第27話「死闘とようじょ」
時間がゆっくりと流れているように、僕には感じられた。
頭上では、
がら空きになった脇腹へ、左側からは所々ピンク色の肉片が纏わりついた人間の脊髄のような触手が唸りを上げ、右側からはまるで意志を持つ女性の髪の毛のような黒い触手が濁流のように押し寄せる。
前方にはグロテスクな化け物、背後には夜の闇の中、奈落の底まで続いているような崖。
ザリガニのハサミで押さえつけられた僕はどこに逃げることもできず、ただ左右から迫る2つの触手が僕の体を粉々に砕く、その瞬間を待つしかなかった。
諦めの気持ちに心が萎えそうになった僕の頭の上で、その時短い呪文詠唱の声が発せられた。
チコラの周囲に
金属製の歯車が噛み合うような澄んだ音を立て、それは髪の毛のような触手の周囲へ炎の渦を巻き起こした。
呪文詠唱とほぼ同時に、チコラの体を
この世界でただ一人、精霊魔法と通常の魔法、両方を使用できる
チコラの命令により空を斬り裂いた風の精霊は、髪の毛のような触手を当然のように粉々に切り刻んだ。
細かい髪の毛は、
僕は頭上でチコラががっくりと倒れかかるのを感じ、落ちそうになる彼へと、思わず手を伸ばした。
両手で何とか抑えていたのだ。片手を放せば押し込まれるのは自明。
それでも僕はチコラを胸に抱き、左側から襲い掛かる脊椎のような触手を思い切り蹴った。
脊椎の勢いに僕の蹴りの力を加え、僕らは頭上から潰しにかかるザリガニのハサミの直下から間一髪吹き飛ばされる。
燃え盛る髪の毛の中に突っ込み、その魔法の炎で体を焼かれながらも、僕らはなんとか死地を脱することが出来た。
さっきまで僕の立っていた場所にハサミがめり込み崖を崩す。
差し渡し1メートル以上もある大きな岩の塊がいくつも、夜の闇の中に消えて行った。
炎の髪の毛を突き抜け、僕は小さな花畑の上に転がる。
夜露に濡れたその小さな命は、ローブに燃え移った炎を消してくれた。
息つく間もなくそこへ別の触手が振り下ろされる。
火傷をしたのだろう、ひりつく手足を無理やり動かして、僕は化け物から大きく距離をとるために白い八角形の東屋を回り込み、その影まで走る。
不意に左足に激痛を感じて、僕はまた地面に転がった。
今回ばかりは自分のスピードが憎い。勢いそのままに数十メートルも花畑の上を転がり、やっと止まった僕は左足に感覚がないのに気付いた。
「あ痛っ……!! ……チコラ! とりあえず助かった! ……大丈夫?」
「ごほっ……ワイを誰やと思てんねん! チコラさんやぞ! こんなん……ちょいちょいや!」
言葉とは裏腹に、チコラは僕の隣にうつぶせに倒れて地面に顔をつけたまま、横を向くこともできずにいる。
それでも強い言葉を言えるチコラを、僕は尊敬を込めて助け起こした。
「さすがだね……。僕は……かなりキツい……」
さっき脊椎型の触手を蹴ったときの衝撃のせいだろう。
左足だけがまだ炎の中にあるかのように、ものすごく熱い。これは骨折れてるかも。
こんな足の状態で、ここまで走って距離をとれただけでも奇跡に近かった。火事場の馬鹿力ってやつかな、「助かった」って思った瞬間からすごく痛くなった足を押さえて、僕はどこか他人事のようにそう思った。
「弱音吐くなや! こいつは魔王の手先なんやろ?! ごほっ! ……あっくんが倒さんかったらこいつ、世界中をめちゃめちゃにしよるで!」
