24話 食らい食らわれ朋輩の髄

 思わず、と言った様子で北崎と制服たちが立ち尽くしている間に、まもるは地面を前足で蹴り出してあっという間に北崎の前に迫ると、低い姿勢から腕を振り上げ、その鋭く尖った爪先を持った右足で、北崎の顔を撫で上げた。その場にいた誰もが凍りついたまま、まるで、まもるだけが時間を動かしているような、そんな気がした。空に向かって伸びたまもるの指先から血が吹き上がるのが見えた時、やっと広場の奥から怒号が上がって、ぎりっと目元を歪めた優男の制服がまもるに摑みかかろうとするのが見える。私が腰の抜けたままそれを見ていた時、聞き慣れた「おい」という声が私をそちらへ振り向かせた。私の肩に添えられた手から辿っていった先に、私の泣き腫らした顔を覗き込む市井の目があった。


「お前は面倒ごとに巻き込まれるのが本当に得意だな」

 間髪入れず私の体は持ち上げられて、私は打ち破られた鉄の扉の外へと投げ出される。そうすると、すぐさま、みなみちゃんが私の身体に寄り添った。ここで待ってくれていたんだ。

「助けに、きて」


 私の声がそんなふうに頼りなく震えているのを聞いている人なんて、ひとりもいなかった。私が目を離している隙に、血に塗れた動かない左腕をぶらさげて、まもるは電灯の柱を伝って空へと駆け上がり、腕を振りかぶる優男に飛びかかろうとしていた。優男の上に落ちるまもるの影──そのとき、


「まもる」


 市井の呼び声に空中でびくりと身体を震わしたまもるは、無理矢理に身体を翻して、優男が振り下ろす手の描く弧の軌跡から逃げ延び、飛び上がってから、私たちのいる側へと四つん這いに降り立った。今日はちゃんと他のひとの声が聞こえているらしかった。確かに、前に見たあの恐ろしい姿よりも、今日のまもるはいくぶん人間ぽいような気もする……。私がそんなことを思っている間に、近くからびぎり、と生々しい音がして、壊れて垂れ下がっていたまもるの左腕が元の形を取り戻す。それからまもるは、苦しそうにこうべを垂れると、胸を抑えてうずくまり、それからすぐさま、勝手に動き出しそうな自分の足を抑えたまま、ぐっと頭を上げて制服たちを睨みつけた。


 まもるの肩越しに見える北崎は、顔を覆ってその場に崩れ落ちていた。けれど、それでも何かに抗うように膝をついたまま上体を起こして、うめき声ももらさない。その肩は震えている。でも、その震えはきっと痛みではなく、怒りの震えだ。けれど、やっぱりその覆った手の隙間からは血がとめどなく流れ落ち続けていて。


「お前は」


 絞り出されるように濁ったその声が、北崎のものだとすぐには気付けなかった。北崎の口から硬い音が漏れた後、彼はぐいと力任せにその頭を持ち上げ、その顔に張り付いていた血まみれの白手袋を、無理やり引き剥がした。そこに現れたのは、血の仮面に覆われたぎらりと光る手負いの獣のような瞳だった。あの自信に満ちた役者のような美男子の顔は、彼のほんとうの姿ではなかったんだ……! 私は、北崎と私の間に立ちはだかっている市井とまもるの肩越しに見えたその顔に、思わず喉の奥が詰まるような恐ろしさを覚えていた。美しかったはずのその顔は輝きをなくして、ぎらぎらと執念深く輝くその目の中に、あの落ち着き払った役者らしさは消えてしまっていた。


「お前は、そうだ。それがお前の『口の利き方』だったよなあ」

 酒に酔った大人みたいに、北崎は自分の顔から血が流れるのを止めないまま、よろめきながら立ち上がって声をあげた。びたびたと自分の血がしみた白手袋の手を差し出して、北崎はそれから、痛みを忘れたように、笑った。

「けものだ、お前の本性は」

 そうして嘲笑うような北崎の声は、目線は、たった一点に向かって注がれている。そして、彼が見つめるその相手は、私ではなくて、市井でもなくて。

「初めてあった時から、分かっていたぞ」


 北崎には、彼を支えるようにしてその傍らに膝をつく女の制服のことなんて、見えていない。彼が見ているのは──まもるだけ。そうして、おどけたように緩んでいた北崎の目元が、何の前触れもなく怒りに燃え上がった。


