眠っていたか? いや、そうではないと思う。目を閉じていただけで……。いや、それも確かじゃない。そのまま遠くくぐもった物音に目をぐるりと回せば、窓の外から街灯の色が差し込んでいる。そうか、夜だ。真人間のやってくる夜がまた、この街と外の世界を繋いだのだ。今日の俺は妙に正気だな、と俺はベッドの中でひとり鼻をならして、それから昨夜のことを頭の中で再生するのにとりかかった。微笑んだ少女。あれから。


***


 微かに香る、土の匂い。コンクリートの上に広がった血だまりに膝をついて、俺は震える手でかすみの首筋に触れようとする。彼女の胸に俺が突き立てた銀の色が目の端に映り込む。彼女の首に触れる。革手袋の厚みが、感覚を妨げる。手袋を外そうとして、うまく外れず、俺は勝手に震える呼吸を維持しながら、手袋を自分の手から無理やり引き剥がして、心を落ち着けようとひと組揃えにしてポケットにしまった。それからやっと、彼女の首に触れる。脈はなく、死んでいる。彼女の心臓は左胸にあったのだ。先ほど俺を見つめていたように見えた瞳は、もはやガラス細工のように透き通ったままで、その人形じみた顔の中にはめ込まれ凍りついている。俺の冷えた手先が彼女に残った体温を受け取り、それが俺を嫌でも正気にさせた。早く運ばなければほんとうに凍ってしまいかねない。俺は後ずさるように立ち上がると、目を見開いたまま硬直していく死骸の彼女を見下ろし、吸えもしない息を深く吸い込む。冬の乾いた夜気が喉の上をこすり、刺さるようにひりつく。そこでようやっと彼女の胸に刺さったままだった刀の柄に指を触れ、手をかけ、震える右腕を左腕で支え、慎重に、引き抜いた。別に、血が吹き上がったりはしなかった。そうなるだけの血液が、彼女の体内にはもう残っていなかったのだ。刀を腰の鞘に収め、それからやっとその顔を真正面から捉えたように思う。彼女の見開かれた瞼を素手のまま伏せてやり、それから彼女の腰と膝の裏に手を差し込んで、その軽すぎる死骸を持ち上げた。引きちぎれそうにところどころ破れた黒いドレスの端が、染み込んだ血を滴らせながら垂れ下がる。冷気に凍りそうな血液が俺の腕へと流れ、袖の中へと入り込んできた。俺はその感触を恐ろしいと思ったが、それを嫌悪してはならないと自分の頭に言い聞かせる。俺の腕の中で目を閉じやっと眠りにつくことのできた彼女の顔を前にして、その身体を取り落としてしまうことなど、あってはならなかった。その滑らかな水分のねばつきがもたらす寒気までも押しつぶすようにして抱きしめた俺の腕の中から、からりと落ちるものがあった。銀色の輝くなにがし。ぴいんと張り詰めた夜の底に鳴り響いたのは、硬質な白銀の色だった。


***


 俺はベッドに横になったまま、ズボンのポケットに手を突っ込んで、布の重なりの奥に押し込まれていたそれを取り出す。血濡れた麻紐を切って、それから銀の鎖につなぎ直したそれは、かすみが持っていた「彼女の部屋」の鍵だった。かすみを抱き上げ直したあのとき、ポケットに押し込み、それから持ったままだったのだ。通りで枇杷に渡そうとして、けれど死骸を受け取り俯いたまま名残惜しそうに彼女を抱きしめる枇杷を見て、俺は気圧され、すぐにその場を離れてしまった。挨拶もなしに背を向けた俺に向かって、枇杷の声がかすかに届いたように思う。気のせいだったかもしれない。だが、震える少年の喉が「ありがとう」と鳴ったように思えて、俺はますますいたたまれなくなり、通りの角を曲がって俺の足音が枇杷には届かないと確信してから、走ったのだ。どうしたらいいか、わからなかった。どうにもなにもかもが俺の手に余って、飲み込みきれなくて。彼女のあの微笑みを受けてから始まったのだ。俺の中で凝り固まっていた何かが、外れて崩れて落ちて──それからずっと、俺はこの鍵を持ったままだ。


