緩やかな冷蔵庫



 話はズレてしまうかもしれませんが、冷蔵庫のない生活って皆さんは考えられますか。多分殆どの人が考えられないんじゃないかな。……私、3年くらい冷蔵庫のない生活を送っていた時期があるんですよ。この話をすると皆驚くか、心配してくれるか、退かれちゃうんですけどね。でも、意外とできるものなんですよ、冷蔵庫のない生活。すぐ腐るようなものは買わず、日持ちのする野菜を買うとか、その日に食べる量だけ買って食べる。夏場は念の為、スーパーとかからドライアイス貰ってきてクーラーボックスに敷き詰めて食料を入れておく。そんな感じで案外事足りてしまうんです。

 話を戻しますね。

 私、耳が良いんです。子どもの頃から結構小さい音にも敏感だったと記憶しています。親の帰ってきた車の音が部屋の中からでもわかったり、階段を上る人の足音で誰のものか当てることができたり、学校でも誰かの内緒話を良く耳にしていました。2階に父親といる際、1階にいる母親の足音が聞こえてきたので「もうすぐお母さんが来るよ」なんて話した時には、まるで予言のようだと父親がとても驚いていたのを今でも覚えています。耳に意識を集中させれば、ある程度の音は聞こえていました。子どもながらに、私は誰も持っていない特別な力を持っているのだと少しわくわくしていました。だからこの聴力のことはどんな小さな音も聞き逃さない、地獄耳なのだと誇らしくもありました。

 でも、大人になってからはそんなことも少なくなりました。勿論、今でも、集中すればそれなりの小さい物音は聞き取れます。ただそういうことではなく、そういう環境にいなかったというのもあるかもしれません。基本、外に出歩くときは何かしらの音楽を大きめの音で聴きながらでしたし、極論言ってしまえば他人に興味がなかったんです。だから、周りの音は私の生活には関係がありませんでした。

 それに自分にも興味はありませんでした。先に話しましたよね、冷蔵庫のない生活をしていた、と。食べることに興味がなかったんです。初めは一人暮らしで貧乏生活していたから冷蔵庫を買えなかったというのもありますけど、時間が経つにつれ買えるような貯えができてからもそれまでの生活に慣れてしまっていて冷蔵庫の必要性を見出せなかったのです。正直お腹が満たされればそれでよかったんです。

 ですが、事情が変わってきました。こんな私にも恋人というものができたんです。恋人の為に料理が作りたくて、そのとき安い小さめの冷蔵庫をようやく購入しました。ずっと冷蔵庫のない生活をしていたから初めの頃は冷蔵庫に何を入れていいのかよくわからなくてかなり困ってしまいました。彼の為にお弁当を作ったり、お菓子を作ったり。誰かの為に料理をする為、そのうち冷蔵庫には色々な食材が蓄積されていきました。夏場にはアイスなんか買ってみたりしちゃって。箱のアイスとか良く買っていました。傷んでしまうもの、溶けてしまうもの。それまで私には無縁でしたが、冷蔵庫ってあれば便利なものなんだなと思っていました。

 ただ、それも少しの間のことでした。……彼と別れたんです。そうすると、私の中で冷蔵庫の必要性がなくなってきました。良くてアイスやチョコ。そういったお菓子とドリンクが、気持ちばかり入っている、そんな入れ物になっていきました。

 それもやがて減っていき、以来、冷蔵庫はただの箱になりました。

 コンセントは抜いてなかったのでゴォオオだったり、ジィイイだったり、そんな稼働音だけが静かに鳴り続けていました。

 ある日、私がテレビを見ていると、隣の部屋から目覚ましの音が聞こえてきました。ジジジジジジと、そこそこ厚い壁を隔てていることもあり、私の部屋に聞こえてくるその音は微かなものではありましたが、実際傍にあればそれなりの大きさの音だったと思います。

 お隣さんは今頃起きるのか、と時計を確認しました。お昼過ぎだったと思います。……少し違和感がありました。確かお隣さんはおばあさんでした。果たして、お年寄りがこんな時間まで寝ているでしょうか。仮にこれが起きる為のものじゃなかったとしても、……音が一向に鳴り止まないんです。

 何かあったのではないか壁に耳を当ててみました。……でも変なんです。音が、聞こえないんです。隣から聞こえているものと思っていた、あの目覚ましの音が一切聞こえないんです。念の為、反対の部屋の様子も窺ってみました。こちらも同じでした。目覚ましの音どころかテレビの音すら聞こえてきませんでした。

 と、すれば、音の出どころは私の部屋しかありません。微かな音を頼りに耳に意識を集中させて部屋中を歩き回りました。音の出どころは簡単に見つかりました。

 あの、冷蔵庫です。もうずっと使っていないあの冷蔵庫から微かに目覚ましの音が鳴り響いていたのです。寝ぼけでもして私が時計を冷蔵庫に入れてしまった可能性が頭を過りました。でもその可能性は一瞬にして消えました。何故なら、うちにあった時計は全て、携帯で事足りるからと先日フリーマーケットで売ってしまったばかりだったのです。ならば、ここから聞こえてきているこの音は何なのでしょうか。

 暫く、冷蔵庫の前から動けずにいた私の耳に小さな笑い声が聞こえた気がしました。はっと、した時には既に目覚ましの音も、笑い声もしなくなっていました。

 それ以来、私は冷蔵庫を開いていません。だって、シュレディンガーの猫、あれと同じです。あれがなんだったかなんて興味はありません。知りたくもありません。だってそれに開けなければ、そこに何がいるかなんて知らなくても済むじゃないですか。だから私は、決してあの冷蔵庫を開けるつもりはありません。



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