「お前は、けものなんだ! 人間もどきめ! お前は、ここにいるやつらとひとつも変わらない! 思考を持たない、ただの、動物だ!」


 そうして北崎は、物言わぬ大衆を指し示すように手を振り回し、それから痛みを思い出したように血の下の顔を歪めて、ぐらり、と倒れそうになる。それを、後ろから近づいた優男が半ば抱きとめるようにして支えた。俯いた北崎は、それからふっとため息をつくように力無く声をこぼす。


「蹴りをつけよう」

 その言葉に市井の肩がびくりと動き、持つ斧の刃先がきり、と高い音を立てて石畳から離れるのが聞こえた。

「私は、私の舞台の邪魔をする者を、許しはしない……」


 もう一度戦いが始まってしまう、と足が震えるのを感じながら、私の目は、私が思っていたよりもずっと冷静に、広場の全てを見渡していた。取り乱して北崎の元に駆け寄った女に手を解かれて、煌々と照るライトの下に頼りなく立ち尽くす、小さな人影──。


「お願い、あの子を連れて」

 その言葉に市井が振り返る。

「逃げて!」

 恐ろしく早く私の意図を汲んだ市井は、眩しい光の海へと何の迷いもなく飛び込んだ。


***


 見える、視える、観える。月の光だけが頼りの、真っ暗な路地で俺の目に映るのは、男の振りかざすナイフの切っ先が引く、白い線だけ。しかし、俺には見えていた。奴が何を狙ってその腕を振るうのか、俺にとって一番生存率の上がる身のこなしはどうであるのか、どのルートをとれば、俺がやつの一枚上手に滑り込めるのか、俺にはわかるのだ。そして、俺が決してこの男に押し負けるようなタマじゃないってことも、わかる。俺には、「勝機がある」。それも、吉見なんかをぶちのめす時とは比べ物にならない、「辛勝」の香りが、やつの斬撃を受け取るたびに、俺のこの鼻に、面白おかしいほどに匂って匂って仕方ない。この男をのしたら、こいつの血まみれの死体を踏みつけたら、ああ、どれだけ脳汁が出るかってことだ。そう思うだけで、俺は! そうだ、俺はこいつとどれだけ殺り合ったところで、「俺が死なないこと」を知っている。それなら、好き放題やったっていい。これは、どこまでも現実的な空間の中で起きる、至上の「暇つぶし」だ!


 俺の日本刀の間合いの内側にばかり入って鬱陶しい奴に向かって、俺がとっときの一撃を見舞うと、奴はそれを右手のナイフで受け止めながら、後ろに飛び退る。奴の靴からは音が立たない。足袋でも履いてるってことなのか? 奴は俺から離れたまま、さりげなさを装ってナイフを持ち替えた。今のを食らって手がしびれないわけがない。だが俺はまだ、このお遊びをここでしまいにしたくはなかった。まだ勝負を決める段階じゃない。こんな簡単に終わっちゃたまらない。コンクリートのざらついた面に靴の裏を擦り付け、じり、と奴との距離をわずかに縮める。枇杷に後で叱られようが、知ったこっちゃない。俺は、楽しく生きるためにここで生きているんだから。


「こんどはあのうっとおしい力を使わないんだな」

 俺がにやにやと声を上げると、奴はしびれた腕から目を上げて、あの紅の瞳で俺を見た。その瞳に温度はない、が、それは俺よりもずっと冷酷な人殺しの目だ。俺が煽ったところで、奴は言葉を発さなかった。

「真面目くさった顔してら」

 俺は、奴が、自分の利き手の痺れを確かめるようにその手を腰のあたりにぶらさげて、握り、開き、と繰り返しているのをしっかりと見ていた。思っていたよりリカバリーが早い。まあ、そうでなくっちゃな。

「お前だって、ほんとは忠犬なんかじゃねえんだろ」


 そう口にしながら、今度はどう目の前のこいつの寝首を掻いてやろうかと、俺は直近の未来を妄想して、口の奥からどっと唾液が出てくるのを覚えていた。俺が動かす舌に、唾液がうっとおしいほどに絡みつく。


「俺を殺したくってたまんねえのがさ、臭うんだよ、お前……血生臭え、お前のその心臓の中から溢れて止まんねえ俺への、どろっどろに濁った殺意だ。……押し殺せてると思ってんのか? そのお上品な澄まし顔で」


