13話 聖なる汚濁の降誕祭 後

 耐えきれずに、ああ、という声が、音が、私の喉の奥から絞り出される。私のへそに繋がった蔦は、高峯の部屋からここまでずっと繋がっていた。走って来る間も私はそれをずっと引きずっていたんだ。しかも、その蔦が何度も振り払おうとしたけれど私の足に絡みついて、ちぎれてくれそうな気配が全然なくて。どくどくと脈打つ蔦が自分の腹に繋がっているのを見ていたら、私は頭がぼーっとしてきた。そうして、身体が重いなあと感じるまま、私は膝をついて納屋の中に倒れこんだ。土埃の匂いでむせかえりそう。納屋の床にべったりと頰をつけて動けないでいると、すぐさま蔦の繋がった臍のあたりにとんでもない痛みが走る。あまりに苦しくて、私は夢中になって寝巻きの帯をほどいた。


 はだけて露わになった私の腹は、へそのあたりが風船のように恐ろしく膨れ上がっていた。そして私が見ているうちにも、ぎりぎりと私を内側から押し広げるように腹はみるみる不気味に膨らんでいくのだ。青黒い血管の浮き上がる妊婦のように膨れた自分の腹にぞっとして、気持ち悪いなんてものではなくて、私の喉はつまってしまって声を出すこともできない。あまりに嫌悪感がまさって、私はどうにもならないのに夢中で首を振った。やめて、お願い。やめて……。ぶるぶると震えながら大きくなっていく私の腹からは、どう考えても私のものではない何かべつの、得体の知れない生き物の音が聞こえていて、それが私の腹を蹴破ろうとでもするかのように私の内側で暴れているのだ。痛くて気持ち悪くて苦しくて。耐えられない腹の中の疼きに、開けっ放しの私の口から、自分のものかわからないほどの荒い息遣いが、飲み込むことのできない唾が、溢れ出して。


 そのとき、私のすぐ傍で物音がして、私は目だけでそちらを振り返った。そこには、立ち尽くすひとつの影があった。月の光を背中に受けて、影の中で見開かれる紫色の目は驚きながら目の前の私の姿を恐れているようだった──いや、そうじゃないのかもしれない。だって、まもるはそのまますぐに、横たわった私の横に膝をついたから。


 どうしたらいいのかわからない様子で、まもるは私の顔を見ていた。私はあまりの痛みに気が遠くなった。自分の身体が勝手にぶるぶると動いて、どうしようもなくて、涙も流れるまま。とにかく誰かの名前を呼びたかった。目の前にいるまもるだって良かった。でも、思ったように舌も動かなくて。


 涙で歪んだ私の視界の中で、まもるはしばらくおろおろと私の様子を見ていた。それから、はっとしたように立ち上がる。私の顔をじっとみて、背中のほうをはっきりと一度指差してみせる。誰かを呼んで来るって私に伝えたいみたいだった。けれどそのとき、私の腹のなかがひときわ大きくうごめいて。私に背を向けたまもるに向かって、私は気持ちの悪さに胸がいっぱいになりながら、必死に声を絞り出した。


「そばにいて……」


 なんでそんなことを彼に向かって言ってしまったのか、自分でもよくわからなかった。たぶん私、こんなところに一人にされたくなかったんだよ。弾かれたようにまもるは私を振り返って、それからすばやく私の横に再び膝をついた。誰かを呼びたくて堪らないように何度か後ろを振り返る。まもるに声があったら、きっと彼は誰かの助けを呼んだに違いなかったんだ。でも、それは叶わないことで、納屋の埃っぽい床の上に投げ出された頼りない私の手をまもるは握った。私より大きな手、冷や汗ばんだ手、震える手、それでも、私の手を離さない手……。


 そうしてほんの少し安心した私に、腹の底から突き上げるような激しい痛みの波がこみ上げた。


***


 俺は茜を突き飛ばすように横にやってベッドから起き上がり、日本刀を取り上げた。呆気にとられたままの茜に、

「あの娘の部屋はどこだ」

 と俺が声を張り上げると、茜はやっと目を覚ましたような顔をした。それから、戸惑った様子で立ち上がる。

「あり得ない……そんなの、聞いたことない」

「確かめるだけだろ」

 上着を羽織るのも面倒なまま、俺はドアを開けて外に出るよう茜に促した。


***


 ぐらぐらする世界の中。帝都の雑踏、父さん、母さん、踏切の音、太陽の光、産声、愛していたあなた、北崎の顔、拍手の音、あなたの体温、生ぬるい水、愛して欲しかったこと、壊れたオルゴール、ずっと会いたかったあなた、ギロチンの刃のいろ、銃声、金色の瞳、ずっと憎んでいたこと、離してしまった袖、生きていてはいけないこと、生まれたかったこと、あなたの、手の感触。