 起き上がる。ベッドのスプリングが軋む音がする。暗がりの中で目を凝らせば、時計の針は十八時半を指している。まだ夜が開いたばかり。茜はもう外に出ているのか。──だが、枇杷はまだ、華屋の中にいるかもしれない。


 髪に櫛を通すのもかったるくて、だから俺はワイシャツだけ着替えて革靴を足に引っ掛け、できるだけ冷静に、さりげなさを装って枇杷に会おうと考えた。会って、これを返しちまおう。これは枇杷のものではないかもしれない。けれど、そうである以上に、俺のものであるはずもない。俺が持っているべきものではない。決して。


 部屋を出て階段を下り、中庭を横目に見ながら枇杷がいるはずの洋館を目指す。暗がりの中に鳴っては消える床板の軋みのリズムに合わせて、俺は昨日かすみの胸に刀を突き立てた時、頭の中に流れた例のシーンをまた再生する。


 声がする。振り返ると戸口に男が立っている。男は刃物を持っている。折りたたみ式の小さな、しかしぎらぎらと凶悪に輝くナイフだ。薄暗い部屋の中、男は「こちら」に近づいて来て、天蓋付きのベッドの上でナイフを振り上げ、馬乗りになられた俺は悲鳴を……違う、あのとき悲鳴を上げたのは、俺ではなく「彼女」だ。あれは、かすみの記憶なんだ。彼女を殺した時に確信した。あの記憶の持ち主は彼女だった。どうやら俺は、いつともしれない昔、彼女の中に「いたことがある」。いや、俺はそれをいつ、どこで見た? 夢? 夢の中か? 覚えていない。何もかもが確かじゃない。いや、確かなことは、あったじゃないか。


 俺がいつか見たその映像の中で、男は泣いている。なぜなら、男は彼女を愛していたからだ。生半可な気持ちじゃない。彼は心の底から彼女を愛して──だから、殺すほど憎みさえした。彼女のために、彼女への執着というそれだけで男は殺人犯にさえなれたのだ。俺はそれを、知っていた。その愛情の確かさは、疑いもなかった。


「『愛していたのに……!』」


 俺のかすれた声が無意識に、喉の奥でそのセリフを再び吐き出した。実在した男の声、台詞が、俺の口を通して今ここに蘇る。男はいたのだ。彼女がいたのと同じくらい確かに、この世にいたのだ。俺はそこで一度立ち止まって息を吐いた。ひゅる、と喉が喘息の患者みたいに鳴るのが聞こえて、自分でもぞっとする。枇杷の部屋があるらしい洋館に続く渡り廊下が見え、じいじいと音を立てるあの古い照明が薄暗く廊下の奥に灯っているのが見えた。俺はそれをじいっと見ていた。見ているうちにその照明が明滅して、かき消えて、あたりが真っ暗闇に帰っちまうのを待っているみたいだった。


 俺は妙な胸騒ぎを覚えながら、足の進むまま渡り廊下から外れて、人気のない中庭に出る。枇杷に会いに行かなくちゃならない。けれど、心がこちらに迷い込んだ。枯れ切った木々の中にぽつりぽつりと残された柊や椿の花の色の中に踏み入って、その木々の影の中でしばらくじっとしていた。きりきりと肌を痛めつける冬の空気だ。吐いた息が白いのが、影の端に注ぎ込む月の光で照らされてわかる。行かなきゃならない。進み出さなきゃならない。わかっている。でも。そのまま白い息の流れていく先を見ていると、枇杷のいる洋館の裏手に、別の色の明かりが灯っているのが見えた。白んだ赤色の、薄明かり。その色味に引き寄せられるようにして影の中からとうとう足を踏み出した俺は、靴をつっかけた足を引きずり、引き寄せられるようにして、とぼとぼとその灯の下へと向かった。


 それまで立ち入ったことのないモダンな煉瓦積みの建造物には、ロビーに入っても人気がなかった。ここにも華屋の連中のうちの誰かが住んでいるのかもしれない。ただ、俺の領分じゃないと知っているから、今まで一度も来なかったのだ。俺はそのときポケットの中にあった鍵のことを思い出し、それを取り出して眺めてみる。銀色が照明の赤色を写し取っている。


