第16話 鬼島の守護神〈1〉
弓立敦宏は暁平のことが昔から気に食わなかった。敵視していたといったほうがより正確かもしれない。
幼いころからやんちゃなガキ大将だった弓立にとって、華やかな暁平の存在はまさに目の上のたんこぶでしかなかった。自分より何かと目立つ男子がいる、そう思うだけでプライドが傷つけられる気がして仕方なかったのだ。
小学五年生の六月にとうとう弓立は暁平を呼びだした。いわゆるタイマンを張るつもりで「五限目の授業をすっぽかして人目につかない体育館裏にまで来い」と。
弓立に比べると暁平の身長は10センチほども高かったが、むしろハンデとしてはちょうどいいだろう。そう考えるほど小学生ながら弓立はケンカ慣れしていたし、腕に自信もあった。
だが結果は完敗だった。同い年でここまで強い奴がいるのか、そんな衝撃を受けるほどに打ちのめされてしまった。
鼻血を流し、みじめさに押し潰されるようにして地面に仰向けになっていた弓立に、綺麗な顔をしたままの暁平は言った。
「弓立、だったか。今日の放課後は空けとけよ。敗者は勝者に従わねえとな」
どうにでもしろ、という気分だった弓立は投げやりに「わかったよ」と了承する。自分をさらに虚仮にしたいのならすればいい。
教師からの説教はともに短時間で切り抜けて迎えた放課後、弓立が連れていかれたのは河川敷のグラウンドだった。
見たことのある顔もいればない顔もいる。きちんと整備されているわけではない、手作り感のあふれるグラウンドではあったが、誰もが楽しそうにボールを蹴っていた。
「何だここ」
自分がひどく場違いなところへやってきた気がした弓立の呟きを、耳ざとく暁平が聞きとがめる。
「サッカーやってるのが見てわからねえのか。今日は自主練だけどな」
鬼島少年少女蹴球団ってチームなんだ、とグラウンドに向かってあごをしゃくりながら暁平は言う。
そのまま弓立の返事を待つことなく、暁平は全員の耳に届くような大声を張りあげた。
「おうい、みんな聞けー! 念願のキーパーを連れてきたぞー!」
いっせいにその場の視線が弓立と暁平に集中する。思わず弓立はたじろいでしまった。
「おい、どういうことだよ」
隣で満足げな表情を見せている暁平の脇腹を突く。
返ってきた彼の答えは、弓立にとってまったく想定外のものだった。
「だから今日からおまえもここに入るんだよ。言わなかったか?」
「聞いてねえよ!」
そう弓立が憤慨してももう遅い。走り寄ってきた暁平のチームメイトたちに、あっという間に取り囲まれてしまった。
「誰かと思えば弓立くんかあ」
「血の気の多そうな顔してんな、こいつ」
「うわ、怪我してるよ」
「これから一緒に頑張ろうぜ」
みんなが口々に挨拶してくるのを、目が回りそうになりながら「ああ」とか「ほっとけ」とか「おう」などと弓立は素っ気なく応対していく。
そんななか、一人の少年が握手のために右手を差しだしてきた。
「だいたいの事情は察してるよ。キョウのやつが無理やり引っぱってきたんだろうが、おれはおまえが来てくれてとても頼もしく思ってる」
彼、矢野政信のことは弓立も知っている。暁平とは別のクラスにもかかわらず、校内で二人が連れだっているのを何度か見かけていた。
「榛名の周りにももののわかった友達がいたんだな」とその手を握り返しながら、弓立は少しばかり暁平への印象を改めた。
あたりを見回した暁平が政信に訊ねる。
「マサ、そういやリンは? まだ来てないみたいだけど」
「今日は自分が当番だから急いで買い物してくるってさ。時間的にはもうそろそろ――ほら、戻ってきた」
そう言って政信は土手と河川敷とを行き来するための階段を指さす。
軽快な足取りで飛ぶように駆けおりてきた人影がそこにあった。
遠目からでは視力のいい弓立にもはっきりとはわからなかったが、近づいてくればもう見間違いようがない。ショートカットでスポーティーな格好、だけど雰囲気が男子のそれとはまるで異なる。
「女子ぃ?」
「バカにするなよ。さっき教えただろ、うちは『少年少女』蹴球団なんだからな。おまえ、あいつのテクニックを拝んだら絶対に腰抜かすぞ」
弓立の言葉に、珍しく暁平がむきになったような反応をみせた。
周囲の少年たちも彼に同調して「そうだそうだ」「リン姉は本当にすごいんだから」と騒ぐのだからたまったものではない。
慌てて弓立は弁解に努めた。
「いや、バカにしたつもりはねえよ」
「じゃあどういうつもりだったんだ」
なおも暁平はしつこく食い下がってくるが、息を切らして走ってきた少女がそんな彼の肩をぽん、とたたいて言った。
「ね。もしかして新しく入団する人?」
目を輝かせた彼女からの問いかけに、暁平は思いきり胸を張って答える。
「おれが連れてきたんだ。しかもキーパーだからな」
「キーパー!」と叫んだ少女は満面の笑みで親指を立てた。
「でかした、キョウちゃん」
それはもう、一点の曇りもない青空のような笑顔だった。
これまで弓立は女子という生き物に興味を持ったことがなかった。自分の母親や姉たちと同じで、やることなすことけちをつけてくる存在。その程度の認識でしかなかった。
後になって弓立は、この瞬間に自分が「恋に落ちた」のだと知る。男子同士で派手に傷を作るくらいに遊ぶのが楽しかった彼が今、生まれて初めて女の子に魅入られてしまったのだ。
