第22話 心を決める〈1〉
コの字型になっているステンレス製のドアノブを握った瞬間、暁平の手にも病院独特の冷たさが流れこんできた。
そのまま静かにドアを横へと滑らせる。
「こんにちは」
病院に運びこまれた衛田の面会謝絶は三日間続いた。面会の許可が下りてすぐ、大勢で押しかけるわけにはいかないので部を代表してキャプテンの暁平が見舞いに訪れたのだ。
寝ているかもしれない、と考えて小声で挨拶したのは正解だった。右目まで覆うように頭部に包帯を巻かれた衛田はベッドで静かに眠っていた。
部屋は手狭だが清潔感のある個室であり、パイプ椅子に腰かけていた四ノ宮が「よう」と片手をあげる。制服でやってきた暁平と違って彼は私服姿だ。
「今、レイジのばあちゃんは担当の医者と話をしてるよ。ま、とりあえずかけろ」
そう言って立ちあがった四ノ宮は、折り畳まれていたもう一脚のパイプ椅子を慣れた様子で出してきた。
備えつけの戸棚にお見舞い用の果物をそっと置き、勧められるままに暁平も座ることにする。おそらくは衛田の家族も昔からの友人である四ノ宮を信頼して留守役を任せているのだろう。
ただの友人同士とくくってしまうには彼ら二人のつながりはあまりに強く、むしろ兄弟分といわれたほうがしっくりくる。
それはたとえば、自分と政信、要の関係に近いのかもしれない、と暁平は思う。
「すまなかったな」
唐突に四ノ宮が謝罪の言葉を口にした。
「残念だがレイジはここでリタイアだ。あれだけおまえらと一緒にプレーするのを楽しんでいたのになあ。あいつの言ってたサッカーの神様ってやつは、どうやら人の心を弄ぶのが楽しくて仕方ないとみえる」
「かもしれないな。なぜかサッカーと暴力は結びつきやすいみたいだから」
答えた暁平の脳裏には、これまでホセが話してくれた様々な国のサッカーにまつわる悪意の物語が浮かんでは消えていく。
差別と暴力に明け暮れる熱狂的なファンたち、エゴイスティックなあまり誰かを傷つけずにはいられないスター選手、独裁者の権威欲を満たすためだけに存在しているようなチーム、ギャングになるかサッカー選手になるかしか道がないようなスラム街、サッカーが戦争と解体のきっかけのひとつになってしまった国。
暴力事件を起こして久我がいなくなったとき、自分の感情を持て余していた暁平にホセはそんな話をしてくれたのだ。決して深淵には落ちるな、という反面教師のようなメッセージを添えて。
暁平の返事に四ノ宮もゆっくりと頷いた。
「サッカーの成り立ちからして避けられんのかもな。あれだろ、フランス革命の際にギロチンで斬り落とされたマリー・アントワネットの首を民衆が蹴りあったのが最初だっていう」
「ちょっと待て。誰から聞いたそんな嘘っぱち」
「榛名なんだが」
「シノくん、思いきりユーリにからかわれたな。起源としてなら世界各地に紀元前から球状のものを蹴る遊戯があったみたいだし、今の形に近いのはイングランドかイタリアが発祥だっていわれてる。まったく、そんな趣味の悪い作り話をするなんて、あいつはサッカーに恨みでもあるのかよ」
「それは、やっぱりあるんじゃないか」
真剣な眼差しで四ノ宮は言う。
「サッカーさえなければ、そう榛名が考えていたとしても不思議じゃないとおれは思う。もっともあいつのことだ、そんな単純に割り切ってはいないだろうが」
当たらずとも遠からず、たしかに四ノ宮の読みはいい線をいっているかもしれない。さすがに好意を寄せているだけあって悠里をよく見ているなと暁平は感心した。
だが、サッカーがなければいいなんてことはありえない。断じて。
「でも、こんな話だってある。1914年の冬、第一次世界大戦でドイツ軍とイギリス・フランス軍がいつ終わるともわからない悲惨な塹壕戦を繰り広げていたんだ。そんななかで迎えたクリスマスの日、ドイツ軍の陣地に有名なテノール歌手が慰問に訪れて、その美しい声を戦場に響かせた。それをきっかけにお互いが自発的に休戦し、両軍の兵士が交流するなかでサッカーも行われたんだってさ。戦場でサッカーだぜ。クリスマス休戦って呼ばれてる有名なエピソードだよ」
「その話は、おれも好きだ」
不意にベッドから声がした。寝ていたはずの衛田がいつの間にか目を覚ましていた。
「起こしちまったか」
「衛田くん、悪い」
四ノ宮と暁平がそれぞれに反応するが、衛田に気にした様子は見られない。
そのまま淡々と彼は語りだした。
