四品目:ワイバーンの唐揚げ定食(後編)

 アセムント通りの一本外れた路地裏。

 夜の灯りに照らされ、小さな木製の看板が風に揺れている。


 ――【妖精の宿り木】。


 扉を開けると、柔らかな燈火の中に木の香りが満ちていた。

 カウンターの奥では、店主アキヒコが包丁を研ぎながら、静かに開店の支度をしている。

 静謐だが、どこか人の温もりを感じる空気。


「ふぅ……そろそろ来る頃ですかね」


 アキヒコが独りごちた瞬間、扉の鈴が軽く鳴る。

 現れたのはロージュ。歳月を刻んだ顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。


「ロージュさん、いらっしゃいませ」

「うむ。いつものを頼む」

「はい、日本酒と鮭とばですね。どうぞ、カウンターに」


 ロージュは席に腰を下ろし、温かいおしぼりで顔を拭う。

 その瞬間、少しだけ表情が緩んだ。


「ふぅ……いい湯だな。そういえば、いつもの冒険者の兄ちゃんは?」

「まだ来てませんね」

「そうか。今日は遅いかもしれんの」


 アキヒコが日本酒を注ぐと、米の香りがふわりと立ちのぼる。

 ロージュは静かにお猪口を傾け、喉を鳴らした。


「……やっぱり、ここの酒はうまい。舌の奥で米の甘みが溶けるようじゃ」


 そう呟いた直後――扉が重たく軋んだ。


 入ってきたのは、包帯を巻いた男。

 オスカーだった。

 その瞳の奥には、戦いの余熱と、言葉にできぬ影が宿っていた。


「……いらっしゃいませ」


 アキヒコは思わず声を低くする。

 オスカーは無言のままカウンターに座り、麻袋を置いた。


「あぁ、これで何か作ってくれ。腹が減った」

「え、ええ……かしこまりました。ですが、その怪我……」

「依頼の帰りにちょっとやられただけだ。気にすんな」


 アキヒコは袋を開き、中を覗く。

 そこには赤黒い肉塊――筋繊維がしなやかに走り、光を反射するほどの艶があった。


「……これは。まるで鶏肉のように繊細ですね」

「ワイバーンの肉だ」

「ワ、ワイバーン!?」

「ワイバーンじゃと!?」


 ロージュまで声を上げ、鮭とばを落とした。


「おっと……毒抜きは?」

「済んでる」

「なら安心じゃ。店主よ、腕の見せどころじゃぞ」


 アキヒコは短く頷き、包丁を握り直した。


 肉を断つ音が響く。

 ワイバーンの肉は弾力を持ちながらも、刃を入れるとすっと通る。

 切り口から、わずかに魔力の残滓が湯気のように立ち上る。


「肉質は上等ですね。鶏よりも締まりがあり、脂が澄んでいる……」


 淡口醤油、刻みニンニク、酒、香草。

 それらを混ぜた漬けダレに肉を沈め、丁寧に揉み込む。

 掌に伝わる冷たさと、油の薄膜が指先を滑る感触。

 香辛料の香りが、店の空気を一変させた。


「……唐揚げにします」

「カラアゲ?」

「はい。油でカラッと揚げる料理です。衣はサクサク、中はジューシーですよ」

「ほう……面白いな。頼む」


 鉄鍋に油が温まり、パチパチと小さな泡を立てる。

 アキヒコは指先で温度を確かめ、粉をまぶした肉を一切れずつ油に落とした。


 ――ジュワァッ!!


 油が跳ね、香ばしい匂いが一気に広がる。

 衣が黄金色に変わるたびに、店内の空気が食欲を煽った。


「むっ? また入れるのか?」

「はい。二度揚げで、よりカリッと仕上げます」

「なるほど……音だけで腹が減るわい」


 ロージュが笑いながらお猪口を傾ける。


 やがて皿に盛られたのは、黄金色に輝く唐揚げ。

 脇にはレモンと塩、そして白い湯気を上げるご飯と味噌汁。


「お待たせしました。ワイバーンの唐揚げ定食です」


 オスカーが箸を取り、唐揚げを一つ摘む。

 ――カリッ。

 軽やかな音が響いた。

 噛んだ瞬間、肉汁が弾け、舌の上を熱が走る。

 濃厚でいて、驚くほど上品な甘み。

 香草の香りが鼻を抜け、醤油の香ばしさが後を追った。


「……うまい」


 短いその一言に、アキヒコはほっと息をつく。


「これは……熱いが、たまらんのぉ!」


 ロージュも感嘆し、唐揚げを日本酒で流し込んだ。


 油の香りとスパイスの刺激、ワイバーン特有の旨みが米の甘さと溶け合う。

 まるで、戦場の緊張をすべて洗い流すような一皿だった。


「口の中で、肉汁が爆ぜるようじゃ……! これは逸品じゃな!」

「……あぁ。久々に、腹の底からうまいと思えた」


 オスカーの頬が、わずかに緩んだ。


 食事を終えると、ロージュが静かに勘定を置いた。


「若いの、今日はワシが払おう。肉の礼じゃ」

「……そうか。なら、ありがたく」


 オスカーは立ち上がり、軽く頭を下げて店を出た。


「……少しは元気が出たかの?」

「……あぁ」


 短い返事を残して、扉の鈴が鳴る。


 ロージュは空いた席を見つめ、日本酒を一口。


「……頑張るんじゃぞ、若き冒険者――いや、“孤高の鉄剣士”よ」


 その声は、柔らかく、どこか誇らしげだった。


 夜風の中、オスカーはゆっくりと歩いていた。

 唐揚げの香りがまだ鼻に残っている。

 心の奥にこびりついた後悔が、ほんの少しだけ薄れていた。


「……美味かったな。あの店主と老人に、礼を言わねぇとな」


 ふと立ち止まり、瞼の裏に仲間たちの顔が浮かぶ。


「【悪角のリドルゥ】……次は必ず、討つ」


 そう呟き、夜の街を歩き出した。

 路地の先、月明かりがゆらりと揺れていた。

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