 そのとき俺は不意に人の気配を感じて廊下を振り返ったが、誰もいない。椿か? あいつの住まいは俺も知らないが、このへんだと聞いたことがあるような気もする。あたりをきょろきょろと見回しながら、目に見えない影を追うようにして、頼りない明かりの続く廊下を進んでいくと、それから真横に上がる階段に目がいく。足音を聞いたわけではないのだが、階上に何かがいるような、なにやら気味の悪い類の胸騒ぎがする。俺は鍵の感触を確かめるように握り直し、慎重に階段を上っていく。石の手すりに彫り込まれた木々の文様を指の腹で確かめながら、自分の足音が低められて階段に響くのを聞いていた。上階も明かりは点いている。俺はそのまま首が自然と振り返った右方へと折れ、窓の空いた廊下の突き当たりへと進んだ。窓からは、華屋の敷地内に茂る木々の先に、俺と茜の部屋があるいつものアパルトマンが見える。その窓から横に目線を滑らしたとき、そこには薄い青緑色の扉が佇んでいた。


 廊下に整然と並ぶ、金細工の施された扉の中でも突き当たりに位置する、この扉。何らはっきりとした考えもないまま、吸い寄せられるようにふらふらとこの扉の前まで来てしまった。俺はなんだかそこで妙に頭が冷えて来て、はっとして上がってきた階段のほうを振り返る。薄暗い廊下がただじいっと押し黙っているだけだ。俺は扉へとまた目線を戻し、それから自分の手に握り込まれた銀色の塊のことを思い出した。金属の端が手のひらの内側に刺さっている。──まさか。


 指を開くと、鍵は窓から差し込む月の光を吸い込み、俺の手の内で不気味に輝き出したように見えた。鍵を黙って見つめていた後、俺はそのままこの館を出て枇杷のところへ行くのを考えた。俺がこれを持っているのはやはりまずい気がする。いけないことだ。良くないことだ。けれど。俺は躊躇しながらも、薄闇の中でドアノブの下に空いた鍵穴を見つけ、指先でその形を確かめる。いいんだ。ここまで来ちまったんだから。俺はそれから、好奇心のまま、迷う心を押し切るようにしてそこへ鍵を差し込む──と、その鍵は俺の手の中でほとんどひとりでに回り、中の機構がくるりと軽やかに外れて、鍵の開く音がした。俺は鍵の端を指の中に握り込んだまま、動けないでいた。誰もいない息の詰まるような無音の廊下で、俺の心音だけが、低いところから鈍く聞こえている。小刻みに震える手で鍵を抜き取り左手の内に押し込むと、それから重々しいドアノブに手をかける。冷たいはずの金のノブから、ひとの体温のようなほのかな温もりがじわりと伝わってくるような錯覚に、背中がぞわりと総毛立つのがわかる。恐ろしい胸騒ぎが俺の体内を駆け下りていく。だが、俺はこれを開けなければいけない。中には、俺を待っているものがある。何かが、そこにいる。


 思い切って開けてしまうのが怖かったから、俺は、ゆっくりとドアノブをひねり、ドアが木枠から外れて、接着剤が剥がれるような乾いた音を立てながらゆっくりと開いていくのに自分の身を重ね、滑り込むようにして部屋の中へと足を踏み入れた。


 肌寒い、師走の空気だった。

「ここ、は」

 ほとんど俺自身の耳にも聞き取れないような微かな声が俺の喉から漏れ出、俺は次の瞬間には肌寒さにシャツを着た自分の腕をさすっていた。俺の眼前に林立するのは、高くそびえ立つ本棚だ。喉が勝手に息を吸う。そのまま心臓の震えに任せて二歩、三歩と進み出て、俺は鼓動が早まっていくのを覚えていた。見上げる天井の星空と、ぶら下がった橙いろのランタン。がたがたと遠くで揺れる、天球のように俺の頭上に覆いかぶさる窓枠の網目。


 俺は気が急くままに走り出し、あたりを見回す。どこまでも続く、書架、書架、書架──本の森のようなこの場所。


 なぜだ? なぜだ? なぜ忘れていた? 俺はここに来たことがある。そうだ、なんでこんな大事なことを忘れていたんだ? いつだ? 俺は確かにここに来た! そして、そんで……。