 奴は顔を変えない。だが、怒っているのがわかる。眉根一つ動かさなくとも、奴の目が、俺に対する殺意を持って勢いまして燃え上がるのが、俺にはわかる。顔のことを何か言われるのが嫌らしいな。じゃあ、痛いとこをもっと突いてやればいい。そうだ、お前が俺を「殺したいと思えば思うほどに」俺は、強くなる。


「ほんとにバレてないと思ってんだとしたら」

 奴がナイフをまた右手に持ち替えた。いいぜ、早いとこ、続きだ。

「マジでイケてるぜ、お前」


 俺の台詞の語尾が消えない内に、奴は一気に俺と間合いを詰めた。それを俺は分かっていたから、奴の体と俺の体の間に刀を滑り込ませて、奴の胸元を刀の切っ先で撫でるように切りつける、が、肉よりももっと硬い感触が俺の手へと返ってくる。身を翻した奴の衣服の破れた隙間から、鈍い鉄色が光って俺の目の端に映る。妙に動きが重い気はしていた。それに、やたらと間合いを詰めてくると思ったら。


「そりゃあ、お前だって死にたくないよなあ!」


 俺が振り抜いた刀が返らないうちに、奴が、ナイフを構える右手を俺の脇腹に叩き込もうとしているのがわかる。これは、避けても一撃貰うな。このくらいじゃ致命傷にはなりっこない。それに俺は、ただじゃ斬られてやらないことに決めてんだ。このまま一撃貰えば、奴の動きは嫌でも止まる──俺に縫い付けられて、止まる。だから、俺がぎりぎり手首を返せば、奴の首を狙える。そう決めた俺は、奴の右手を避けなかった。左の脇腹に突き刺さる、馬鹿でかい棘のような、激痛。俺はそこから発される危機的な信号の波に逆らって、夢中で手首を返し、その切っ先を奴の首元へ向かって──。俺の銀の刃先が月の光の下に透き通り、奴の首へと届きそうに伸びて、そして。


 奴は顎の下についたかすかな切り傷を拭い、あの淡々とした表情のまま、月光の下に黒い影を伸ばして向こうに立っている。その無表情の味気なさとは対照的に、俺の横腹には奴が残して行ったナイフが突き立ったままだ。ぐ、と喉の奥から血の匂いがしてくる。内臓をやられた。


「やっぱりそうだ」

 何の色味もない声でそう言いながら、男は腿に付けていた細身のナイフを外して手に移し、それからまた口を開く。

「お前が俺の動きをどれだけ予期できようが、お前の身体がその全部に追いつくわけじゃない」

 奴の紅の目はやはり震えない、だが、奴が笑っているのがわかる。あいつが今俺に向けているのは、なんとも腹立たしいことに、まさしく狩人の目だ。

「帝都の警察ってのは鈍ってんだな」


 奴がそう軽口を叩くのをまともに受け取りながら、しかし俺の腹の底からは、止まることのない高揚感のようなものが湧き上がっていた。俺は脇腹に突き刺さったままのナイフの肢に手をかける。


「俺ぁもう、警察じゃねえっつってんだろうがよ!」

 力任せにナイフを引き抜けば、溜まっていた血が勢いよく吹き出す。しかし、それがむしろ俺の高揚感に拍車をかけた。ああ、そうか、やっと楽しくなってきやがった。

「狂犬が」


 どこか鬱陶しそうにそう嘯く奴を尻目に、俺は俺が動くのを待っている奴に向かって刀を構え直し、足を蹴り出す。ああ、そうか、俺は今まで、どんだけつまんないことをして来たんだろう。俺の大振りな剣撃をナイフで機敏に受け流しながら、奴は妙に流暢になって言葉を吐く。


「お前は、外じゃ国の犬、今じゃ、あの女郎蜘蛛の犬で」

 俺の持つ刀の刃先を削り落とそうとでもするかのように、奴は慣れた手つきでナイフを滑らせ、俺の持つ刀の鍔にその刃先を叩きつける。

「頭ッからケツまで下僕風情」

 奴の声音の温度のなさが、肉迫するたびに実感を持って耳に刺さる。奴は、俺の目の前で、息をしている。

「吐き気がする」


 意固地なまでに表情を変えない奴の気の長さを見て、とうとう笑いがこみ上げて来た。可笑しさを抑えきれなくなったっていうところだ。そうか、そうか、こいつは、俺は。


 俺の突拍子も無い笑い声に警戒したのか、奴は俺から間をとった。そうして、俺から目を離さないまま、切り刻まれて垂れ下がっていた両袖を邪魔そうに破りとる。その両袖の中からも覗く、鈍い鉄の色。こいつは勝ちに来ている。そして俺も、こいつに勝とうとしている。それに、さっき俺がこいつから貰ったこの脇腹の痛みは本物だ。今もほら、血が滲み出てやがる。この痛みは、熱さは、この、死に方足突っ込む恐怖心は。


