▽6

 都を縦断する川の中ほどにある、ひと際大きな太鼓橋。その真ん中の欄干の上に1つ、小さくうずくまる人影があった。抱えた膝に顔を埋めて、上目遣いに十六夜の月を見上げている。

 そんな姿勢でも折り目正しい緋袴とは対照的に、水干は変なところにしわが寄っていた。烏帽子はその辺に放り出されているおかげで、滑らかな黒髪は月を浴びて輝いている。

 月明かりに浮かぶ姿に見とれているうちに、エクスの息は落ち着いていた。橋の袂から一歩踏み出し、そっと声を掛ける。

「こんなところにいたんだ。……かぐや姫、でいいんだよね?」

「別に謝らないから。世話にはなったけど、そっちが先に、勝手にお節介を焼き始めたんだからね」

「うん。そうだったね、ごめん」

「別に謝らなくていいの! ……お互いさま、だったんだから」

 エクスは小さく笑うとそのまま隣まで近づいて、背を向けるように欄干に寄り掛かって月を見上げる。

 風も音もない空に、わずかに浮く雲が月に掛かった。

「エクスはさ。かぐや姫はどうやって月に帰ると思う?」

「月からお迎えが来るんだよね。少なくともかぐやを乗せていくわけだから、それなりに大きくて頑丈で、乗り心地のいい乗り物、だと思うんだけど……」

 深く考えずに返したエクスは、だからかと、小さく笑う。

「その前に空を飛んでみたかったんだ? 確かにいきなり月までって言われても、ちょっと怖いよね」

「そういう正解は、楽しそうだよね……」

 小さな笑いを含んだかぐや姫のつぶやきは、エクスには届かなかった。

 雲が流れて、月の光がひと際増す。空は高く澄み渡り、でも地上は闇に沈んでしまったように、ただ静かだ。

「ボクはさ、月に行く運命にはないんだって」

 今度こそ怪訝な様子で振り向けば、かぐや姫は笑みを浮かべたまま静かに涙を流していた。

「月には何でもあるっていう話で、だからボクは無理難題も出せるくらい物知りということになっているんだけどさ。なんでもある月があんなに小さいってことは、とんでもなく遠くに、空高いところにあるってことでしょ? そんなところに行ける道具も術も、機械だって乗り物だって、生き物だって怪異だって。……そんなの、見たことも聞いたこともない」

「それはだって……、これから起こることで。そういう乗り物だって地上にはないだけで、だからかぐやが聞いたことないだけで」

 何かに焦るように思わずまくしたてたエクスが、言い終わってから気付いた。気付いて、かぐや姫の持つ運命の書に目を向ける。

「ボクね。『月に帰る』の、初めてじゃないんだよ? 3年後がもう3回目なの」

「初めてじゃない? え、ちょっと待って、それに3回目って」

 エクスは驚き過ぎて思考が空回りしているが、かぐや姫は涙を流したままくすりと笑う。

「最初は8歳の時。帝が討伐隊を率いて家の周りを護衛して、でもボクを守り切ることは出来なくて、天女に連れ去られてしまう。でもその3か月後にはね。ボクは元の家に戻ってきてたんだ。その間に翁は竹林でまた赤ん坊を拾って、ボクがいない3か月の間に8歳の姿になったって。そんなことありえない、嘘に決まってるじゃない」

「でも、だって…… そう、小さい頃のことだから」

「2回目は、ほんの数か月前だよ。帝と3年間文通して、月から迎えがきて、誰もそれを阻まずに、阻むふりさえ見せずに、屋敷から連れ出されて。そのあとはぐるりと1周、3か月かけて想区を回って戻ってきたの。その間に翁はまた竹林で私を拾って、やっぱり3か月でこの姿まで育ったってことになってる」

「想区のストーリーは繰り返されるって。ある一定の周期があるって、聞いたことはあるけど……」

 エクスが絞り出した声は、今にも途切れそうなほど震えている。だがかぐや姫の声音は、不自然なほど穏やかにのびやかに、落ち着いていた。

「それでもね。……それだから、かな。月には行くことができない、月に帰るなんておとぎ話にすぎないって確信したかった。たくさん調べたし、勉強したし、いろんな人の力を借りたんだ」

