第41話 咆哮
精密機械は衝撃に弱い、と言ったのが誰だったか筧拓真はずっと思い出せないでいる。
彼のフィジカルの弱さを暗に皮肉ったようなこの言葉が、いまだ心のどこかにこびりついていた。そして言い訳としてしまっていた。
敵陣に近づいていけばいくほど守りの激しさは増す。体を強く当てられ、ユニフォームをつかまれ、足を削られるのを覚悟しなければならない。今までの筧ならば「それは自分の役割じゃない」と畠山や五味らのアタッカー陣に任せていただろう。
だけど前半終了間際の兵藤はそうはしなかった。たとえ強引にでも突破を図ることで得点への道を切り開いた。
自分のプレーには怖さがない。それは筧が常々課題としていたことだ。わかってはいたが、自身のプレーを見直す必要性が切迫していなかったため、うやむやになっている部分があったのは否定できない。
だから今、このゲームのなかで筧は階段をひとつ上がらなければならないのだ。
筧には鬼島中学サッカー部のみんなにはまだ話していないことがある。彼が一緒にサッカーをやれるのはこの夏までだった。九月いっぱいで家族とともに別の土地へ引っ越すことがすでに決まっていた。まだ中学二年生の筧にはどうにもできないことだ。
全国大会が終わるまで、筧は誰にも口外するつもりはない。もしみんなの集中をかき乱してしまったら、と思うととてもじゃないが打ち明けられなかった。
夏の最後まで勝ち残って、そうしたら笑い泣きしながらみんなにサプライズ報告してやろう。それが十四歳になった筧のささやかな夢だ。
「タクマ!」
暁平から強いパスが出されてくる。が、トラップできるぎりぎりの強さだった。その匙加減が暁平は本当にすごい。筧の場合、まず「相手が受けやすいパスを」と思い浮かべてしまう。どうしてもセーフティーな選択から入ってしまうのだ。
後ろ向きでボールを足元におさめた筧だったが、反転しようにも簡単にはさせてもらえそうもない。ここはFCのキャプテン、吉野のテリトリーである。
どう攻めるべきか、筧が逡巡している間に吉野はがつっと音がするほど激しく体を寄せてきた。
急いで筧はまた暁平へとボールを戻し、吉野を引き剥がそうと右前方へ斜めに駆けていく。一人でどうにかできる術を持たない以上、チームメイトと協力して敵の守備網を崩していくより他にない。幸い、筧には頼りがいのある仲間たちがいるのだ。
筧が吉野を連れていったおかげで空いたスペースに、代わって入ってきたのは松本要だった。そこにまた暁平からパスが出される。しかしスピード感あふれるドリブルを彼が仕掛けるには相手ディフェンスの人数が揃ってしまっている。要は自分と入れ違いで左サイドに流れた五味へ、珍しく右足でボールを送った。
受けた五味もサイドライン際ですぐ二人の選手に囲まれる。しかし離れたところにいる筧からでもわかるくらい、五味の表情はにやついていた。
こういうとき、いつでも五味は何かを狙っている。
まずはディフェンダー二人の間を割るパスを左足で蹴るそぶりを見せた。だがこれはキックフェイントだ。ほんのわずかでも引っかかってくれれば五味にとっては成功したも同然。すかさず右足のインサイドで左足の後ろにボールを通す。そしてそのままサイドライン沿いに縦へと抜けだした。
クライフ・ターン、五味が好んで使う技のひとつである。
左サイド深くに侵入していった五味のフォローには要が、ペナルティエリアのニアサイドには畠山が待ち受けている。暁平は少し下がってミドルシュートを狙える位置に。ならば、と筧はファーサイドに走りこんでいく。
筧の飛びだしを視界の端で捉えたであろう畠山が、相手ディフェンダーとのポジション争いのさなかですっ、と身を引いた。
そのタイミングを見計らっていたかのように五味がクロスを入れてくる。畠山の頭を狙った高い弾道ではなく、ゴールの前を横切っていく低くて速いクロスボールを。
筧のマークは吉野からセンターバックの選手へとスイッチしており、必死の形相で体を寄せてくる。キーパーの友近もできるだけシュートコースを塞ごうと前に出る。
それでも身を投げだすように滑りこんだ筧の執念が彼らに勝った。まるでシュートと見まがうほどの五味の高速クロスに、スパイクの足先がわずかに触れる。
筧にわかったのはそこまでだった。センターバックとキーパー、二人の相手選手たちともつれるように倒れ、額には鈍い痛みが走った。しばらく暗闇が続き、ようやく目を開けると心配そうにのぞきこんでいる畠山と五味の顔が見えた。
「タクマおまえ、血が」
「大丈夫っすか? 痛くないっすか?」
二人のその反応から自分が怪我を負ったことに気づかされる。
だが筧はボールの行方がどうなったかが気になって仕方ない。膝立ちになってきょろきょろとあたりを眺め回してみる。
相手キーパーの友近が悔しそうに拳を地面に叩きつけているその後ろ、ゴールマウス内にボールが転がっているのが目に入った。
「らしくないくらい泥くさいゴールを決めてくれたな。惚れるぜ」
駆け寄ってきた暁平の長い腕が筧の体に巻きついてくる。
とりあえず止血しないとな。暁平がそう言っているのはちゃんと聞こえているのだが、頭のなかで意味をなしてくれない。痛みなんてすっかりどこかに消えていた。
自分の体が自分のものじゃなくなっている、そんな興奮に突きあげられるようにして筧は天を仰いで叫ぶ。
「うらあああ!」
そんな獣じみた咆哮をあげながら筧は不意に思い出していた。「精密機械は衝撃に弱いものだ」と言っていたのが父だったことを。筧が父の腕時計を不注意で壊してしまった際にそう諭されたのだ。
どこでどう間違えて記憶したのか、なぜか筧はそれを自分のことだと認識したままこれまでサッカーをやってきた。自分の手で檻をせっせとこしらえていたわけだ。間が抜けているにもほどがある。
日頃穏やかな筧の豹変ぶりに驚いている暁平たちをよそに、当の本人は汗と混じって流れる血さえも心地よく感じていた。
2―2、ようやくゲームは振りだしに戻る。
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