「だって……そんなこと言っても……」
「……クラス『勇者』のクリスティアーノはともかく……このままやとクラス『英雄』のりんちゃんが戦わなあかんようになるんやで! お前が助んでどうすんねや!」
「僕は……っ! だって……!」
「あっくんお前ぇ!! りんちゃんの父親ちゃうんかぁ?!」
「……ちっ……父親だよ! 決まってるでしょ! ……やるよ! 僕はりんちゃんのためならなんだってできるんだ!」
知ってた。これは僕がやらなきゃいけない事なんだって。
それでも、弱音を吐きたくなることだってある。でも、それを叱りつけてくれる友達が……家族が僕には居てくれた。
僕は痛みと情けなさと……こんな時なのに感じた喜びに、あふれる涙を振り払った。
「ぐっ……うぅっ!」
歯を食いしばって立ち上がろうとして、左足を踏ん張ることが出来ずに僕はまた地面に転がる。
決意とは関係なく、激痛だけを感じさせて全く動かない左足を引きずりながら、それでも僕は何とかバランスを取ってもう一度立ち上がった。
立ち上がったのは良いけど、左足に体重をかけることが出来ない。
一歩も歩けないまま、僕は東屋を飲み込むようにして姿を現した、醜悪な蜘蛛のパロディを見上げた。
「くそっ! 僕はりんちゃんを守るんだ! 動けよ僕の足! 『神の化身』なんて大層な名前の肉体チートってそんなもんなの?!」
どんなに叫んでも、左足は言う事を聞かない。
仕方なく僕は杖のようにデスサイズを地面に突き刺し、化け物へ一撃でも見舞ってやろうと体勢を整えた。
左足に全然力がかけられないこの状況で、腕の力だけで振り回したデスサイズがどのくらいのダメージを与えられるかは分からないけど、とにかく僕は、今できる精一杯をやりきることを決めたのだ。
――のそり、ずるり
じりじりと待つ僕に向かって、化け物はゆっくりと近づく。
さっきまでそれぞれが自在に蠢いていた触手は、今は鎌首をもたげた蛇のように僕を見据え、最後の時を静かに待っているようだった。
あと少し。
僕の渾身の一撃が届く間合いまで、ほんのわずかの距離まで近づいた
見つめる僕の目の前で、青白いにゅるんとした頭がぴくりと動き、その真ん中にあるバランスのおかしな口がぱかっと開いた。
への字を描いていた口は、そのカーブの頂点からもう一本の裂け目が現れ、花弁が開くように三つ又に分かれる。
しまった! と思った時には遅かった。
首の付け根から溶けたチーズのようににゅるりと伸びたその頭は、4列に鋭い牙の並んだ口で僕の体を、攻撃の準備をしていたデスサイズすら一緒くたにして飲み込むように大きく広がり、ばくんと閉じた。
――暗転。
「あっくんコラァ! ワレェ!」
「え?」
暗闇に飲み込まれた。……と思ったのは、思わず僕が目を瞑ってしまったからだった。
チコラの怒声が耳に届いた瞬間、僕の体はふわりと宙に浮かんでいた。
目を開いた僕の足下には、海岸の砂粒一つ一つが全て宝石に姿を変えたかのような満天の星。頭のはるか上には、暗闇の中にたった一つだけ輝く星のような
「あれ? やっぱり死んだ……のかな?」
「何のんきなこと言うとんねん! まぁええ、今回はこれ位で勘弁しといたる。逃げ……戦術的撤退や」
僕の右足を両手で抱えるようにして、逆さまのチコラが一生懸命翼を動かしているのが見えた。
逆さま……なのは僕か?