 俺は路地裏の石畳の上に落ちた異物たる本の皮表紙の厚さを思い出し、自分の顔に落ちてくる本の群れを、そして、俺の視界を埋め尽くした文字の蝶が立てる羽の音を頭の裏側に鮮明に蘇らせた。見た、見たんだ。俺はここで。俺はあの夜の、夢のように不規則に連なった連続映像が、急に勢い増して自分の頭の中に再びなだれ込んでくるのを感じていた。海と夕日の赤い色、タバコを持った手と、かもめの白い羽と、あばらの中の心臓と、それから、それから……。足を前に踏み出せば踏み出すほどに、あの時見た記憶はますますはっきりしていくように思えた。途切れることなく同じ景色が続く書架の街の中で、幾千幾万もの本の背表紙を通り過ぎる。そうだ、俺はここで誰かに会ったのだ。俺は、ここで。いや、会ったわけではなくて、誰かの記憶の中で、誰かに会った。確かそうだ。


 またひとつ書架の端を通り過ぎ、別の通りが見えてはランタンの明かりが書架の影に消え、姿を現し、また、消える。俺の足は勝手に早まっている。ふらつく足と、当然として同様にふらつき明滅する俺の視界の中で、またあのラブシーンが、勢い持っていつよりも鮮明に蘇る。男は言う。「愛していたのに」と、何度も何度もこちらに向かって言う。男の流す涙が「彼女」の頰に落ちる。額に溢れて広がった熱くて生ぬるい涙の温度を、「彼女」は死ぬまで忘れない。痛みと熱さが混ざり合うほどに、男にきつく握りしめられた自分の腕の非力さを、「彼女」は誰より知っていた。「彼女」の記憶から消えない、男のあの目の色さえ、「彼女」には、温度を持って「彼女」自身に迫ってくるように思えたのだ。俺は自分の足が止まっているのに気づく。歩けやしない。重くて、重たくて。俺は体の重さに引きずられるようにして、その場にへたりこんだ。この鬱蒼とした本の森の中で、「彼女」の記憶を思い返し再生する限りにおいて、「彼女」とはすなわち俺だった。男はナイフを振り上げる。見ていられないほど殺意に尖った銀色の刃先を見て、俺は目を閉じ、片手を振り上げて自分の身を庇う。そうしながら、もう、諦めていたんだ。受け入れることにしたんだ。刃先がその胸に沈み込み、赤い海の中に浸かって、そこからとめどない痛みが吹き出すのを。なぜなら、俺は男にそうさせるだけのことをしたのだから、仕方がなかったのだ。そうだ、俺のことを殺すほどに愛していた男を、そうだ、俺も──。瞳からはかなくこぼれ落ちる、温度。


 口の奥に血がこみ上げてきたような気がしたが、それは彼女の記憶の一部に過ぎなかった。俺は再び立ち上がり、凍える書架の街の中を歩き出した。俺は、そうだ、ここで会ったんだ。足が重く、胸には「刺されたような」熱い痛みが広がっている。通り過ぎる書架と書架の間、息せききって進むこの、果てのない書物の森の中の、果ては──。


 きんいろの髪。


 息が止まる。目が勝手に見開かれる。時間が進むのをやめる。声がでない。俺の指先は勝手に丸まって、俺の手の内側へと入り込む。足が棒みたいになる。音が、止んで。


 俺の足が止まったその書架の通り、そびえ立つ書物の建造物の間に挟まれて、間遠く「彼女」が、立っていた。白い金色の髪がサテン地の黒いドレス地の後ろでさらり、さらりと揺れている。勝手に開いた俺の喉の奥から、あ、と動物の鳴き声のような息が漏れて、それからやっと、凍っていた俺の体が動いた。彼女は、木偶の坊みたいによろよろ歩く俺を、女神みたいな微笑みを浮かべた顔で見守り、そこに留まっている。緩やかに持ち上げられた口角が、彼女の均整のとれた顔つきに華を添え、彼女を可憐な一己の少女として完成させていた。彼女は、その完璧な表情のまま、こちらに微笑みを投げ続けている。ひゅう、と喉から肺までが筒抜けになったように息が通って、俺は倒れこむ身体を支えるように足を前に踏み出し、踏み出し、よたよたと揺れる視界の中を、彼女に向かって近づいていく。