***


 娘はもう部屋にはいなかった。そして、あの番犬の男の姿もない。部屋の中では兄妹がなぜかそろって眠りこけていた。茜が容赦なく兄貴の頰を叩いている。当たってしまった推論に恐怖すら覚えた俺は、日本刀を引っ掴んだまま廊下に出た。そうして中庭の色鮮やかな花園をぐるりと見回してみる。白い月の光が隈なく照らしていく、憎たらしいくらいに美しい光景の中で、俺は目を閉じた。ここ最近の俺は「勘」が冴えてるんだ。何にだってぴんとくる。ぴんときてみせる。きっとあの娘のことも見つけられる……。


 そうして静まり返った俺の脳の端が、びりりと揺れる空気を捉えた。


***


 痛くて痛くて痛くて、けれど、私の目は開いたままだった。だから、自分の足と足の間から、生暖かい水が流れていくのも、一緒に流れ出した青白い塊がびくびくと立ち上がるのも見えた。必死に縋ったまもるの手は、それでも私から離されずに、私のたった一つの頼りになっていた。私の足の間から延々と流れ出ていく青白い肉の塊は、それを見つめる私とまもるの視線の先で、どんどん大きくひとつの塊になっていく。


***


 俺は直観だけを頼りに中庭を突っ切って、物置小屋のある方へ走って行った。ひとでなしになってからは、外の世界にいた時よりもずっと身体が軽い。あっという間に物置小屋の目の前まで来た俺は、小屋の中に横たわる娘と、それに寄りそう番犬の野郎と、その横の白い塊に気がついた。そこにゆっくりと立ち上がる青白い肉の塊に、俺は思わず立ち尽くしてしまった。白い月の光がてらてらとその表面に走る青黒い血管の一筋一筋を、頼んでもいないのに丹念に照らしていく。それは人の形をしていなかった。人体に必要な部品という部品をぶった切ってから遊び半分に繋ぎ合せたようなその醜悪な作品は、その肉の一部にがばりと開いた人間の口から歯をむき出して息をしている。いびつな肉の真横に生えた腕が、びくり、と薄闇の中で一つ震えた。


 その瞬間俺は刀を抜き出して、飛び上がるその不気味な白い物体に向かって力任せに振り下ろす。化け物の鳴き声がして、しかしそれは確かに人間の声帯から発される声だったから、たったそれだけのことに俺は慄いてしまった。俺が切ったのは化け物なのか、人間なのか分からない。けれど、そうして俺が身を竦ませている間に、青白いその肉塊は千切れた身体の一部を置き去ったまま俺の横をすり抜ける。でこぼことした不恰好な身体の癖をして、それは異常なまでの速さで中庭の草花を折って倒しながら一直線にある場所を目指しているのだ。ここから真反対にある離れの部屋……高峯のいる部屋。自分を捨てた、母親の元へ……。


 俺が白い塊を追ってすぐさま駆け出した時、上から落ちてくる空気の震えに俺は瞬時に身を引いた。次の瞬間には、その俺の五歩も行った先に鋼鉄の細い柱──いや、それは矢の形状をしている──が次々と上空から激しく空気を揺らしながら突き刺さり、無数の花弁が辺りに舞い散った。その内のいくつかが化け物に当たって、その身に激しく突き刺さる。物体は叫び声をあげた。俺がぐるりと見回した視界の中に、母屋の屋根の上からぎらりと目を光らせてこちらを見下ろしている真木が見える。


「お前は退がってろ。邪魔だ」


 恐らく俺に向けて発されたその言葉のすぐ後に、さっきのと同じような鉄の矢が雨になって容赦無く降り注ぐ。その速度と触れれば即死しかねない威力に、俺は生唾を飲み込むばかりだ。そういえば今まで一度も見たことがなかったが、これが真木の異能らしい。俺の見上げた夜空には何の影も見られない。にも関わらず、真木が手を振り下ろすたび、化け物の行先を追うようにその鉄の矢は地面に突き立てられる。


