第26話

 母の迎えに行くのと都合が合ったので、父の運転する車に乗せてもらい、駅までをスムーズに進む。父は身体と、外出に関する心配を寄越したが、それでも大丈夫だと返事をすると、夏休みに片足を突っ込んだばかりの夜に馬鹿を起こすような人間を育てたつもりもないらしく、簡単な返事で済ませ深く考えはしなかったようだった。ほろ酔いの母と入れ替えに降り立ち、手を振って別れる。

 五分ほどの余裕を持って桜野町に着いたとき、木村雪乃の姿はすでにそこにあった。気付くと手を挙げ、笑みを浮かべる。

「呼び出してごめんね」

 真っ白いワンピースがこの夜の中にあって明確に彼女の輪郭を示し、どこか、美しくも感じていた。

「いや」しかしそんなことよりも、「問題はこのあとだよ」

 彼女の先導で現場となる御心橋を目指しながら、浅羽幸弘のことを考えていた。動機、犯行手順、目撃者。そういった現実離れした単語のひとつひとつに、意味を持たせなくてはならない。

「そういえば」はたと思い出し、「浅羽に殺されるという話のとき、多分、と言っていなかった?」

 こちらの疑問を聞き終えると、木村雪乃は少し困ったような顔をした。

「浅羽くんであると、はっきりとは、言えない」

「つまり?」

「記憶が全て移るわけではない、という話はしたよね? そういう意味で、犯人の姿かたちがぼんやりしていて言い切れない」それから、と彼女は続ける。「あくまでもここは一つ前の世界の、近似値の世界。似ているだけで、同じじゃない」

「今回は別の人間が犯人である可能性もあると」

「そういうこと」立ち止まると、半歩先で彼女もそうした。「どうしたの?」

「それに対して、どう太刀打ちすればいいんだろうか、と思って」

「それは」小首を傾げる。「わからない」

「居るだけで抑止力になるものか?」

「どうだろう。でも、居てくれたら心強い」

 なら、ひとまずはそれで良い。

 御心橋に着いたのは、結局、一時間もあとだった。途中コンビニに寄り、少しでも武器になるようなものがないか探してみたり、脈動を抑えるために缶コーヒーを買って公園でゆっくりと飲んだりしていたせいだろう。

 辺りは暗く、人通りは少ない。

 橋の中ほどに二人で並び立ち、周囲を見回す。向こうからやってきた上向きのヘッドライトに、目が眩んだ。

 木村雪乃は時折時間を確認しているようで、何度か、スマートフォンの灯りが視界の隅に見える。

「いつも、どういう感覚で理解するわけ?」

 そちらを向くことが出来ず、旋回する羽虫に目をやりながら、何気ない振りで声を出す。

「何を?」

 向こうは向こうで、余り意識しないようにでもしているのか、考えることすら放棄した。

「死んだ翌朝、というものを」

 頬に、視線がぶつかる。気付いていないと、装う。

「何回か死んだら、自ずとわかるよ」皮肉とも、自嘲とも思えない、普段どおりの声だった。「ああ、私死んだのか、あれもこれも、夢じゃなかったのか、ってね」

「生憎それを試すためだけに何回も死ぬなんてことは、ちょっとね」

「この概念を理解しているのであれば、そんなに多く死ななくたってわかると思うけどなあ。私は誰にも教えてなんてもらえなかったから、そういうことなのか、って理解するのに苦労した」

「ねえ」

 木村雪乃は、ずっと誰かに殺され続けているのか。

 それが不意に気になり、聞き質そうとしたところに、

「あれ」

 彼女の声が重なる。

「どうしたの?」手元のスマートフォンを覗き込むように首を伸ばした。「まだ半まで時間はあるね」

「いや、可笑しい」言い切り、「だって、半にここに来るように、って連絡があるはずなんだよ」

 言われてみれば至極当たり前のことである。彼女は浅羽、それは記憶違いであってほしいが、ともかく誰かには呼び出されてここに来る。連絡がなければ、彼女がここに来る理由はない。即ち、殺されることがなくなる。

 彼女はこちらに、何か声を掛けたような気がした。それこそ「手伝って」と口パクをしたときのように、その音は耳には届かず、猛スピードで駆け抜けたトラックに、埋もれる。

 聞き返すほどのものか判然としなかったため、

「犯人どころか、道が変わった……、と思っていいのかな」

 プラスの可能性へ、話を進めてみる。

「死なないルートに?」生き死にに関わる分岐点は重要なものだと思いがちだが、存外些細な選択ミスなのかもしれない。思っていると、「まさか、だって……」

 何遍も死に続けた彼女は、そう思おうともしなかったようだ。

 しかし半になっても、誰も訪れるものはなく、また、連絡も一向に来ない。

「救われたと思えば、いいじゃない」

 内心、彼女の言葉のほとんどが、やはり嘘や妄想の類いだったのではないか、と疑う自分が、ゆっくりと身体をもたげ始めていた。そう思いたくはない。だからこそ、早めにけりをつけてしまいたかった。

「納得できないよ。おかしい。だって過去に、こうやって優に一緒に居てもらったこともあるけど、死ななかったことなんてないよ。だから……」

 その言い草に、一瞬、何か疑問が浮かんだが、言葉を出すよりも早く、

「あれー、高校生?」

 大学生らしい五六人の男の姿が目の前にあった。いかにも、柄が悪そうで、絡まれればひとたまりもなさそうな、そんな連中だ。

「こんな時間になにしてんの?」

「そっか高校生ってもう夏休み入ってんのか」

「可愛いねえ」

「まさかカップル?」

「ねえねえ」

「これからどっか行って遊ぼうよ」

 上背のある男たちで、見下ろされる格好で囲まれると、身体が硬直する。じりじりと後退しているうちに、欄干に腰がついた。

 無意識に、木村雪乃の手を握っている。

「お、かっこいいねえ」

 ひとりが笑い声を立てた。

 また別のひとりは、

「痛くしないから。俺うまいぜ?」

 木村雪乃に手を伸ばす。

 彼女は反射的にそれを跳ね除けた。

 そのタイミングで、

「行こう」

 駆け出したところを、

「ちょっと待てよ」

 多分、軽く押したつもりだったのだろう。

 バランスを崩し、まるでフォークで掬ったケーキがぽろりと落ちるように、いとも簡単に、欄干を越えてしまった。驚くどころか「あ」とも「え」とも思う間もなく、一瞬あとには、全身を叩きつける衝撃と、息苦しさ、そして、木村雪乃の手が、ようやく離れていく感触だけがあった。

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