「なあ、きみ」


 自分の喉がぜいぜいと勝手に音を立てるのを俺は聞いていた。俺が殺した彼女がそこに立っている。殺したはずの彼女が。けれど、近づかないまでも、どんなご立派な証明を受けるまでもなく、それが明らかに彼女本人であるということを、俺の心臓はわかっている。ほんとうはあり得ないことが、今、目の前で起こっている。おかしなことになっている。こんなもの、幻覚に違いないと思うのが普通だ。けれど、俺には彼女に言わなきゃいけないことがある、という頑迷なまでの使命感が、どうしようもなく俺の胸を支配しているのだった。その性急さに比べたら、眼前に広がる全ての奇妙さなどというものは皆、取るに足らないことだった。自分がどんなに不恰好だろうが関係ない。俺は自分の心臓が求めるままに腕を上げ、その指先を彼女のまなざしの上に据えながら、逃げていかない彼女の立ち姿に向かって、ふらふらと震えて距離を詰めて行った。


「なあ、ごめん」

 彼女の薔薇色の頬は、ああして打ち合った時よりもずっと人間じみて俺の眼に映る。

「頼む、ごめん……俺──」


 そうしているうちに、俺は彼女までほんの数歩というところまで来てしまっていた。俺はそこで、改めて恐ろしくなって立ち止まり、彼女の顔を改めてまじまじと見つめた。好奇心の強そうな生き生きとした顔の中で、彼女の橙の瞳はその奥に深い色を持っていて、その一番奥から、まっすぐに俺のことを見つめているのだった。これから大事なことを喋らなきゃいけないっていうのに、声を出す前から自分の声が震えてしまうのがわかる。でも、喋らなきゃならない。胸を落ち着けようとして息を吸う。まともに吸えなくて、調子外れに空気が喉の上につかえる感じがする。


「俺、知らなかったんだ……いや、『知っていた』……! そうだ、知っていたのに、思い出せなくて……君を」


 彼女は、まとまりがなく、支離滅裂とした俺のその言葉がたどたどしく紡がれるのを、ただ黙って聞いていた、何にも言わなかった。けれど、彼女は俺の一言一句をその全身で聞いている。聞き届けようとしている。話し終わるのを待っている。


「俺、君を」


 俺に向かって微笑みを与え続ける彼女の前で、俺だけが泣きそうになっていた。なんで泣きそうなのかも定かじゃない。なにもかもが曖昧なのに、心臓だけがどくどくと俺の手先や足先へと血液を送り出し続けるんだ。相変わらず俺に向かって微笑んでいる彼女の顔立ちに、俺は体内に、心臓が緩やかに胸の中で潰れたような、堪えきれない熱さを覚える。自然と手が伸びて、けれど、俺は彼女の頰に触れるには至らなかった。その深い瞳の中に俺が見るのは、コンクリートの上に広がった赤黒いしみと、それに不釣り合いに柔らかな、君の微笑み。俺は、自然と自分の左胸を押さえていた。


「……痛かったろ……?」


 出し抜けに溢れたのは、情けないほど震えた声だった。そうだった、こんなことだけを、俺は彼女に言わなくちゃならないと思っていた。これだけを──これだけは、言ってやらなきゃならないと。彼女はそこではじめて、例の完璧な微笑みを崩して、気まずそうに肩をすくめ、困った顔をした。


 そうだ。この、こういった類の顔だ。けものを殺すなんて簡単だと思っていた。人間でないものを、醜い化け物を屠ることなど、なんてことないと俺は思っていたのだ。だけど、あの微笑みはいけなかった。彼女に馬乗りになって刀を突き立てる俺と、微笑みでもって鷹揚に終わりを受け入れる彼女と、あのときどっちが人間だった? それが頭にのぼった瞬間に、俺は、なにもかもわからなくなった。俺はもう自分を怪物の一匹に数え上げていた。だから、人間の掟になんて縛られるなんてくだらないと、自分はもう悟ったと思っていた。なのに、君の微笑みを見た瞬間、自分がまだどれだけ、その人間の掟に縛られて苦しむ心を持っていたかということを、嫌という程思い知らされたのだ。