 無数の矢を浴びつつ、化け物はそれでも蠢き前進を続けていた。矢に地面へ縫い付けられた自らの身体をひきちぎりながら、それでも前へ前へと進み続ける。

「真木は仕事が雑なんだよ」


 降り注ぐ矢の中に一つの影が飛び込んで来て、俺は声をあげそうになった。不敵な笑みを浮かべたままの枇杷は、真木の降らす矢の雨の只中に構えた刀を振りかざしながら馬鹿みたいにまっすぐ突っ込んでくる。俺にはその枇杷の額に落ちるいくつもの矢の影が見えたんだ。でも。


 降り止んだ矢の雨の中で、枇杷はしっかりと日本刀で怪物を仕留めていた。開け放たれた口から真っ直ぐ差し込まれた日本刀が、何本もの矢が刺さった青白い身体を真上から地面へと真っ直ぐ串刺しにしている。満身創痍の怪物の横で、しかし枇杷は一滴の血も流していない。奴が上げたのはけろっとした顔で、そのまま一仕事終えたように息をついた。それから、じろじろとその気味の悪い身体を品定めするように見回している。その物体はもう声帯を潰されてしまったらしく、声もなくびくりびくりと身体を震わすだけだ。ただ見ているだけだった俺ははっとして、恐る恐る化け物の方へと近づいていく。


「こいつがどこから来たかは後で然るべき口に問いただすとして……早く核を取り出さなきゃいけないね」

 枇杷は慣れた様子で手袋を外し、袖を捲り上げる。離れた場所の靴音に目を上げると、真木が屋根から庭へ降りてくるところだった。奴がこちらに歩いてくるうちに、そこらじゅうに刺さっていた鉄の矢は胡散霧消してしまった。まるで魔法だ。

「真木の矢のせいで肝心の心臓がぐずぐずになっていたらどうしようね」

 枇杷はまだ息を失っていない歪な人体の面を撫でる。真木は庭をぐるりと見回してから口を開く。

「それよりは、こんなに庭を荒らしちまったことを心配した方が良さそうだ。母さんに殺される」


 枇杷は、真木の言葉に笑うように目を歪める。それから奴は、その奇怪な青白い肉体へ指を突き立てた。その塊の表皮は、いや、肉は、枇杷の手を拒むことはなかった。あまりにもやすやすと、水槽に手でもいれるように、青白い『胸部』と覚しき肉塊の中へ枇杷の手は沈んでいく。奇妙な光景だった。だが、枇杷は真木と同じひとでなしであって、そういう異能があったって何もおかしくないのだ。いや、おかしいと思わないことにしたんだ、俺は。俺も真木も黙ってその儀式じみた光景を見ていたが、俺の視界の中で「男」と呼ぶには一回り小さい枇杷のその背中が、ひとつ、震えた。枇杷の漏らす息が震えているのに俺は気づいた。


「どうした……?」

 枇杷は呆然とした表情のまま、延々その手を青白い身体の中に泳がせている。そうしてから少し間を置いて、ゆっくりと怪物の体躯から開いたままの手を引き抜いた。

「『心臓』が……ない……?」


 その時、青白いその「子供」がぶるりと一つ震えて、その腕が不意に振り上げられる──それに枇杷が応戦しようと構える間も無く、腕はだらりと地面の上に再び転がった。それでもその腕は、その指は、何かを求めるようにわずかに残った生気に身を任せて遠く、遠くへと伸ばされる。


 その伸ばされた指の先には、居室の入り口から這い出した高峯の姿があった。乱れた髪を顔にかかるままに、青白い光を浴びたその藤のような女は薄く微笑んでいた。その笑みは透き通って妙に美しい。ああ、それは、怪物じみた妖気のようなものをすっかり抜かれてしまって、もはや神聖ささえ纏っているように見える、『母親』の微笑みだったのだ。女は純粋な慈愛でもって、掠れた声を、愛おしげな響きで喉から絞り出す。


「おかえり」


***


 起きた時には雨だった。「とりもの」の翌日には葬式をするのが決まりなのだという。華屋の各位は俺も含めて全員が喪服に身を包み、館の中の一番広い畳敷きの部屋に正座をして僧侶の読む経を聞いている。この後、棺桶に入れてあれを焼いてしまうのだと言う。


 俺たちは傘をさして、ぞろぞろと敷地の奥にある火葬場にやって来た。いつもはうるさい奴らまで、今日はあたりの空気と同じように湿っぽい。普段から無駄口を叩かない真木はもちろん、枇杷や椿も襟を正して棺桶が葬儀屋たちの手で火葬炉に収められるのを見ている。高峯は今日も体調が戻らないから部屋で休むそうだ。


