【ウサカメ】

 深夜になろうとも、そこでは相変わらず電灯の光が眩く広がっていた。東京の大手商社の保有するオフィスの一角で、2人の男がパソコンと向かい合っている。静寂に包まれた一室にはタイピング音だけがリズムよく響いていた。彼らは同期で入社しただ新人同士だ。向かって左にいる茶髪の男を宇佐見と言って、その持ち前のコミュ力を使って仕事こそ取るものの、極度のめんどくさがりでいつも向かって右にいる亀田に押し付けていた。亀田はひっそりとしたタイプで、あまり不平不満を言わない男だった。それゆえ、いつも他人のすべき筈の仕事も回って来ていたため、こんな時間まで残業している次第だった。


 「あー、すまん亀田。俺ちょっと彼女から飯誘われちまった、ここと…ここだけやればもう終わるからさ?あと頼むわ!お前どうせ独り身だろ?いつ帰っても同じだろうからな…。んじゃそういうことで!」


 宇佐見はいつものように亀田へと残りの資料作成を投げ出すようにして、そそくさと一人荷物を纏めて足早に去っていった。亀田はただ小さく頷くと、黙って彼の残したデーターを自分のパソコンに移し替えて残りの部分も書き上げた。だがもう一度すべて見直してみると誤字脱字や引用ミスのオンパレード状態で、とてもこれを次のプレゼンで使おうなど考えられないほどの出来の悪さばかりが目立っていた。

誰も居なくなったオフィスに一人、亀田は自販機でコーヒーを買ってくるとまた仕事に打ち込んだ。自分の仕事と頼まれ事の仕事を終える頃には既にうすらうすらと空にオレンジ色が描かれ始めていた。もうここまで来れば家に帰る時間などさらさらない。背伸びをしてからオフィスのドアを開けて日課になったネットカフェへと向かう。今更ネトゲに没頭しようと言う訳ではない。シャワーに、朝食に、そして何よりも安全に仮眠をとれる場所を亀田はそこ以外知らなかっただけの話だ。ピピピッと音が鳴り、オートロックの扉が閉まった。都市部のコンクリートと靴裏がぶつかり乾いた反響音が直接脳へと響いてくる、今日も勤務が終わった。定時退社と書かれた自分のタイムカードを横目に見ながら真っ青な街路樹の並んだ歩道をふらつきながらも進んでいく。


 「おい君!聞いているのか?亀田くん!か・め・だ・く・ん!君の事だ。君の作る資料は確かにわかりやすくて使いやすいよ、でもそれぐらい宇佐見くんもこうして出来ているんだぞ?わかるか?」

翌朝、課長は昨日亀田が宇佐見の代わりに纏めた資料を片手に、怒声を上げていた。その光景に部署の人間は誰一人として見向きもしない。いつしかそれがここの日常の一部に溶け込んでいた。営業なのに資料しか作れない能の無い新人、亀田に対するイメージはそう凝り固まっていた。それもそうだ、彼は「定時に退社し、毎朝ぼけーっと仕事をしている」のだから。少なくとも、タイムカード上では。

 「はい…すみません…すみません…」

ただただ平謝りするだけの亀田に対する視線は常に冷ややかで、実力が物を言う世界では業績最下位の扱いなどこのようなもので当然だった。


 それからまた少し日が過ぎた、亀田は積りに積もった有休を申し訳程度に消化する為に東京から実家の秋田へと帰省している真っ最中であった。久しぶりに見た両親の顔、年老いてはいるが、その言動は彼が上京する前と何ら変わって居なかった。

「せっかく来てくれたけー、昼はアンタの好きなもん、たーくさん作っちゃるから、楽しみにして腹空けとくんだぞ?」

強い訛りを聞くたびにやっぱりここへ戻ってきたんだという安心感がぽうっと心に広がる。食卓にはいくつもの材料が並び、母のやる気も人一倍のようだった。


 昼頃になって居間でテレビを見ていると食卓からは良い香りが漂ってきた。腹がぐぅと鳴り、食事にしようとした時に突然携帯が鳴った。

「はい、亀田です」いつもの癖か反射的に応答すると、相手はあの宇佐見からだった。いつもはハイテンションな彼が今日に限って、いや今に限っては潰れそうな声で続ける。聞けば来週の明日だと思っていた数億円の契約が絡んだ最も重要なプレゼンが実は今週で、これから明日までに大量の仕様書を纏めなくてはならないが、自分ではどう足掻こうと間に合わないから手伝って欲しいと言う内容だった。いつもはそのまま引き受ける亀田だったが今は状況が違う。帰省中、ましてやそれが数年ぶりに顔を合わせた両親と豪勢な食事を囲んで話せる少ない機会がやっと作れたばかりだった。今ここで「すまない」と答えれば自分は両親とつかの間の幸せにありつける。しかも宇佐見がこの契約に失敗すれば相対的に部署内で自分の地位も上がる。余計な仕事もしなくて済むようになる。いいことづくめだ。だが、亀田はいつもの調子で何故か「わかった」とだけ答えた。