「ただしそれには余談がある。戦争が長引いてもう二回、戦場にクリスマスがやってくるんだが、むしろ平時より砲撃の激しさは増したそうだ。厭戦気分が広がらないようにな。サッカーをすることでいっとき心を通わせても、そのあとにはまた延々と続く殺しあいが待っていたかと思うと、いつもおれはたまらない気持ちになるよ」
そこまで話し終えた衛田の呼吸が早くも乱れている。会話するだけで体にはだいぶ負担がかかってしまうようだ。
ナースコールを押す構えを見せながら四ノ宮が言った。
「おいレイジ、もういいから今は寝てろ」
「もう少し。少しだけだ、シノ。どうしても榛名には伝えておきたいことがある」
こうやって頼みこまれれば四ノ宮は弱い。
不承不承ながら衛田の希望を受けいれて、椅子にどっかりと座り直す。
衛田が口にした言葉が気になる暁平は彼に訊ねた。
「おれに伝えておきたいって、何を」
「おまえ、ディーン・シールズって選手を知っているか」
暁平も海外サッカーにはそこそこ詳しいが、その名前には聞き覚えがなく、衛田の意図もわからなかったので黙って先を待つ。
「北アイルランド代表にも選ばれてるミッドフィールダーだけど、ヨーロッパのトップリーグでプレーしているわけじゃないからわからんだろうな。じゃあゴードン・ストラカンはどうだ。こっちは耳に馴染みがあるんじゃないか」
「ひょっとしてスコットランド・セルティックの監督を務めてた」
「そう、そのストラカン。現役時代、技巧派の選手として鳴らした彼もまた、スコットランド代表に選ばれるほどの実力の持ち主だったそうだ」
名前を挙げた二人の共通点が何かわかるか、衛田はそう問いを投げかけてきた。
「ごめん、イギリス絡みってぐらいしか見当がつかない」
それを聞いた衛田はかすかに笑った。正確にいうならば、暁平には笑ったように見えた。
「二人ともな、ずっと片目だけでプレーしていたんだ。小さい頃に右目を失明して、それでもプロに、それも代表クラスの選手になった人たちなんだ」
こらえきれなくなった四ノ宮が、その大きな手のひらで両の目蓋を覆う。必死に声を押し殺していたが、彼は泣いていた。
もらい泣きしそうになるのを暁平はきつく唇を噛んでどうにか耐え、衛田が続ける言葉に耳を傾ける。
「榛名ももう聞いたんだろう、おれの目のことを。右目はもう、ほとんど何も見えなくなっちまったらしい。あっけなさすぎて全然ぴんとこないけどな」
シールズやストラカンと同じ右目だ、と彼は言う。
そう、何者かに襲われて重傷を負った衛田だったが、とりわけ右目へのダメージがひどく、もはや失明同然で回復の見込みもない。ここへやってくる前に、暁平は貝原からそう打ち明けられていた。
「じゃあ、もうサッカーは……」
やっとの思いでそれだけを口にするのが精いっぱいだった暁平だが、語気鋭い衛田の反論にあってしまう。
「逆だ、バカ。何のためにシールズとストラカンの話をしたと思ってるんだ。実際に片目でサッカーをやってきた人たちがいる、今のおれにそれ以上心強いことはない。榛名、おれはやめねえぞ。死ぬまでサッカーやめないからな。だからおまえも――」
最後まで言い終わらないうちに衛田は激しく咳きこんでしまった。
彼の左目だけは病室には不釣り合いなほど強い光を放っていたが、呼吸がしんどそうなのは隠しようもない。胸のあたりの布団がずっと上下に動いていた。
ここらが潮時だと判断した暁平は静かに席を立った。
「衛田くん。おれはもうお暇するけど、最後にひとつだけ。だいたいの想像はついてるんだが、誰にやられたんだ」
涙を拭った四ノ宮は暁平と目を合わせるが、何も答えようとしない。
二人は息を整えている衛田が口を開くのを待つ。
その衛田はしばらくの沈黙ののち、こう言った。
「顔は、見ていないんだ。暗かったからな。何人いたかもわからん」
体のなかのありったけの空気を集めてきたような、大きなため息を四ノ宮がついた。
「な。バカだろ、こいつ」
「ああ。びっくりするくらい大バカだよ」
暁平たちには関与させまいとしているのか、犯人をかばっているのか、それとも自分の身に起こった出来事を甘んじて受け止めているのか。いずれにせよ、衛田にはそれ以上話すつもりはなさそうだった。
クソったれ、と呟いた暁平は二人に背を向けて、足早に病室から出ていく。
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