extra8 不屈のルーザー

 ボールがゴールマウスへ吸いこまれていくのを呆然と見送りながら「これは夢だ」と佐木川湊は思った。とびきり悪い夢なのだと。だがまぎれもなく現実だった。

 そしてそのゴールが決勝点となり彼らは負けた。

 佐木川が己の軽率さをどれほど悔やもうとも結果は変えられない。最終ラインのセンターバックまで下げられてきたボールを受け、特に深い意図もなく横で守る矢野政信へとパスを出した。その瞬間に矢野が見せた「何やってんだっ」という表情が二日経った今でも頭の中にこびりついてしまっている。

 たった一学年しか違わないのにいつでも落ち着きはらった態度の矢野が珍しく慌てたのも当然だった。直後、相手チームの俊足フォワードに佐木川の不用意な横パスをかっさらわれてそのままシュートを打たれてしまう。見事にゴール右隅へと飛んだボールに、さすがのゴールキーパー弓立敦宏も触れることができなかった。


 中学生年代のナンバーワンを決める大会。冬の十二月、高円宮杯U―15と呼ばれる全日本ユースサッカー選手権大会がそうだ。中学校のサッカー部も学外のサッカークラブも関係なく同じ土俵で日本一を争う。

 半分以上の出場チームは年間を通して行われるリーグ戦の結果によって決められるが、それはあくまでリーグ最上位カテゴリーの話だ。出場権を得られなかったチームは、別に開催される地域ブロック別のプレーオフトーナメントで上位に進出しなければならない。

 並みいるクラブ勢を押しのけて、もうあと少し、全国大会へ手が届きそうなところまで鬼島中学は勝ち進んでいた。だがこれに勝てば出場権を獲得できるという大一番で、佐木川は痛恨のミスを犯してしまった。


 いったい、仲間たちにどう詫びればいいのか。

 普段の試合なら怒鳴り散らしているはずのゴールキーパー弓立は佐木川を一言も責めなかった。矢野からは「必ず次に生かせ」とだけ言われた。他の部員たちも同様だ。攻撃を牽引する同学年の五味裕之は「下なんて向いてる暇ねーぞ」と肩に手を回してきたし、佐木川へバックパスを出した一列前の井上和己には「すまん」と逆に頭を下げられてしまう。

 責めてくれよ、と心の底から叫びたかった。感情のままに罵られたほうがよほど納得できる。それだけ大きな、取り返しのつかない失敗をしたのだという自覚が佐木川にはあった。


「各々で心の整理をつけよう」


 顧問である貝原俊作の提案により、敗戦の翌日は鬼島中学サッカー部には珍しく休みとされた。とはいえ、大半の部員はきっとどこかしらでボールを蹴っていたに違いない。そういう連中だ。

 今日からはまた次の目標を定めて新たな戦いが始まる。だが、佐木川の足は学校のグラウンドに向かっていない。そもそも学校にすら登校していなかった。

 昨日も、そして今日も。佐木川は朝からひたすら走り続けている。両親の出勤時間は朝早いため、二日続けて学校をさぼったことはまだばれていない。しかしそれも時間の問題だろう。

 息も絶え絶えになりながら佐木川は走っていた。冷え込みの厳しくなってきた十一月中旬でありながら、あまりにも汗をかいたせいで上下のジャージが重く感じられるほどだ。

 できるならばもう一度、あの瞬間をやり直したい。それだけが彼の願いだった。

 自分のせいで千載一遇のチャンスを潰してしまったのだ。仲間たちには本当に申し訳ないことをしてしまったし、誰より先輩の榛名暁平に対して顔向けできない。

 暁平は間違いなく本物の才能を持っている。同じポジションである佐木川にとって彼は憧れの存在であり、よき手本であり、高くそびえる壁だった。

 現在はチーム事情によって、本来センターバックを主戦場とする暁平を前めの位置に置かざるをえなくなっている。

 だからつい佐木川は考えてしまう。「もしキョウくんだったら」と。

 もちろんそんな仮定に意味がないことなど百も承知だ。それでも知らず知らず、自分と暁平とを比較してしまう。暁平ならばあんなイージーなミスを犯さないのはもちろん、最後の笛が鳴るまで相手に得点を許さなかったに違いない。


「ああああ!」


 乾き切った喉から勝手に叫び声が飛びだしていった。

 他のみんなが同様のことを思っていないはずがないのだ。仲間たちと勝利の瞬間を分かち合えるのは何物にも代えがたいほど素晴らしい。逆に言えば、自分のせいで仲間たちを落胆させることほど辛いことはなかった。

 すっかり力を使い果たし、もはや歩くようなスピードでしか走れない佐木川がいつの間にかやってきていたのは姫ヶ瀬市内を流れる二級河川の土手だった。ここまでやってくれば鬼島少年少女蹴球団のホームグラウンドである河川敷もほど近い。

 困ったときは基本に立ち返れ。蹴球団時代の恩師であるホセこと布施剛久がよく口にしていた言葉を佐木川は思いだしていた。


       ◇


 河川敷には誰もいなかった。

 まだ授業も終わっていないしな、と特に気に留めなかった佐木川だったが、しばらくグラウンドの真ん中で佇んでいるうちに思い出したことがあった。

 もはや県内でも押しも押されもせぬ強豪クラブとなった鬼島少年少女蹴球団に、週二日ではあるが人工芝のグラウンドを使わせてくれる会社が現れたそうなのだ。少し前まではアマチュアのサッカー部を抱えていた企業なのだが、経費削減のあおりを受けて廃部となったため「遊ばせておくくらいなら」と申し出てくれたのだという。今日はもしかしたらそちらでの練習日なのかもしれない。