 本物だ。


 俺が一つ息を吸って駆け出し、奴と間を詰めると、奴は短く持ったナイフを俺の首元に下から叩き込もうとする。俺はそれを、間一髪で上向いて受け流す。耳の端が、切れる。だが、今度は俺も押し負けてやらない。俺は奴が振り上げた右手の下へと刀身をめりこませる。脇なんかに装甲はできっこない。刀の先が鉄の感触の先で、確かに肉を切るのがわかった。奴が反射的に身を翻し、曲芸師のように左腕で逆立ちになって俺から大きく間を取るのが見える。そんなこともできるんじゃねえか。最初ッからやれってんだ。俺は、もっともっと前から、こうやって殺し合いたかったんだからよ。


 そうだ、これは、正真正銘の殺し合いなんだ。「暇つぶし」なんかじゃ無い。本物の、殺意のぶつけ合い。血みどろの戦争。俺は、死ぬかもしれないこの戦場で生き残ろうとしている。事実として、この身に突き刺さる、殺意の下から間一髪逃れるこの快感……これは、俺がこの世界で受け取るどんな快感よりもずっとずっとずっと、ずっと、最高に、でかいんだ。知らない白人や吉見なんていう、俺に歯向かえっこないのを相手にしたときの、あの単純で一方的な加害の喜びとは比べ物になりゃしない。俺は、安全圏にいるんじゃだめなんだ。びりびりとこの身が裂けて、千切れて、それでも死をかいくぐって生き残ることだ。俺の目の前にいるこの男の首を、俺自身が殺されそうになるところ、すんでのところで掻き切ってやるってことなんだ! 俺のこの手が振るった刀の弧の中で、こいつの首から血しぶきが上がるのを見たら、転がったこいつの頭を俺の靴の裏がふみつけたら、俺は、熱くて、熱くて、きっと壊れちまう。それって、最高だろ。これは俺がここに来て与えられた、間違いなく至上の「遊び」。


 首を持ち上げた俺から目線を外して、仏頂面はひらりと手を払う。

「きったねえな。唾がかかった」

 男はナイフを左に持ち替え、右肩をやや持ち上げている。妙なところを切りやがったって顔だ。まあ、そうであることに違いはない。男は俺の方にようやっと目を向けた。

「俺は」

 奴が左腕を振りかぶる。

「犬は嫌いなんだよ」


 こちらに向かって振られた腕から飛んでくるナイフを撃ち落とした時には、奴は既に俺の数歩前に迫っている。奴のナイフに応戦して刀を構えるには、どう考えても時間が足りない。だったら。


 俺は、奴のナイフが届くよりも前に、奴の胸に向かってすんでのところで足を蹴り出した。意表を突かれたらしい男は、俺の蹴りをモロに食らって、生理的な動きのまま腹を抱えるようにして吹き飛ばされ、足を開いて耐えたところで、ぎり、と紅の目の奥から俺を睨んだ。


「お前には信念があるようだが、俺にはないんでね」

 斬りかかる俺に向かって、奴は意地でもって左手のナイフを振りかざしながら、がらがらと濁った声を絞り出す。

「そうか、じゃあ俺もここで、そいつを捨てる」


 そう言った男は、俺の剣撃をその装甲した腕で受け止め、俺の持つ刀をその関節に挟み込む。刀が動かないことに俺が怯んだ一瞬の間に、俺は奴が突き出す右手の動きを受け流せないように足を踏んでしまっていた。俺がやっと刀を諦めて手を緩めた時、ナイフを持たない奴の右手が俺の頭を掴み、そのまま俺の頭を背後の壁に向かって叩きつけ、ざらりとしたその壁面に擦り下ろした。後頭部に走る、熱すぎる痛み。