「俺は、君のことなんか、語れるほどにも知らないけど」

 彼女の下がった眉を見て、俺の口は増して饒舌になった。

「なあ、君、ずうっと……生きていたんだろ」


 俺の奇妙な問いかけは、しかし俺の心の一番底から湧き出し、言葉になって溢れたものだった。あの凄惨なラブシーンの裏にある彼女の抱える感情と、あの結末に至るまでに彼女が歩んだ道のりの全てを、俺は決して知りはしない。ただ、確かにそれが「あった」ということしか、俺にはわからない。彼女の顔立ちをずっと見つめているうちに、俺は、彼女の顔が血に濡れておらず、黒いサテンのドレスは新品のように美しく、彼女の足には華奢な靴がきちんとはめられているのに気づいた。彼女の左胸には、刀やナイフが刺さった痕跡などない。はっとして彼女の顔を見つめた後、ふいと、彼女の身体が蝶のように舞い上がったように見えた。いや、実際には、彼女は軽やかにこちらへと足を踏み出して、そこに依然として空いていた俺と彼女の間の残り数歩の距離を埋めたのだ。透けるような白い金の髪。彼女の肩からは、日差しの匂いがする。


「みつけて」

 寄り添った彼女の頰には、温度がない。間近の彼女は星みたいで、彼女自体が光っているように思えた。俺の視界の外側で、彼女の顔が俺の頰に触れている。


 彼女の唇が俺の頰に触れたかと思った瞬間、彼女の姿はぱあんと弾けて、黄ばんだ白い紙片へと破裂した。俺が抱きしめ損ねた彼女の背中があった場所から、無数の文字を背負った紙の蝶が飛び立って、俺の視界がぐらりと暗がりに落ちる。真っ暗闇の中に背中から落ちながら、俺の目は、遠く飛び去っていく白い羽ばたきを、永久に追いかけているように思えた。



 きんと冷えた冬の廊下にひとり取り残された俺は、泣いていた。訳も分からないまま内側から滲み出た俺の体温が、目から液となって溢れたかのようだった。俺は、それが俺の涙とは思えなかったし、かと言って誰の涙とも言い切れなかった。あのとき渾然一体となって自他の区切りも曖昧に彼女を内側から見ていたとき、俺の心臓は彼女と溶け合っていたように思った。そうだった。誰のものとも思えない涙が頬に流れるまま、その涙の跡が師走の冷気にひりひりと乾いていくのを俺は覚えていた。俺の手の中で握り締められて、刺さるように冷たく形を保ち続ける鍵の感触だけが、その暗く狭い廊下の上で、俺を俺たらしめているのだった。



 視界がおぼつかないまま、左手に鍵だけを握りしめ、俺は何が何ともわからず洋館から這い出してきた。今まで何をしていたのか、それがどうも確かでないのに、左手の鍵の硬さが手のひらに刺さるたび、鮮烈な血の色と、誰かの微笑みが目の裏に蘇る。「誰か」? 違う、俺が殺したあの子、あのひとだ。ほら、あの金色の。


「みつけて」

 脳の裏側に刻み付けられたその言葉を口の中で何度も繰り返しながら、葉叢を踏み倒して中庭を歩く。みつけて、みつけて……。

 こちらを見つめる橙色のひとみの色が、目の裏側に映り込む。喉がその名前を吐き出そうとする。

「かすみ」

「かすみ……」


 誰かの口が繰り返したその声にふと顔を上げると、中庭には先客がいた。抜け目ないあの鋭い目線が捨て落とされたような顔をして縁側にかけているのは、枇杷だ。俺の呼んだ名を繰り返した枇杷は、ぼうっと惚けて月を見上げていた顔をふいに俺の方に向けると、それからみるみる顔を強張らせて立ち上がり、よろける俺に向かって掴みかかった。


「そうだ、あの子、あの子は」


 ほぼ反射的に見えたその動きの先で俺のシャツの襟を荒々しく掴んだ枇杷は、俺が恐れに引きつった顔をしているのを見て息をのみ、それから、ゆっくりと俺のことを放した。それから何か言い訳でもしようというのか、言葉の出てこない口を開き、しばしその目線を足元に散った柊の花に向けていたが、やっと長らく喉に詰まっていたものを吐き出すように、戸惑いながら声を出した。


