0文字の物語

 あれから、わたしとさっくんは、すこしずつすこしずつ、時間を共にする回数を増やしてきた。

 会う理由は、小説を読んで感想を言うためというものだけじゃなくて。

 たとえば本屋に行ったり、服を買いにいったり、映画を観に行ったり、演劇を観に行ったり、ライブにいったり、美術館に行ったり。

 それは、作品に活かすため、という理由をつけていたけれど、まったくデートではなかったのかといえば、そうとも言えなくて。

 たとえばふとした拍子に肩や手に触れるのが自然なくらいには、わたしとさっくんの距離は縮んでいた。

 単純に、一緒にごはんを食べたことも、何度かある。


 けれど、お互いに……少なくともわたしからは、小説を口実にせず一緒にいることを――二人の関係を一歩進めることを、提案することができずにいた。

 小説から始まった関係は、小説という理由を与えられないと、とたんにふわふわ心もとなくなってしまう。

 けれどわたしは、さっくんに小説の批評をするときみたいに勇気が出せないまま、小説という口実に、甘えつづけていた。


 そんなある日、ついに、さっくんから、改稿した小説の試し読みの依頼が送られてきた。

 わたしは、スマートフォンを見つめたまま、次の画面を開けずにいる。

 表示されているメッセージには、さっくんの小説が置かれているSNSのアドレスが書かれていた。


 さっくんの小説は、改稿を重ねるうちにどんどん読みやすくなった。文章も色彩豊かになって、楽しく読み進められるようになった。

 いちばん最初の、小説になりかけの文章とは見違えるくらいの、ちゃんとした小説。

 だから、このアドレスをひらけば、そこにはきっと、もっと進化したさっくんの小説がある。

 それを読むのは、とても楽しみなこと。

 けれどもうすぐ、わたしがさっくんにアドバイスできるようなことは、ほとんどなくなる。誰でも簡単にできる、誤字とか脱字とかの指摘くらいしか、残らないかもしれない。

 そうなってしまえば、さっくんにはもう、わたしを誘う理由も、メリットも、なくなってしまう。

 わたしも、さっくんと会う口実が、なくなってしまう。

 さっくんは……さっくんは、そのことを、どう思っているんだろうか。


 わたしは思い悩みながら、それでも意を決してアドレスを開き、真剣に、さっくんの書いた小説を読む。さっくんの世界に浸る。さっくんの文字の海に、潜り続ける。

 小説を読んでいるときだけは、雑念は交えない。それがわたしのプライド。

 文字の海の底から上がって、わたしは一つ深い息をつく。

 目を閉じて、さっくんの小説を心のなかで反芻する。

 きっと、つぎのアドバイスで、ひとくぎり。

 アドバイスすべきことを、心のなかで組み立てる。

 組み立てたことばを、心のなかで読み上げてみて――わたしは、たまらない寂しさに包まれる。

 伝えれば、いよいよさっくんの小説は、わたしの手を離れていく。

 それはとっても、嬉しいこと。わたしにとっても、誇らしいこと。

 けれど、それと同時に、きっと、さっくんも――


 じゃあ、どうすればいい?

 さっくんに、もっといっしょに居たいって言う?

 考えただけで、頬が熱を持つ。

 きっとさっくんは受け入れてくれるよ、という根拠のない自信と、ひょっとしたらさっくんはわたしのことなんて、なんとも思っていないかもしれないという不安が、心のなかでマーブル模様を描いてる。


