夢枕



 これは夢の話です。

 どこをどう歩いてそこに辿り着いたのかはわかりません。気が付くと私の足元には一本の境界線が引いてありました。線を隔てて一方は真っ白な床をしていて、もう一方は真っ黒な床をしていました。もっと詳しく説明するなら、それぞれその境界を隔てて真っ白な空間と真っ暗な空間になっています。私はその境界の真ん中に立っていて、どうやらどちらに行こうか迷っているらしいんです。

 それぞれの空間をよくよく観察してみれば、色以外にそれぞれ雰囲気が違っていました。

 真っ白の空間はなんというか、華やかなんです。物や人、音、そういったものがこれといって何かあるというわけではありませんが、色味のせいもあるのでしょうか。温かい何かを感じました。反対に真っ暗な空間はとても冷たく、何か謂れもない嫌な感じがしました。

 これはあくまで私の感覚なんですけど、真っ白い空間は天国を表していて、真っ暗な空間は地獄を表しているんだと思いました。安直な、よくある固定概念ですが、それがこの空間達にはぴったりだと思いました。

 であれば、普通ならば白い空間に向かえばいいだけの話です。進んでいくのなら地獄よりも天国の方がいいに決まっていますから。

 ですが、どうしたわけか私はそこから一歩も動けないのです。動かない、といった方が正しいでしょう。まるでそこに足が縫い付けてあるかのようで、いくら身を捩ったところでどうにもなりません。

 そのうち、空間に変化が起こり始めました。真っ白の空間から子どもの声がし始めたのです。とても楽しそうな笑い声で、複数の子ども達が遊んでいるようでした。どこか、懐かしい気がしました。もしかしたらそれは、思い出せませんが私が子どもの頃遊んだ誰かの声だったのかもしれません。明確な言葉はありませんでしたが、私も仲間に入りなよと誘っている気がしました。勿論そうしたいのはやまやまなのですが、どう足掻いても、足は相変わらず動きません。

 そうしていると、今度は真っ暗な空間に変化が起こり始めました。真っ黒な床がぐねぐねと波を打ち、小さな波はやがて大きな波になり、無数の手へと変化しました。その手は何かを求めるように暫く空を掴んでいましたが、やがてぴたりと動きを止めて、まるで目でもあるのではないかと思える程、確実に、そして一斉に私の方へと向いたのです。

 血の気が引く、という経験は初めてでした。段々と身体が冷えていくのがわかりました。きっとこの無数の手は一瞬にして私を捕らえ、あの真っ暗な空間へと引きずり込むに違いありません。

 逃げなくては、と思いました。そう考えるのと同時に、まるで縫い付けられていたようだった足が動くようになりました。私は必死の思いで真っ白な空間へと足を動かしました。しかし、その足は鉛のように重く、私は抵抗もむなしく、あっという間に無数の手に捕らわれてしまいました。

 初めは足を。次は腕、そして首、頭……。無数の腕が私の身体に纏わりつき、いくら引き剥がしてもキリはなく、真っ白な空間から聞こえる子ども達の楽しげな声が余計私の中の絶望を掻き立てました。恐怖で頭がおかしくなってしまいそうでした。

 でも、そのうちもういいかな、と思ったんです。このまま足掻くことを止めて、もう楽になってしまってもいいかな、と。特に後悔するような人生でもなかった。元来、私はめんどくさがりなのです。だから私は、思い残しはないと満足な心持で真っ暗な空間へ沈んでいくがままに身を委ね、ゆっくりと目を閉じました。

 次に目を開けたとき、目の前に広がっていたのは真っ白な天井でした。独特のアルコールの匂いが漂っていてすぐにそこが病院であることは分かりました。

 僅かに感じた左手の痛みに視線を動かせば、図体の大きな男がいました。その図体からは想像のできないくしゃくしゃの泣き顔で、彼の手に比べたらまるで子どものような私の手を大事そうに、それでいて力強く握っていました。……彼は、私の大切な人でした。私と目が合うと、彼はより一層顔をくしゃくしゃにして大きな声を出してまるで子どものようにおいおいと泣き始めました。その姿に私は思わず声を出して笑ってしまいましたが。私にとっては数時間くらいの時間経過の出来事だったのですが、何故だかとても懐かしい気がして。だからなのか、そんな姿も私にとってはいつも以上に愛おしいものに感じたのだと思います。

 どうやら私は交通事故に遇い、一週間ほど昏睡状態にあったようです。一時は意識不明にまで陥り、生死の境を彷徨っていたようですが、今は怪我も全て完治し、こうして元の生活を送っています。……彼には怒られてしまいました。どうやら私が信号を無視して飛び出した結果の事故だったようです。残念ながら事故前後の記憶が私にはないんですが。

 でもちょうど、友人が目撃していたようなんです。あ、そのときの写真があります。友人が送ってくれていたんです、2人でなんて珍しいねって。その直後、私が飛び出して車に轢かれたらしいんですが……。それで、私が事故に遇った場所なんですけど、こういう言い方は変なんですけど……私が、普段行かないところだったんです。私自身どうしてここに行ったのか……。だから友人も不思議に思ったらしく写真を。これ、なんですけど。……私と、この少し後ろの方の大きな男が彼です。でも、違うんです。これ、絶対に彼じゃないんです。こんな服、彼は持っていないし、そもそも、だって彼はこの時間全く逆の場所で仕事をしていたはずなんです。

 ごめんなさい、少し長くなってしまいましたね。これはあくまで私の夢の話です。笑い話にもならない本当につまらない内容で恐縮ですが。

 所詮夢の話なのですが、でも、結果として私はあの夢の中であの答えを選んで良かったと思っています。あの目を閉じた瞬間、確かに私の耳には聞こえていましたから。残念だとでも言いたげなとても悔しそうな男の舌打ちが。



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