「首が、繋がっていたんだ」

 いつよりもまごつきながら喋る枇杷は、そこでやっと亡霊のように彷徨っていた目線を俺に向け、それから思い切ったように声を出した。

「お前が殺してくれたから」

 それから、目を見張る俺の前で、枇杷はまるで泣きそうに唇を噛んだ。

「僕は、あの形のままのあの子に、会えたんだ。会えたんだよ」


 枇杷がそう言い終わるまでの間、俺はずっと左手を握りしめていた。枇杷の言葉を受けるたびに、なぜか遠く消えかけていた、彼女の美しいきんいろの立ち姿が記憶の彼方から蘇る。枇杷は言うべきであったことを全て果たしたような顔で、しばらく肩を上下させていたが、それもだんだんと落ち着いていった。その顔に、いつものような素性のしれない鋭さが戻っていくのを見ながら、俺は元の目的をやっと思い出し、慌てて、左手の中で温まりつつあった銀の塊に気づく。そうだ、これは、この鍵は、彼女の形見だ。彼女というひとが存在したことの象徴だ。明かしだ。


「なあ、これは彼女が持っていたものなんだが」

 俺が自分の指を開くと、手のひらの中の鍵の面が月の光を鈍く反射し、枇杷はその様子をじいっと見ていた。

「あんたが持ってた方が、いいと思って」

 そうして俺が手を差し出す前に、枇杷は眉根をひそめた困惑の表情でもって俺の動きを押しとどめた。それからいくつかの空白の瞬間の後で、その口がかすれた声を発する。

「何の話をしているんだ?」

 は、と思わず声を漏らしながら、俺は、枇杷の一流役者の演技じみた声音に自分の顔がひとりでににやつくのを覚えていた。

「どうしたんだ? あんた急に」

「どうしたって?」


 俺の半笑いの問いかけが虚栄心の障りにでもなったのか、枇杷は憤然としてそう返す。俺は面食らって、そのままぶっきらぼうに声を上げる。

「今しがた話してたろうが! あんたが、『俺が殺したから』って……!」


 そう言いながらも、また俺は自分が話そうとしていることが何なのかわからなくなりかけていた。気持ちばかりが急くが、刻一刻と、話すべきことがどこかにごっそりと流れて消えていくような、耐え難い違和感が胸を襲う。鼓動が早まっていく。


「話?」

 枇杷が俺の後ろに広がる庭の景色をぼうっとした顔で見つめるのに気づき、俺は手元に残った言葉でもって無理やり喋ろうとする。

「彼女だ、彼女のことだ、あの子、あの子の……」

 あの子、そうだ。俺はあの子のことを喋らなきゃならない。そうだ、枇杷に言わなきゃならないことがたくさんある。謎めいたままのことが、数え切れないほど──。

「酒を飲んでるな?」


 枇杷のその声に、俺が奴の顔に目を戻すと、その顔はいつものようにあの底意地意地悪い歪みを取り戻していた。俺はその、演技にしては精巧すぎる奴の「平常さ」に、恐ろしいほど違和感を覚えていたが、しかし、その違和感の真相を突き止めるだけの言葉が、俺の口には上ってこない。

「酒を飲んでるのはあんたのほうだろ? だって、今もあんた……今まで俺たちが話してたことを、まるで、すっかり──」


 すっかり、と続けようとする俺を、一瞬どこか遠い目で見つめた枇杷は、そこでやはり狂人を見る目で俺を見て、それから、にや、と目元を微かに歪めた。

「話は……終わったろ……?」

 俺は、寒さを思い出したように腕をさすり出した枇杷を見つめ、しかし、妙な消化不良の感覚にどこへも足を踏み出すことができなかった。

「……終わった、けど……」


 頼りない俺の声と、あれだけ盛んにこみ上げていたのに、俺の胸の中で音もなく消えていく違和感の渦に、俺はそこでついに、恐ろしいほどの寂しさを覚えていた。正体不明の「何か」が、まるごと俺の中から抜け落ちていく……。俺は今一体どんな顔をしているんだろう。枇杷は俺を見、その目元に漂っていたにやつきを自分の内へと引っ込め、今度はまるで怒ったように目を細めた。