「ハゲたらどうすんだッてめえ!」


 獲物を失った俺には、もうクソも味噌もない。俺は夢中で奴の右手を掴むと、さっき俺が切りつけた傷口が開きやがれと思って、その手を俺の頭から引き剥がし、力任せに振り飛ばした。俺から引き剥がされる最後の一瞬、奴の左手のナイフが俺の顔に切りつける。俺の視界の中、距離を置いてふらりと立ち上がる男は、もう万全ってわけじゃない。俺と同じで。男は仏頂面をしたまま、俺の血のついたナイフをこちらに差し出して、


「男前になったぜ」

 と、息を荒げている。クソ野郎。ますます、殺さなきゃいけなくなってきたじゃねえか。いや、最初ッから殺すつもりだったけど。


 疲弊しているが、相変わらず俺に負ける気は無かった。駆け出していた俺はコンクリの上に落ちている自分の刀に向かって飛びつくように滑り込み、背後から容赦無く腕を振り下ろす奴のナイフから危機一髪身をかわすが、刃先がひっかかったコートはびりりと嫌な音を立てて破れる。ああ、これじゃあ高峯さんにぶちのめされるぜ。多分高いんだよな、この上着。


 痛む脇腹から体力がこぼれ落ち抜けていくのを覚えながら、それでも俺は、この殺し合いの果てを求めていた。目の前の景色がくらくらと傾き始めているのがわかる。ここに長居しては、勝ちも負けもないこと、この調子では、いずれ手ひどい一発を食らって、こいつの頭を踏みつけるどころじゃないこと、このクソみたいな戦いが泥仕合にもつれ込んでいること、そしてこの目の前の泥の壁を突き破った先に俺の、最高の快感を伴った辛勝が依然としてあることを、俺は今も尚、「知っている」。だから、だから、俺は、この手を、この足を、引きちぎれようが、折れようが、止めたりはしな──。


 それは、突如として現れた。


 俺と男の視界を横切る、天から落ちてきたように唐突な、白んだ金の髪。それはまるで、月のような女だった。

 この女だ! 俺は根拠もなく、瞬時にそう悟った。そして、その直感に間違いはなかった。俺が今日、このひび割れるほどにきんと冷えた夜の中で探していたもの、求めていた結末、俺が手を伸ばす先にあるべきもの──。


 視界の中の女は、透き通るような薄いきんいろの髪を、ひらりと揺らめくままに舞い落ちさせながら、濁った橙色の瞳でびたりと正確に俺のことを見つめていた、が、その橙の眼球は切り開かれたそのまぶたの内側で何の前触れもなく、ぐるりと反転する。時の止まったような体重さえ見とらせない軽やかな身のこなしから、女は男に迫り、振りかぶった刀を奴の仏頂面に向かってまっすぐ振り下ろした。迷いのない、惚れ惚れするほど美しい一太刀。


 想像だにせんほど激しく金属が擦れる音に、俺は怯むまま脳の発する信号に引きずられてふたりから距離をとり、疲労のまま地面に手をついた。その間にも俺には一切目もくれず、かすみは正確に目の前の仏頂面を見つめて、一瞬の間もおかず刀を幾度も幾度も振り下ろす。裸足に黒いドレスの女が繰り出す刀の太刀筋はあまりにも機械的で、俺はその合理的な美しさに見とれそうになる。その時、ドレスの間からのぞく白い足がどす黒い血で染まっているのが俺の目に入った。この女は今日、既にひとを斬っている──。


 あまりに隙のないかすみの剣撃に情けないことに圧倒され、俺は手を出しかねてじりじりと壁に向かって後退する。さっきまでの興奮が嘘のように引いて、俺は動きの読めないかすみのきりきりと機械じみた動きにぞっと内臓を縮ませていた。外から見ていてもわかるのは、かすみの戦い方には、その機械じみた動き以上にどうにも言語化し切れない妙な違和感があること──。


