第8話 きっとそれは、場合による



 その日は雨だった。

 珍しいわけでもないし、昨日も降っていた。梅雨だし、天気予報でも一週間は続くと言っていたから、この雨に特に思うことなど何もない。


 それでも、雨の学校帰りには時たまハプニングが起こる。

 あいにく雨が降りはじめたのは今日の昼前だった。当然、朝は降っていなかったから、天気予報も、怪しすぎる雲行きもまったく確認しない愚かしいやつとか、寝坊して時間のないやからには、傘一つ持って家を出るという前提条件が失われている可能性がある。


 そう推察できたのは、帰りの時点だ。朝の段階で片桐かたぎり廉太郎れんたろうの頭にあったのは、今日は美波と何を話そうかという色ボケ思考だけ。

 脳内桃色のくせにまったく顔に出さない廉太郎は生徒玄関で陥ったハプニングにも、傘立てにない自分の傘の行方を想像して後頭部をかくだけで、ため息すら落とさなかった。


 それは単に、諏訪すわ美波みなみ――恋人の存在が、彼の矜持を支えてしまったためだろうが。


「あー……えっと、あはは……嫌なら、いいよ?」


「嫌じゃない、嫌なわけがないじゃないか」


 苦笑いを浮かべていた顔を赤く染める美波は、廉太郎をちらと見上げて言う。


「ほ、ほんと?」


「あ、ああ」


 言葉にするには少し気恥ずかしくて、廉太郎は頷くだけに留める。すると、美波は嬉しそうにはにかんで、「よかった」と呟いた。


 ポニーテールに結った黒髪を揺らして、快活に歩く。普段から見慣れていた姿はここになく、楚々とした雰囲気を纏った彼女には心が乱されそうになる。

 美波とはつい先日、両想いだったことが発覚して付き合いはじめたばかりだった。今まで腐れ縁のような関係だっただけに、同級生から恋人への進展は、浮世離れしたもののように感じていた。

 それでも、恋人として頭では理解しているようで、感覚としては変わらないはずなのに、どこかぎこちなくなる。今だってそうだ。前々から美波のことは見ていたから慣れてるはずなのに、間近に迫るとどうしても言葉が詰まって出てこなくなる。

 

 くすぐったくなるような甘い香りに、真っ白な首筋。短めのスカートから覗く太ももに両手で持った鞄を跳ねさせながら楽しそうに頬を緩ませる姿には、一度や二度、ドキッとさせられるどころではなかった。


 そうして現在、廉太郎の手には白と水色の水玉模様がかわいらしい折りたたみ傘の柄が握られている。いわゆる相合傘というやつである。


「こんなことになるなら、普通の傘を持ってくればよかったね」


 予備に新しく買ったばかりだというそれは、今日が雨だからと持ってきてしまったのだという。廉太郎は首を振って、笑いかける。


「いや、でも、傘があるだけでありがたいよ」


「でもほら、廉太郎の肩濡れてるよ?」


 覗き込むように廉太郎の肩を見ると、美波はブレザーの裾をくいっと引っ張る。


「もっと……まあ、こっちに来ても、いいよ? ほらそれに……ね?」


 恥ずかしいのか、浮かべる笑みとは対照的に、顔は耳まで真っ赤に染まっている。その愛らしい姿に返答を迷っていると、美波は急に腕を絡めてきて言った。


「あたしたち、カップルだよ? もっとくっついても、いいんじゃないかな……?」


 さらに肩に頭を寄せてくる美波に、廉太郎の頭の中は真っ白になった。

 思ったよりも積極的な行動に戸惑ってしまうのもあるが、腕を組んだことによって当たる面積というか、温もりというか。そういう年頃の男子高校生にとって劇薬でしかない柔らかな感触が、肘を包んで離さないのが一番の理由かもしれない。


 傍目から見て少し大きいなとは思っていたけれど、実際触れてしまうと想像では補完しきれないなんとも言えない感情がこみ上げてくる。ああ、やばい。危険だ。最悪、歩けなくなるかもしれない。


「な、なあ、美波?」


「ど、どうしたの……?」


「いや、あのさ、うん……あーえっと――いや、なんでもない」


 ぎゅっと腕を組み直され、廉太郎の言葉はそっと呑みこまれる。

 後頭部をかく廉太郎は傘の帆で見えない空を見上げると、覚悟を決めて美波の腕を引いた。


「濡れるから、もっとこっちに来て」


 美波の頬がさらに赤く色づく。

 自分でも何を言っているのだろうとは思う。

 しかしこれなら、傘を盗まれてよかったとさえ思う自分がいるのも確かで。まったく、現金なやつだ。


 雨空で、もうすぐ陽も落ちる頃合いは薄暗さがあった。街灯もぽつぽつと点灯しはじめてきた街並みは、夜の雰囲気を纏いつつある。


「……今日はその、強引だね?」


「やっぱりダメだった?」


「ううん、そうじゃなくてっ」


 その中で、うつむきがちに見上げてくる彼女の頬の火照りだけは鮮明に映る。


「廉太郎が彼氏って感じがして、なんか嬉しいの」




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僕と彼女の平均日常会話 氷菓子 @ice-cream

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