混乱していた頭がだんだんと状況を把握し始める。
空中庭園の上空。僕はチコラにまた命を救われた。
僕らはあの化け物から逃げようとしている。近い将来、世界の……りんちゃんの脅威になるであろう魔王の先兵をそこに残して。
「チコラ!」
「見てわからんか?! 今忙しいんや、後にせぇ!」
空中庭園へ向かう、馬車を運んだ谷の時と一緒だ。
消耗しきったチコラの翼は、周囲の
このままじゃ2人とも谷に落ちて死ぬだけだ。
「チコラ!」
「やかましなぁ! なんやぁ?!」
「あの化け物、ほっとけない」
「今はしゃあないやろ! 一旦引いて、体勢を立て直さな!」
「クリスティアーノは言ってたよ。僕の『ランクSSS+++』の武器で倒せないような敵が居たら、他の人がどれだけ準備したって倒せないって」
「せやかてあっくん、アレに近づけもせんかったやんか!」
「怪我さえしてなければ……スピードがあれば当たるよ! 当てられれば……倒せる!」
「せやから怪我しとる今は引いてやな!」
「大丈夫。あの化け物の直上から……僕を落として」
チコラの飛行能力だってもう限界だ。
このまま安全な場所まで逃げ切れるとはチコラだって思っていない。
ほんのちょっとの間考えたチコラは、諦めたように飛ぶ方向を変えた。
「しゃあないな! 『あっくん爆弾』投下作戦や!」
「上手く狙ってよ!」
「まかしとき! 当たらんかっても骨は拾たる!」
「うん、ありがと……いや、当ててよ!」
「なんやあっくん! ノリツッコミ出来るようになったんか! 腕上げたなぁ!」
急に恥ずかしくなって僕は口をつぐむ。
チコラは「はははっ」とマリアみたいに笑って、ぐんっと上昇した。
「この辺が限界や、あとはワイが発射台になったるから、思いっきり蹴って行きや」
視線を上げると、逆さまになった僕の頭上には小さな宝石のように輝く空中庭園。
あの広大な空中庭園があんな小さく見えるこの上空から、その中の黒いシミに過ぎないあの化け物を狙うのは、不可能なようにも思えた。
「少しくらいならワイが追いかけて方向修正したるからな!」
「ううん、大丈夫。僕
逆さまにぶら下がったまま、僕はもう一つのチートアイテム『水晶球』を取り出す。
そこに映し出された化け物の映像と、横にリアルタイムで表示される相対距離、風向き、風力、そして、コリオリの力の影響まで、全てを計算し尽くして、僕は右足をぐっとお腹に近づけた。
「じゃあ、やっつけてくる」
僕の言葉に頷いて、チコラは自分の周りに
地上でなら馬よりも早い走力を生み出す足の力を全て注ぎ込み、僕は、右足で思いっきりそれを蹴った。
――ドンッ
蹴り足と、チコラの押し出してくれた力は完璧なタイミングで融合し、僕は本当に弾丸になったように夜空を斬り裂く。
空気抵抗を少なくするために、いつも着ている黒いローブを脱ぎ捨て、僕は上半身裸で膝丈のズボン一枚だけの姿になった。
ぐんぐんと空中庭園が迫る。
僕はその視界の中央に、化け物の姿をしっかりと捉えた。
化け物は僕を待ち受けるかのように、いくつもの触手を上へ向かってゆらゆらと揺らしている。
方向を変えることなく、真っ直ぐ突っ込む僕は良い標的だろう。
「だけど……あえて……躱さない」
実績がある。触手だけならデスサイズで簡単に斬り裂けるだろう。でもデスサイズの一撃は、威力が尋常じゃないだけにその反動もかなりのものだ。それで速度を失ったのでは何にもならない。方向を変えるなどもってのほかだ。
デスサイズを振るえるのは一度きり。
触手が僕を殺す前に、僕の速度を吸収する前に、デスサイズが本体に届けばいい。
その後はどうせ地面に激突して、僕は死ぬか……良くても大怪我をするのだから。
空気抵抗を少なくするため、いや、触手の攻撃による抵抗を最小限に抑えるため、僕はデスサイズを体にぴったりと付け、一本の槍のように落下する。
触手の届く間合い。
何本もの触手が真っ直ぐに僕を貫こうと伸ばされる。
頬を、腕を、胸を、触手が
「うぉぉぉぉぉ!!!」
自分のものとは思えない叫び。
落下の勢いと共に繰り出した
化け物の首の付け根にデスサイズが届くより一瞬早く、僕の顔の正面に、一番大きくて堅そうな触手が真っ直ぐに伸びた。
失敗した……?!
その言葉が頭をかすめた瞬間、僕の体をグレーからゴールドにグラデーションする魔方陣が貫く。
その魔方陣を通して目の前に結実した
「いったれぇぇぇぇ! あっくん!!」
「う……あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
背後からかけられたチコラの声援に力をもらい、僕は全ての力のベクトルを化け物へと向けて、
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