 相手がかすみに変わろうが、男とかすみとの間合いの取り方は、男と俺との間合いの取り方と変わらないはずだ。なにせ、俺とかすみの獲物は同じ。けれど、仏頂面はどうにも苦戦しているようだった。奴の反応が、遅い。確かに、俺と同じように奴だって疲弊してはいるだろう。血が流れ出すだけ立っていられなくなる。治りの早いひとでなしだって、吉見でもなきゃ不死じゃない。消耗するんだ。だが、消耗してるにしたって、反応の遅れが顕著すぎるのだ。まるで仏頂面の野郎と合一せんばかりに、かすみは奴の腕の中へとするりと入り込む。男がぎょっとしたようにかすみを跳ね除けながら、彼女の振るう刀の先を幾度もその身に受けるのが繰り返された後、反応しきれない奴が次の瞬間にはその影ごとかき消える。頼りを失ったかすみは地面へとのめり込むように倒れかけた後、すぐさま昆虫のように機械的に周囲を見渡す。すると、煉瓦の壁にもたれかかるようにして立つ男が二の腕の布を破りとり、そこに隠していた新しい獲物を抜き出すところだった。息も荒く肩が上下するのを、奴はもう隠しもしない。かすみの戦い方の奇妙さをやっと飲み下した俺は、仏頂面に飛びかかる彼女の背中を追ってとうとう走り出した。俺は目一杯刀を振りかぶる。俺の持つ銀の色が、次の瞬間には女の細首に刺さるのが、俺にはわかる。かすみの背中越しに、仏頂面の中の紅の目が俺の顔を見ている。


「俺が首をもらうぞ──」


 刀の切っ先が首に届きかけたそのとき、ひゅる、とどこか遠く気の抜けた音がして、俺がそちらに目を向ければ、一筋の赤い閃光が、暗く沈んだ濃紺の夜空を左右に分けていた。まもなく、その閃光は灰色の煙を夜空に置き去りにしたまま落ち消える。次いで俺の耳が拾った靴音にぐりと首を回せば、仏頂面はかすみの刀の間合いから抜け出し、俺たちと距離をとって、その背にかかった闇の中に身を溶かしていくところだった。夜の空気をぶわりと自分の体に引き寄せるようにして、奴は路地裏の闇を纏い、そのくすんだ靄の中に消えていく。そうして男は、その夜の隙間から執念深くこちらを見つめて、あの紅色を俺のまぶたの内側に焼き付ける。


「せいぜい食い殺し合え、狂犬ども」

 淡々とした口調にありったけの悪意を込めて、奴は果たして、闇夜の底へとかき消えた。


 目の前の獲物を失ったかすみは、こて、と首を傾げて髪を揺らし、その裸足をコンクリに擦り付けながら振り向いて、濁った橙色の目を俺に向けた。俺の背筋はびりりと凍る。俺の恐れなど知りもしないまま、かすみは持ち上げた刀を背負って緩やかに飛び上がり、上段から俺に斬りかかった。俺はじりじりと後退しながら、その正確な刀の軌道を受け止め続ける。真木が言っていた通り、こんなのを生け捕りにするなんて到底無理だ。そんな温情をかけていたら、その内こちらが殺される。


 俺はもはや、その均一な胴体のどこに彼女の急所があるのか見当もつかないような、奇妙な感覚に襲われていた。ひとを相手にするときの感覚じゃない……。俺は、最初に見た「とりもの」のときの、ぬめる青白い「子ども」肌の色を思い出していた。その体内に異界を抱えているような、この非人間的な物体。女の形をしていながら、これは、俺とは違う仕組みで動いている──心臓に刀を突き立てたところで、この女は、いや、この「けもの」は、死なないんじゃないか?


 勝てる、勝てる、間違えなければ俺はこの女に勝てると、俺の脳が信号を出している。そうだとわかっている、のに。回り続ける俺の脳が発する信号に誤りはない。だが、この女の目を見ていると、「間違えそうになる」──。自分とこの女の境目が、わからなくなる。時とともに体力をすり減らし、命の危機にますます心臓が震えるのを覚えながら、俺は奇妙な手応えのなさに飲まれつつあった。俺が振り抜く刀は確実に女の肌を肉を刻み、骨にぶつかって俺の腕へと跳ね返ってくる。しかしその物理的な反動とは関係なく、俺が振り下ろす刀とそれを受け取る女の肉が触れるたびに、その両者が溶け合うような「違和感のなさ」、まるで曖昧模糊として自他が混ざり合うような「違和感のなさ」が、俺の頭の巡りを妨げていた。そして、その「違和感がない」という異常さに対し、俺の脳が、鈍化しそうになる恐怖感をすんでのところで呼び起こし、俺自身に警告を叫び続けるのだ。同調し、協調し、俺の胸に、腕の中に入り込んでくる、異物であるはずのこの女を、俺は恐れ嫌悪し拒み跳ね付けねばならない、のに──。