「妙なことを言うもんじゃない」

 頑迷に立ちっぱなしの俺に視線を向けながら、枇杷はそこで、俺の覚えている限り初めて、不可解さから来るのであろう一種の恐れが入り混じった目線を俺に向けた。

「君、へんだよ」


***


「遅くなってしまったわ」


 艶やかで頑丈な長い髪を揺らし、黒衣の女は書架の間を急ぎ足で進んでいた。歩くたび、彼女のブーツの底が、一定のリズムでかつかつと正確に床板を叩く。そして、彼女の後ろにも、別の足音が一つ。いつものおどおどとした様子をおくびにも出さず、長い前髪の下に眼鏡をかけた女が同じように黒衣を纏って、いらいらと先を急ぐ彼女に従っている。眼鏡の女の腕の中には、薄い金色の髪をした血まみれの少女の死骸。


「今は何時?」

 前を歩く女に問われ、眼鏡の女は少女を抱えたままの腕に巻きつけた時計など見ることなど適わず、

「四時ごろかと」

 と短く返し、それから、

「まだ日は暮れておりません」


 とさらに続けた。それを聞いた女は苛立ったように鼻からひとつ息を吐いて、すかさず何かを短く呟いたが、眼鏡の女にはそれが何やら聞きとれなかった。肩越しに通り過ぎていく幾多の本には目もくれず、黒衣の女は前へ前へと歩き続け、それから急にぴたりと足を止めた。眼鏡の女も立ち止まる。広大な書架の森の中で、空気がぴいんと張り詰めて、全ての音が止んだ。目の見えない女は、しかしそこでその濁った陶器のような目を見開いて、彼女の暗闇の中に懸命に何かを探している。女はそれから周囲を手探りし、手近の書架に行き当たると、そのままぶつかった本に向かって歩み寄り、身を寄せ、本の背表紙に耳を押し当て、しばらくそのままじいっとしていた。眼鏡の女は、目の前の女の奇妙な動きを何も言わずに見つめ、少女を腕に抱えたまま身じろぎもしない。すると間も無く、本に身を寄せていた女はその身をぶるぶると震わすと、それから堪えきれないように微かに声を漏らし、まるで少女のように不安定な笑い声をころころと震わせる。それから彼女は優しく目を伏したまま、本の背表紙に頬ずりした。


「ねえ、これでまた、ひとつよ」


 恋人に愛を囁くときに女が使うような類の、低く濁った声の響きに、眼鏡の女は身震いする。彼女は、黒衣の女のそういった声づかいを毎晩のように同じ寝床で聞くのだった。しかし本来そんなのは、彼女にとっては究極どうでも良いことだった。眼鏡のずれで歪んだ視界の中で腕に抱えていた少女を床に下ろすと、女は少女の髪が床板の上に広がるままにした。それから、色のない空から降ってくる星の光を忌々しそうに見つめて、なおも微笑みながら本の背表紙に寄りそう女へと目線を下ろす。彼女は名残惜しそうに本に張り付いたままの黒衣の女の手を書架から引き剥がし、それから本の方にまた戻ろうと子供のようにぐずる女を無理に抱き寄せる。彼女は、嫌がる女を両腕のうちに捕まえて押さえつけると、女の耳元に口を寄せ、そっと名前を呼んでやった。


「とよ」


 ぐずっていた女は徐々にその息を落ち着けていき、彼女の腕の中で暴れるのをやめた。それから彼女が優しく手を引くと、女はおとなしく彼女の手に引かれるまま、ふらふらと来た道を戻るように歩を進め出した。おぼつかない足音が遠ざかり、やがて書架の通りからその響きが消えていっても、少女の死骸はそこに置き去りにされていた。彼女の纏う黒いサテンを照らす、ランタンの仄かに暖かい色味の下で、彼女の閉じた瞼は群青の空を見つめ続けている。凍りつきそうな彼女の死骸は、もう土と同じ温度にまで還っていた。


 どのくらいそうしていただろう。真に人形の如く青白い肌をして横たわった彼女に、きいきいと耳障りな音を立てながら赤い光が近づいて、それから、彼女の体を丸ごと抱き上げ、奪い去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る