セイレーンの唄

第16話

 しとしと降り注ぐ雨が、雨衣を重くしていた。残念ながら、持参した撥水性のある雨衣はリリヴェルが用意してくれた実に見事な黒い衣装を覆い隠す、深い緑。しかも使い古しだ。教会支給のフードから袖の先まで真っ白のフェブリスの雨衣の方が、よほど素材が良い。背中に大きく描かれたゴート教会の紋様は、金糸。見るからに高級品だ。たとえ魔族だろうが、支給品に差をつけるほど教会も差別はしていないという事実に、何とはなしにオーヴスは安堵していた。リリヴェルは茶色のマントを羽織り、フードを目深にかぶってはいたが、常に手は腰の剣に添えられている。警戒だけは緩めていないのだ。


「三日じゃ着かなかったわね」


「悪かったなッ! 次々魔物が湧いて来るとは想定外だったんだよ!」


「どっかの誰かさんが橋を塞いでるから、道を使う人が少なかったんでしょうねぇ」


「ぐぅっ……」


 何度目かの口論だが、今のところフェブリスがリリヴェルに勝てたことは、オーヴスの記憶では一度もない。かといって、本気で嫌い合っているわけではないことは、薄々感じていた。

 だからこそ、今も二人の後ろで苦笑を零すにとどめるのだ。

 橋を越えて、四日が経過した。道中、血に飢えたか、あるいは戦いという本能に飢えたのか、何度か魔物に襲われている。フェブリスは斧で魔物の頭蓋を粉砕し、リリヴェルはすらりと抜き放った剣で、的確に急所を突いていく。そうしてオーヴスはそんな二人の背後から精霊術なり円月輪なりで支援に徹している。下手に前線に飛び出すよりは余程安全であり、かつ確実に二人の攻撃の隙をカバーする方が効率的なのだ。

 想定される魔王と言えば「勇者相手に魔法による遠隔戦闘と武器による近接戦闘を駆使した圧倒的強さを持つ者」なのだろうが、生憎とオーヴスには難題だ。

 実際、剣に触った事すらないのだから。


「でも、そろそろ着くのは間違いねーからなッ。潮の匂いが近づいてきた」


「そうね。陽が完全に落ちるまでには間に合いそうね」


「へぇ、良くわかるね」


「そりゃ、風が潮のにお……あ、そうか。オーヴスの兄貴は、干し草の匂いくらいしか知らないのか」


 白いフードの下からちらりと左右非対称な色の瞳を覗かせ、フェブリスは苦笑する。


「じゃあ海を見るのも初めてだな! 兄貴の反応が楽しみだな」


「そうね、白目剥くんじゃないかしら」


「そ、そんなに驚く物なのかい? これは心の準備が必要かな」


 くすくすと笑い合う二人。想像もつかない世界にオーヴスは想いを馳せながら、空気に微かに混じった別の香りを鼻腔から深くに吸い込む。

 これが、フェブリスの言っていた潮の香りであるのだろう。心が、にわかに弾む。

 知らないものに触れることが、徐々に楽しくなりつつあるのかもしれない。平坦で、変化のない日常から逸脱した今という時間。リリヴェルとの二人旅から、フェブリスという同族に出会えたことでオーヴスも変化をしているのだ。

 人との巡り合いは、変化を生む。良くも悪くも。これからも、きっと。


「あ、そろそろ森を抜けるな。街、見えるといーけど」


「霞んで見えないかもしれないわね」


「だな」


 ぬかるんだ土を進むたび、軽く泥が跳ね折角の上等なブーツを汚していく。

 フェブリスの言葉通り、五分とかからず森を抜けた。開けた先に、高い壁の陰が薄っすらと見える。あれが目指している場所に違いない。


「港町……サラーズラド」


「交易で栄える、ヴィント・アイル地区では一番大きな街よ」


 リリヴェルの言葉に、オーヴスは頷く。交易。また知らない光景が広がっているのだろう。


「まぁ何はともあれ、体の汚れ落としたいよなー」


「賛成だわ。ゴート教会の宿泊施設は使えるのかしら?」


「うっわ、ケチ臭ぇねーちゃんだな。タダで使おうって魂胆かよ」


 苦い口調で零したフェブリスだが、再度オーヴスを振り返る。


「ま、魔族にゴート教の布教中だって言えば、案外無理はないかもな?」


「なるほどね」


「その代わり、飯は出ねーから、食ってから向かうか」


「久しぶりに鮮度のいい食事が出来そうね」


 リリヴェルの声に、食に対する歓喜が滲んでいた。気持ちは、オーヴスにも良くわかる。乾物ばかりの道中は、中々気分を寂しくさせるものだ。

 少しだけ硬さの増した、それでもまだぬかるんだ道を歩きながら、オーヴスは空を見上げる。しとしとと、あまり重さを感じない雨が、鼻や頬を濡らしていく。夕暮れの近づいた、陽を遮った黒い雲が広がっていた。

 ほんの少しだけ、牧場の乳牛が脳裏を過ぎり、寂しさが掠めた。だが、軽く頭を振って、先を歩く二人の背を早足で追いかける。

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