 女が俺の胸の中に飛び込み、その顔が接近するたびに、胸に広がる奇妙な安心感のようなものが、俺の動作を一々と遅らせて行く。その安心感は、この女と打ち合うたびに益々重く、大きく、俺の体の芯に刻み付けられて行く。おかげで、俺は女の刀の下を防戦一方間一髪とすり抜けるだけになっていた。それなりに重さを持った剣撃なのに、すぐさま次の太刀筋が飛んでくる。俺はそれを受け止める。だが、まともに受け止めていては反撃する隙がない。


 生と死が表裏で、そのコインはいつだって不意に、まるで誰かしらの気まぐれのように裏返る余地を孕んでいることを俺はよく知っている。盤面はいつだって簡単に覆されて、それまでどんだけ優位をとったって仕方ない。地獄に得点を持っては行けない。俺は嫌になるくらいに、そのことを「知っている」。一撃一撃と叩き込まれる死の下をくぐりぬけ、何度も裏返り鼻の先にちらつく暗黒の虚無から逃れるように、死線の上を綱渡りするサーカスの曲芸師のように、俺はただがむしゃらに、その一線の一枚こちら側を保つことを俺自身に祈りながら、振りかざされる銀の下をくぐり抜け、刀を振るうしかない──。


 そのとき、いつしか徐々に腹の底から湧き上がっていた「奇妙な感覚」が、ついに俺の全体を包んだ。かすみとの境界がわからなくなる、あの違和感じゃない。そうではなくて、銀に輝くこの刀を握った俺が、彼女を前にしていること、彼女の髪の先の薄い閃き、細い肢体と薄い胴体、破けたドレスのサテンの裏に透ける肌──彼女を構成するそういった無機質なまでの冷たさに、俺は、俺の頭の中にある何かが、積み上げられた塔の中からぐらりと引き抜かれるような妙な感覚を覚えていた。なんだ? なんだ……? この感覚は。この統一感。俺と彼女がこうして向き合うことで、何かが完成するような、俺がまるでなんらかの調和を求めているような、一定の構図への終着を求めているような、そこに行き着くしかないような、この感覚。


 かすみの刀を受け止め、受け流し、切り刻まれそうになるのをよろめき避けながら、俺は、まだ俺の中でその違和感の正体を探り続けていた。なんだ? 俺は、何を掴もうとしている……? 月の光に透ける、夜に溶け込んで消えそうな、金の髪。喉から何かが溢れそうな感覚を覚えながら、俺はかすみの細腕が持つ刀を、うち飛ばした。その甲高い金属音が澄んだ音の響きになって、俺の脳にようやっと酸素が行き渡るような涼やかな感覚がもたらされる。


 俺は、この女を、元から「知っていた」……?


 俺が頭の中でそう言語化したとき、音もなく、頭の奥底から引き抜かれたパーツが、目の前の事象と合一した。天蓋付きのベッドの上でこちらに覆いかぶさって涙を流す男の姿。男の口が大きく開き、この世のなにより憎いものを見る目で、その手に持った「ナイフ」を振り下ろす。男の声が聞こえない。なんて、なんて、「言っていた」? この男は、なんて「言っていた」んだ。


 俺の体は、その記憶を再生する頭を抱えながら暴れるかすみの体を押さえつけ、俺が薄いその体に馬乗りになって刀を振りかぶった時、音のなかった記憶の中の残忍なラブシーンの中で、男が確かに、こう言った。

「……愛していたのに!」


 彼女の橙の瞳がそこでひとつだけ閃いたとき、思考が回りきらないうちに、うっかりと溢れるように、俺の口から言葉が漏れた。

「あれは、君だったのか」


 彼女の心臓には、気づけば俺が自ら突き立てた白銀が生えていて、俺の目がそれを捉えたそばから地面の上にゆっくりと赤いにじみが広がっていった。彼女は俺を見ていた。そのとき俺は、自分の脳の血がみるみる冷えていくのを覚えていた。彼女の頰に別人のように微笑みが広がったとき、俺はついに、彼女が稀に見る可憐な少女の形をしていることを知ったのだ。彼女は明確にこちらに向かって微笑みかける。それから、その口元が微かに動いたのち、瞳から生気が失せて俺を見ていたその輝きが失われ虚ろに呑まれたとき、俺の胸に絶対的にこみ上げたのは、恐ろしい後悔の感情だった。

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