四日目――其ノ二

「一。あそこよ」

古い古い木造家屋。古を感じさせる建造物。

「ここが管理人室?」

「そうよ」

それは小さな離れ。窓の向こうは真っ暗。私たちは扉をノックする。

「すみません。誰かいますか? 管理人さん。コテージに宿泊している物ですけど。」

返答はない。人の気配すら感じない。

「いないみたいだな」

「自宅の方へ行ってみましょ」

私たちは敷地の奥へと進む。手入れが行き届いていない庭。雑草が縦横無尽に散らかっている。それを足で掻き分け慎重に進む。

 『主倉おもくら』と書かれた表札。すりガラスの張られたスライド式の玄関。インターホンは無い。中からは灯りとテレビの音が漏れている。

「入っていいのかしら?」

「いいんじゃない。緊急事態だし」

彼は私を押しのけ扉を開ける。

「ごめんください。コテージの管理人さんはいらっしゃいますか?」

「はいはい」

重い腰を上げるかのような声。そして奥から人影が現れる。

 一は体を半分玄関の中へ入れ、管理人と話をつける。その後ろ姿をただ眺める。辺りには、おばあちゃん家の匂いが漂っている。なびく髪が口に入る。私は空を見上げる。無数の星が照らす夜空を。

 虫が不快なほど騒ぎ立てる。近くで。遠くで。庭から。山から。

 そこで私は異変に気付く。虫の声に紛れる女性の声に。誰かを呼んでいるように張り上げられた声色。声の出所は敷地の正面の山道。

「音衣?」

彼はまだ話している。

 私は一人、敷地を出て山道へと入る。とても暗い。数メートル先が全く見えない。私はライトで道を照らしながら足を進める。ここまで来るとその声が音衣のものだとはっきりと分かる。「ムンク」彼女はそう言っている。意味は分からない。

 山中に声は響き渡る。しかし発生源が分からない。右から左から聞こえてくる。道は何度も枝分かれを繰り返し蛇行しているので、どこへ繋がっているか見当がつかない。

「音衣」私は呼びかける。一切響かない私の声。音衣の高く透き通った声は山中に通り抜けてるのに、私のそれは通り抜けるどころか真下に落ちている印象を受ける。

 しばらく歩いた。最初は近くから聞こえていると思っていたが、どれだけ歩いてもその距離は縮まらない。そしてそれは途中で途切れる。彼女の居場所を見失う。仕方なく私は引き返す。

 闇は限りなく闇。光の存在を疑わせるほどに深く濃い。足元は岩で激しい凹凸。木には得体の知れない虫。草木を揺らす小動物。自分のデータにはあまりない光景。

 上っているのか下っているのかも分からない道。やがて道の分かれ目に差し掛かる。

 私はここで、ようやく帰る方向が分からなくなっている事を理解した。電波は届いていない。山道に入る前は少しだけの予定だった。少しだけなら入っても戻ってこれる自信があった。だが、音衣の声を追いかけているうちに深い部分まで足を踏み入れていた。そして深淵に一人取り残された。

 しかしこれは決して迷子ではない。迷子とは「自分の所在が分からなくなり、目的地に到達することが困難な状況」の事。私のは道が分からない。ただそれだけの話。目的地にはいずれ到着する。

 私は一晩ここに留まることにした。明るい時に行動したほうが効率が良い。今歩き回る事は体力の無駄。それに、私自身幼少時に一度遭難したことがあるが、一晩山で過ごしても全く平気だった。こんなことは大したことでは無い。

 山の夜は冷える。肌寒い。ここで睡眠を取ることは体を冷やして良くない。朝まで起きておくことにした。

 数時間ほどたった。弱く光が差し込み僅かに視界が開けた。立ち上がる。体が痺れる。

 私は迷子ではない。もっと長い間、この山の風情を楽しんでいても良い。しかし、恐らくあいつ以外の皆は心配している。だから、早く帰宅しなければいけない。私は足を進める。

 私は、やみくもに歩いているわけではない。山の形から、どの道を選択するべきか推察しながら動いている。

 それは突然の出来事。「ふっ」と体が軽くなる。私は落下した。

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