 そしてかぐや姫は、嘘も誇張も感じさせない笑顔を、エクスに向けた。

「楽しかった。月へ行く方法があるならあるで、ボクには関係ないところで月に行く方法があっても、それも良いかなと思えるくらい楽しかった。しわくちゃのおばあさんになって次のかぐや姫に交代するまで、かぐや姫を続けてもいいって思えたんだよ。……竜種のヴィランがいたことだって、もう笑い話にできるってくらいにさ」

 口を開きかけたエクスが、目に力を込めて押し黙った。袖口で目元を乱暴に拭って顔を上げると、かぐや姫が首を左右に振る。

「調律が誰にとっても正しいことなの、ボクも分かるよ。調律をすれば記憶は失われる。それは許せないし、どうしても無理。でも、調律をしなければ世界は終わってしまうというなら、選択の余地はないじゃない」

 そうでしょう、と笑ったかぐや姫の唇が、歪に吊り上がった。

「かぐや……?」

「だからね。最後の最後まで悩んだんだけど、ボク、月に行ってみることに決めたんだ。『すべての混沌を飲み込んだ黒き竜は、月まで昇ってその証を残す』。これね、ロキが教えてくれた伝承なんだよ?」

 袖もとで口を覆って笑うかぐや姫の瞳は、いつのまにか月の色に染まっていた。少しだけ歪に欠けた丸い瞳は、まばたきするたびに三日月のように怪しく煌めく。

「月に証を残せるなんて、素敵でしょう? これが3回目になるというなら、これまでの分も含めて3つはその証を残してこないと。それで想区が保てなくなっても、もう調律が必要なほど壊れかけていたんだもの。仕方ないよね?」

「ちょ、ちょっと待って。待ってよ、かぐや!」

 後ずさりそうになる足で地面を踏みしめ、エクスは欄干に詰め寄ると、立ち上がったかぐや姫がエクスの前にかがみ込んだ。

「そういえば、浜辺で最初に抱き留めてくれたとき。ボクにキスしてたの気付いてた?」

「なっ?!」

 瞬時に顔を真っ赤にしたエクスの鼻を指先で弾いて、かぐや姫はそのまま後ろに、ヴィランの詰まった川面へ飛び降りる。

「ボクは竜になって、月まで昇ってみせる。だから君にはそれを見ていてほしいんだ! いつまで覚えていてほしい。ボクの、……わたしの代わりに」

 池に小石を投げ込んだような小さな音が橋の上まで届くほど、辺りは静まり返っていた。我に返ったエクスが、欄干に飛びついて覗き込む。

「だめだよ、かぐや!」

 次第に蠕動を始めたそれは、表面にヴィランの頭のような、大きな魚か蜥蜴の鱗のような、奇怪な文様を浮かべては、真っ黒い水面のような元の姿を波打ち立たせ始めていた。

「新入りさん、かぐや姫は見つかりましたか?」

「わりい遅くなった! こいつら、かぐや姫を月まで連れていくつもりらしいぜ。どうだ、行けると思うか?」

「エクス? 大丈夫?」

 駆けつけたタオたちとはっきりと目を合わせながら。エクスは、絶対許さない、と呟いた。

「タオ!」

「お、おう」

 気圧されたタオの後ろで、シェインとレイナがこそりと目配せし合う。

 エクスは氷の剣を取り出すと、かぐや姫が飛び込んだ辺りに柄を突き立て、沈む前に川面を凍り付かせる。

「あそこ、あの辺にかぐや姫がいるはず。何とか引きずり出すから、引き上げるのを手伝って。シェインは側面から援護。レイナは引っぱり出したら速攻で調律。出来るよね?」

 有無を言わさず、エクスは3人の目を覗き込む。頷いたことだけ確かめると、取り出した槌盾を振り回して欄干を破壊する。水面に落として足場を作ったところで、水面からいくつもの、竜の頭を模した何かが起き上がり、天に向かって咆哮を上げ始めた。

「速攻で片付けるよ、みんないい?」

 小さく不安定な足場に向かって躊躇なく飛び出したエクスを、続ていタオも追いかけ。シェインとレイナは援護をするべく、射線の通る安全地帯に向けて散った。

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