 もちろんいずれその土地も売却となるだろうし、そうなればまたこの河川敷だけが蹴球団のホームグラウンドだ。それでも佐木川は変化を感じずにはいられなかった。変わらないでいられるものなど何もない。

 いつもならコーチであるホセの指定席となっている、ひどく年季が入ってがたがたとなった木製のベンチに腰を下ろす。一度落ち着いてしまうともう立てる気力など自分の中のどこを探しても残ってないように思えた。

 佐木川は目をつむって荒い呼吸をどうにか整えようとする。息を吸う音、吐く音がより大きく聞こえ、顔に当たる風はやけに冷たく感じた。

 そんななか、とりとめもなくまた別の記憶が脳裏に浮かんできた。


 大会に入る直前のことだ。鬼島中学がバレンタイン学院と合同練習をしたことがあった。合同練習自体はもうすでに三度目を数えており、最初はライバル校が誇る充実した設備の数々にいちいち驚いていた鬼島中学の面々も、すでに勝手知ったる様子で伸び伸びと振る舞っていた。

 もちろん佐木川とて例外ではない。昼食休憩もそろそろ終わろうかという頃、近場のトイレが混みあっていたため少し足を伸ばして部室棟横にまで歩いていった。そちらのトイレのほうが新しく、彼としてはむしろ望んでやってきたようなものである。

 ただしこちらにも先客はいた。しかも蹴球団時代の二年先輩となる吉住だ。

 手を洗っていた吉住が「おう」と鏡越しに声をかけてきた。

 うっす、と佐木川も軽く頭を下げながらすれ違って中へと進む。

 そのままハーフパンツのチャックを下ろして用を足そうとした佐木川だったが、とっくに手を洗い終えているはずの吉住からの視線に気づいて動きを止める。


「あの、ズミくん。そうやってじっと見られてると出るものも出ないんですけど」


 洗面台にもたれかかってこちらを観察しているような先輩に対し、ささやかながら抗議の声を上げてみた。だが吉住に気にした様子は見られない。

 そして「サッキーよ」と呼びかけてくる。


「あのキョウヘイと常に比較されるってのは、その、どうなんだ」


 佐木川は完全に不意を突かれた。

 これまで誰からもその質問をされたことはない。だが、佐木川の頭の中では常に問い続けてきたことだった。そして答えはまだ見つかっていない。

 センス、技術、フィジカル、戦術眼、そして心の強さ。およそサッカー選手に求められるものをすべて備えているかのような榛名暁平と自分との間にはどれほどの差があるのだろうか。

 いったいどこまで鍛えれば追いつけるのだろうか。

 そもそもあんな怪物じみた選手に追いつくなんてことができるのだろうか。

 とっさには声が出てこない佐木川を見遣り、吉住は小さく頷く。


「おれはさ、しんどかったよ。キョウヘイだけじゃなく、久我にマサ、弓立、そして凜奈。あれほどの才能を持ったやつらがひとつだけ年下だったってことが」


 ここで言葉を切った吉住が意外にも笑みを浮かべた。


「誤解すんなよな。別にあいつらのことが嫌いだとか何だとか、そういう程度の低い話をしたいわけじゃないんだ。四六時中サッカーのことばかり考えている人間がさ、どう足掻いても届かないほどの才能の差を突きつけられたときにどうするかって話だ」


 もちろん、吉住が言わんとしていることは佐木川にも伝わっている。というよりもむしろ身震いするほどの共感を覚えた。

 自分の存在を賭けるほどの努力をすればこそ、その先で才能の差はいかんともしがたいほどに浮かびあがってくる。まだ中学一年生でありながらすでに佐木川はそのことを理解していた。年齢の問題ではない。わからない人間にはすべてが終わる最後の瞬間まできっとわかりはしないのだろう。

 それでも、といつの間にか自分が呟いていたことに佐木川は気づいた。

 もう一度、今度は力を込めて「それでも、あきらめるわけにはいきませんよ」とはっきり言葉にする。


「だよな」


 まるで吉住には佐木川の返事がわかっていたかのような、そんな口ぶりだった。


「やるしかねえんだよな。実際のところ。どれだけみっともなく足掻くのだとしても舞台から降りるよりはよほどマシだとおれは思ってる。なあサッキー、しがみついていこうぜ。振り落されるその瞬間までは」


 感情の昂りなどどこにもなく、ただ淡々と当たり前のことを言っただけ、というような彼の態度が佐木川にはかえって強い印象を残したのだ。

 固く閉じていた目を佐木川は開く。

 風景はすぐに輪郭を取り戻し、あの日のトイレではなく慣れ親しんだ河川敷が目の前に広がった。姫ヶ瀬市で最も大きい石出川がゆったりと流れている。

 とても静かだった。

 短時間の間に汗はすっかり引いており、濡れたままのジャージが思いのほか冷たい。もうひとっ走りしなきゃな、と佐木川は自分に言い聞かせた。

 行き先はもちろん決まっている。鬼島中学のグラウンドだ。

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