その少女、片倉凜奈からいろいろ話しかけられたにもかかわらず、頭がぼうっとなってしまった弓立はこのときの会話をまるで覚えていない。
唯一、はっきりと記憶しているのは「おれ、サッカーやるよ。キーパーでもなんでもやる」と熱に浮かされたように宣言したことだけだ。
なぜゴールキーパーを弓立がやらされることになったのか、その理由は練習に参加するようになってすぐにわかった。単純に誰もなり手がいなかったのだ。
「だってつまんねえだろうが」
身もふたもなく暁平は言う。他の蹴球団メンバーたちの意見も暁平と大差なく、ボールは蹴ってこそ、というのが彼らの共通した見解らしかった。
だが、弓立にとってキーパーはトランプのババのようなポジションではなかった。フィールドにおいてたった一人だけ手を使えるうえにユニフォームも違う、その特別扱いが気に入った。
しかも守備陣の最後の砦がゴールキーパーなのだ。もし暁平がミスをやらかして、自分がその尻拭いをしてやったなら堂々と恩を着せてやれるではないか。
入団当初はそんな想像をして悦に入っていた弓立だったが、いきなりそんな優秀な選手になれるほど甘いはずがない。しばらくの間は基本的な動きを身につけるべく、重要だが退屈な練習がひたすら続いた。
これまでの弓立だったら「やめだやめだ」ととうに放りだしていたかもしれない。そうならなかったのは一にも二にも凜奈のおかげだった。
「じゃあアッちゃん、今日も特訓しよっか」
彼のことを凜奈や年下連中は「アッちゃん」、同学年ないし年上の男子たちは「アツ」と呼ぶようになっていた。
凜奈からそう誘われては弓立に断れるはずもない。彼女の柔らかい声で「アッちゃん」と呼ばれるたび、心臓がロデオのごとく跳ね回ってどこかへ行ってしまいそうな気がするほどだったのだから。
同じようにレベルアップのための特訓と称して暁平や畠山、それに久我なんかも「おいアツ、やるぞ」と誘ってくるわけだが、弓立からしてみれば彼らは自分のシュート練習に生きた対戦相手をほしがっているだけのことだ。けれども凜奈は違う。
あくまで弓立のスキルアップを目的としてコース、球筋、速度を様々に操りながら本当の意味で練習に付きあってくれたのだ。好きな女の子にここまでしてもらえたなら、弓立も必死になって上達するしかない。
六年生が引退して新チームになる頃には、弓立は押しも押されぬ蹴球団の正ゴールキーパーの座を勝ちとっていた。コーチのホセが「キョウヘイの眼力は大したもんだ」と言っているのは甚だしく納得がいかなかったが。弓立が感謝しているのは凜奈にだけだ。
そんな熱っぽい視線をずっと凜奈に送っていた彼だからこそ、彼女の気持ちが誰にあるのかはすぐにわかった。またしても榛名暁平だ。そして暁平も凜奈に特別な想いを寄せているのだ、と。
周りのみんなにとっても二人が両想いなのは公然の秘密だったようで、気づいていないのは当人たちばかりらしかった。
初めての恋はあっさりと片想いに終わりそうだったが、弓立にしてみれば「だからどうした」の一言に尽きる。凜奈のおかげでサッカーの面白さに気づきはじめていたし、活躍すればまたあの笑顔をみせてくれる。彼にはそれで充分だった。
つまるところ、弓立のサッカーのすべては凜奈のためにあった。そして、裏を返せば凜奈を失った鬼島少年少女蹴球団など心底どうでもよかったのだ。
「リンが、おれたちの前からいなくなった」
震える声で暁平がみんなにそう告げたあの日、弓立は反射的に彼を殴り飛ばしていた。
「どのツラさげてきやがった! おまえがついておきながら何てザマだ!」
弓立にだってわかっている。暁平も深い悲しみに打ちひしがれているのだし、きっと誰にも凜奈を引き止められなかったであろうことは。それでも気持ちのやり場はその拳にしかなかった。
いっせいに周囲が止めに入り、暁平から引き離された弓立は「あ――――ッ!」と天を仰いで絶叫した。何もできずに彼女を遠くへ行かせてしまった己の不甲斐なさを責めるように。
しばらくして自分を後ろから羽交い絞めにしていた久我を「触んなクソが!」と振り切り、持ち場であるゴールへとふらふら歩いていく。彼の異様な様子に気圧されて誰も声をかけてはこない。
近くで見れば塗装が剥がれ落ちて錆もそこかしこに浮いているゴールポストを、いきなり弓立は力いっぱい殴りはじめた。繰り返し何度も何度も。
両手ともぶっ潰れりゃもうキーパーはしなくていい。もしかしたらそんなふうに考えていたのかもしれなかったが、とにかく彼は形にならない自分の感情を何かにぶつけなければ気がすまなかった。
そのあと弓立は遅れてやってきたホセに怒鳴られ、急いで病院に連れていかれて診断を受けさせられる。痛みはまるで感じていなかったのに指が三本折れていた。当然の結果だろう。
どのみちそんな骨折には関係なく、弓立はもう蹴球団から抜けるつもりでいた。いる意味はどこにも見当たらなかった。
だが長すぎる夏休みを持て余しているせいか、気がつけば自然といつも足がグラウンドへと向いてしまう。自分の未練がましさが彼にとってはひどく意外だった。
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