確かにいいことづくめだ、でもあいつがいなくなればこの会社の業績は一気に傾く、それに同期という訳の解らない腐れ縁からか、「ここであいつを見捨てられない」と、そんな正義感のような感覚に包まれた。自分でも不思議だった。


 電話を切ってまたバッグを整理していると、奥から母が「どこ行くんだ?今日は休みなんだからゆっくりしとけばええのに」と話しかけた。亀田は居間と食卓を仕切るふすまを開けて、母へ「今すぐ東京本部へ戻らなければならなくなった」と説明する

母は残念そうな、寂しそうな顔でこちらを見て「本当に…行くのかい?昼飯ぐらい…せっかくだから食べていけば…」とやさしく諭してくれた。卓上には既にあつあつの手料理がいくつも並び、とても両親だけでは食べきれないほどの量になっていた。学生時代の大会出場前夜に食べたその食事と、それらはなんだか一緒のように思えた。

「母さん、ごめん。」

亀田はそう一言だけ残し、足早に家を出た。東京行きの新幹線の切符を買って、移動している最中、何度も何度も頭の中に両親の顔がよぎった。二人とももういい歳だ、いつ何があってもおかしくない、最後の会話が今日だったなんてことになる可能性だって絶対無いとも言い切れない。僕は今までいったい何度他人に謝ってきたんだろうか。会社でも家でも、この口から出る言葉はいつだって「ごめんなさい」だけだった。そう考えていると急に眼がしらがぐっと熱くなり、しわだらけのスーツに水滴がいくつも零れた。大の大人が一人座席でうずくまって泣いている、他から見れば何と滑稽な姿だろう。後ろの座席のどこかから小さな嗤い声が聞こえた気がした。


 3時間後、地下鉄とタクシーを乗り継いで夕刻には本社に到着した。ガチャリと扉を開けると、宇佐見が半泣きで亀田の手を握って「ありがとう…本当にありがとう…」と何度も何度も繰り返した。亀田は「平気だよ」と言いながらいつものデスクに座ってすぐさま作業を始めた、社外秘の資料が必要だったため、そのファイルにアクセスするにはどうしても本社のパソコンでなければならなかった。また真夜中に男二人が電灯に照らされて仕事をしている、ここのオフィスのいつもの景色、タイムカードには有休と既に刻印されている。こんな時間のこんな事だけど。亀田は仕方ないなと言う感情よりも、自分にはこの程度が似合っていると自嘲気味に笑った。

時計の短針は進み続け、作業は日が昇っても続いた。眠くなる自分に喝を入れながら、終わったのは午前10時。商談のほんの数十分前だった。データーをプリントして束にして宇佐見へ渡す。すぐさま彼はここを出て約束通りの時間に向かっていった。やり切った達成感と満足感の後にひどい睡魔が襲ってきた。亀田はそのままデスクに突っ伏して深い眠りへと落ちていった。


 「…くん、亀田君!」

あの課長の声で体がビクリと痙攣し、すぐさま目を開ける。多少乱雑に席から立つと、

「すみません!すみません!」とまた何度も頭を下げた。勤務中に、それも役に立たない新人が堂々と居眠りなど、怒られて当然だろう。だが顔をあげてみると課長はにんまりと笑って彼の肩をポンと叩いた。

「いやぁ~、君もやれば出来るじゃないか、こんなにでかい契約を取ってくるなんてね…次のトップは間違いなく君だ、おめでとう。」

「…?」

突然の状況に理解が追い付かなかった。自分はそんな契約取った覚えもないし、ましてや売り上げトップなんて夢のまた夢だと思っていた。もしかして自分は夢の中で目覚めただけで、これも夢の中の出来事なんじゃないかとほっぺたをつねると、確かに痛みを感じていたのだ。


 「よっ!亀田!」

後ろから宇佐見が一枚の契約書を見せる、そこにあったのは3億の機材契約で、社員担当名には《亀田》の文字と印鑑が押されてあった。

「すまん、寝てたから勝手に借りたわ、ごめんな。あと頼むからほかには内緒な!」

そこで亀田の思っていた謎がすべて解けて繋がった。「ありがとう。」久しぶりにその言葉を口にした。印鑑を受け取るつもりで右手を差し出すと、宇佐見はそれをぐっと握りしめた。どうやら勘違いしたらしい、強張っていたままの顔がつい綻んだ。

その後、二人の同期新入社員は次々に業績を上げて、揃って出世をしたらしい。

この前代未聞のスピード出世の秘密を知るのは彼らのほかに誰も居ない。

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【品名:『青春』※割れ物注意】(練習作) ネロヴィア (Nero Bianco) @yasou

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