「不思議とね、臭わないんだ」

 と、茜が不意に口を開く。俺に話しているらしかった。

「真人間を焼いた臭いなんて、嗅いでいられないでしょ」

 そう言って顔をしかめる茜に俺は、ん、と喉を鳴らした。

「君は人を焼く臭いを知っているのか」


 茜は俺に目をやって、まあ、一応はね、と返す。子どもの頃の曽祖父の葬式は今でも覚えているが、そんな臭いを嗅ぐことはなかったな、と、俺はめくれていた襟を直しながらぼんやりと思い出していた。


「なあ」

 傘に打ち付ける雨の音にかき消されても構わないと思って、俺は控えめに声を発した。

「あの『子供』には、意思はあるのか」

「ないよ」

 茜は即答した。

「あれにあるのは執念のような呪いだけ。あれは自分を規定できない。自分が何者かなんて考えない。そもそも、考えたりしないのよ」

 あれは人間じゃないんだから、とそこまで付け足す茜は、こちらの求めた以上に饒舌だった。

「……そっか」


 俺は彼女の言葉をそのまま飲み込むことにした。昨日聞いたあの人間じみた声を、ひとの声とは思いたくなかった。高峯に向かって、母親に向かって伸ばされたあの腕を、俺と同じ愛情の器官を持つ生き物だなんて思いたくなかった。あれが下等で不完全で無情な生命でなかったら、俺はこれから先、生きていける気がしなかったんだ。


「……結局、心臓は娘の腹の中にあったんだろう?」

 空気を変えたくて、俺は別の話をすることにした。ええ、となんということもなく茜が返答するのを聞いて、俺はなんだかほっとした。

「あの娘が自分で自分の心臓を持ってここに来た、ってこと」

 雨音が心地よい。平坦な声で話す茜の横顔は綺麗だった。

「自分の腹のなかにあった心臓だもん。そりゃ、相性がいいわけね」

「帝都の罪をあの娘自身が体現したわけだ」

 そう言った俺のことをちらりと見返す茜の目元は猫みたいだ。

「ずいぶん弄ばれてしまった。みんなして……」

「そりゃあどこを探しても心臓がないわけだ。最初から自分で持ってるんだもんな」

 昨日のことをあれこれ思い出したらどっと疲れが押し寄せて、俺は大袈裟なくらいに大きくため息をついた。

「ひとまず、あんたはこの『月』を生き延びたってことね」


 俺は茜の顔を見返すが、彼女はそれ以上何も言わない。よかった、とも、心配した、とも付け加えない。それはそうか。彼女は別に俺のことを愛していないようだし。彼女にとって俺は都合のいい犬か何かなんだろう。でも俺は、それだって良かったんだ。少なくとも俺は、茜のひとを殺しかねないほどの美しさを、どんな形であろうが独占しているんだから。


 火葬炉から上がっていく煙は白かった。ああ確かに、異臭のようなものはない。青白いあの身体は、ここに帝都の汚濁を運んでくるための容れ物でしかないのかもしれない、と俺は推論を立ててみる。それに収められた中身が汚いだけで容器は無垢な子供なんだろう。無垢の人間が運んで来た汚濁を、俺たち汚れたひとでなしが飲み込んで──いや、あれは人間じゃないんだった。


 それにしても、と俺は思う。あの娘──亜というらしい──が、俺と茜の間に見たのはなんだ? 殺気立った茜のいる前でそれを聞くのはどうにも憚られて、俺は口をつぐんだまま、あの娘が華屋を去るのを見送った。だが、次に亜を見かけた時は、必ずとっ捕まえて本当のことを吐かせねばならない。俺の腹の底は、新しい獲物を見つけてぐつぐつと煮え始めていた。


***


 降り止んだ雨の匂いが、石畳やコンクリートの壁……そこらじゅう、ありとあらゆる場所にびっしりとこびり付いている。じっとりと濡れた風がその髪の一房をゆるがせる。その人物の手は、伸ばすのをためらったまま胸の前にあった。


 向かい合う美青年は白手袋の右手を差し出した。

「七つ目の席を埋める、君のことを探していた」

 彫刻のように完成されたその微笑を惜しみなく注がれて、ためらっていた手は、白手袋のもう一つの手を、取る。

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