第43話 引っ越し
「いやじゃ」
5、6歳ほどのおかっぱ頭の子どもが金切り声を上げ、思い切り顔を歪めて拒絶を示した。
「いやじゃ、いやじゃ、わしはここから動かん」
玄関の上がり框の上で、駄々をこねる子ども。対して土間で立ち尽くす高価な服を身に着けた男は、あからさまに迷惑そうな表情をしている。
男はチラリと手元に目をやる。金で装飾された厳つく高額そうな時計が袖口から見えた。
小さく舌打ちをすると男はわざとらしく笑顔になる。
「こんなに古く利便の悪い家よりも、新しくて大きくて、いろいろとそろっているところにある家の方がいいだろう? 君もきっと気に入るさ」
「いやじゃ」
「そうだ、お菓子を買ってやろう。交通の便の悪いこの家よりも、もっといろんなおいしいお菓子を、毎日食べられるようにしてやろう」
「う、や、やじゃ……」
「それとも綺麗な服を買ってやろうか。街に行けばたくさんの店がある。街に近い新しい家でなら、いくらでもいい生地のものが手に入るぞ」
「い、いい、いらぬ。わしは、わしはここがいいんじゃ」
少し揺れてはいるものの、頑として拒絶する子ども。
男は苛々とした様子で溜息を吐く。
「別に、今までとなにも変わらないよ。君は今まで通りに君の自由にしていればいい」
「わしはここから動かん」
「引越しの何が不満なんだ? 言ってくれなきゃわからないだろう?」
「ヒッコシそのものが不満じゃ。わしはこの家にいる。お前らだけでヒッコシでもなんでもすればいいのだ」
男がまた舌打ちをする。今度はかなり大きな音が出て、子どもがムッとした顔をした。
そこは、見事な日本家屋だった。
荷物は既に運び出された後なので、家の中のどの部屋を見ても人の温度を感じさせるような生活感は欠片もなく、空虚でがらんどうな印象を受ける。
男の後ろ、外から女が声をかけた。妙齢の男よりもだいぶ年若く、少女といっても差し支えなさそうな年代の女が、少し棘のある響で、ねえまだなのお、そろそろ行かないと夜になっちゃうよお、と。
三度目の舌打ち。
「こんなボロ屋のなにがいいんだよ」
「ここにはたくさんの人が住んでいての、お前の前にはお前の父、父はお前よりももっとやんちゃであったぞ、その前はお前の父の叔父、こいつは厳格な奴だったが甘味に目が無くてな、その前は叔父の友だち夫妻での、子はできなんだがとても仲睦ましゅうての、その前は夫妻の兄の母が……」
「そうじゃなくて、こんなあばら家に住む価値なんざもうないだろうよって話だ。今にも朽ち果てそうじゃないか」
「知らん、わしはここがいいんじゃ」
「もうそういうのはいいから、わがまま言うんじゃない」
男は強い口調で言うと、子どもの腕を掴んで強引に引っ張った。子どもは突然のことにぎょっとして、次の瞬間、子どもらしからぬ冷めた表情になる。
男の手が子どもの腕をすり抜けた。
「わかった。わしもヒッコシをするとしよう。お前ともここでお別れじゃ」
せいぜい達者でやれ、と言い残し、子どもは男の横をすり抜けて外へ飛び出して行く。
男も子どもを追って、慌てて外へ出た。途端に、すぐ横を落ちてきた瓦がかすめる。男の足元に落ちた瓦がガチャンと音を立てて散乱し、女が小さく悲鳴を上げた。
子どもが出てこなかったか、と動揺した男が女に尋ね、女はあからさまに不機嫌な様子になる。
はあ、子どもって、隠し子でもいるわけえ。
いや、そうじゃないんだ、あれはこの家に居着いた座敷童で。
なにそれえ、今落ちてきた瓦、頭に当たったわけじゃないよねえ。
何かが崩れるような大きな音がした。
男は焦りの滲んだ表情で今出てきた家を振り返る。
立派な日本家屋の屋根が、半分以上崩落していた。
女が心底気味悪そうに数歩後ずさり、ねえ早く行こうよと男に声をかける。
男は真っ青な顔をして幸運が別の場所へ引越して行くのを感じていた。
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