 ベッドの上で枕を抱きしめたまま、悩んで悩んで、答えは見つからないなんてわかっていて、それでもまたしばらく悩んで――

 わたしは結局、さっくんにはじめて指摘をしたときみたいに、ほんのすこし、勇気を出すことにしてみた。


 さっくんは、いっしょにいるとき、いつもわたしを「思わせぶりだ」なんて言う。

 わたしが思わせぶりなら、さっくんはすごく「天然たらし」だ。

 ……きっとさっくんは気づいてなんかいないけれど。

 お互い様。

 だから、わたしはわたしの思わせぶりなところを最大限に発揮して、さっくんから、わたしのことをどう思っているか、引きだしてやるんだ。

 だって、さっくんから聴きたい。

 さっくんが、わたしをどう思っているのかを。

 わたしはそこまでを決心して、さっくんの誘いに、返事を書いた。


――――


 さっくんに小説の感想を言う日、わたしが選んだ場所は、シネコンの入っているショッピングモール。

 もともと観ようと思っていた映画をいっしょに観て、それからさっくんとお昼ごはんを食べた。

 小説の感想を言いかけて……具体例を示すのと、さっくんといっしょにいる時間を引き延ばすのを兼ねて、小説の感想を途中にしたまま、さっくんの手を引いてスイーツビュッフェに入る。

 そこでようやく、わたしはさっくんに小説のアドバイスをした。


「――場面やそこにあるものに、上手に意味を含めるの。たとえば、男の人と女の人が食事をしているような場面が描かれているとしたら、それはベッドを共にしていることのたとえだったり、ね?」


 なんて、ちょっと恋愛を意識させるようなことも交えてみたりして。


「……ベッド、を」


 呟いて、恥ずかしそうに口をつぐんださっくん。

 一方のわたしは、さっくんにさとられないように小さく深呼吸をして、ことばを組み立てる。自分を組み上げる。

 真剣に小説の指南をするいっぽうで、さっくんを困らせてしまうくらい、思わせぶりな「読子さん」を。


 ……わたしは。

 口を、開く。


「さっくんのお話、きっともっと魅力的にできるよ」

「……うん」


 わたしは、さっくんから目を逸らさないように努めた。

 射止めてやるんだ。

 わたしのアドバイスをきいてる、天然たらしなさっくんを。


「さっくん、わたしは、ひとりしかいないの。もし、ほかにもっと素敵に見えるものがあったら、そっちに行きたくなっちゃうかもしれない」

「……うん」


 せいいっぱい、思わせぶりに。

 さっくんが抜け出せないくらいに。

 さっくんはわたしを見たまま。

 ほんのすこし、つばをのんださっくんの喉が小さく動いた。

 搦め手で、篭絡してやる。

 声を甘く、お皿に残ったビュッフェのケーキよりもずっと、甘くして。


「だから、いちばんさいしょに、ほかのだれよりもはやく、つかまえて。だいじなことは、すぐにつたえて。ほかに夢中になっちゃったら、もう、遅いんだよ? だから」


 そこで、言葉を切る。


 もちろん、さっくんに伝えた小説の感想は、意図もなにもない、わたしの素直な感想を伝えていた。

 さっくんの小説は、綺麗だしすらすら読めるけれど、でも、まだわたししか「読まない」。

 「読めない」んじゃなく「読まない」。

 わたしがさっくんの小説を読むのは、さっくんから感想を言うことを、依頼されたからだ。


 小説を書く立場じゃなくて読む立場から考えてみれば、この世にはほんとうに、一生かかっても読み切れないくらいのたくさんの小説がある。

 文芸書の出版数は一年間で一万を超える。毎日三十冊読んだとしても到底全部を読み切ることはできない。

 さらに、いまはwebサイトなどで、いくらでも無料で小説を読むこともできる。

 大勢の著名人の良作があって、無料で読める小説も星の数ほどあって、果たしていくらの人が、無名のさっくんの、面白いかどうかもわからない小説に時間を割いてくれるだろうか。

 万が一、読みはじめてくれたとして、誰が最後まで読み通してくれるだろうか。

 だれも、そんな約束は、してくれない。

 わたしだって、さっくんからの依頼がなければ、きっとさっくんの小説を読まない。


 だから、なによりもまず一番最初に、読んだ人の心を強く強くつかまなきゃいけない。

 「最後まで読んでもらえないかもしれない」という前提に基づいて、一番最初でつかんで離さない文章を書かなきゃ、読む人は去って行ってしまう。

 さっくんの小説には、まだその観点が足りないんだ。


 それを、さっくんに伝えた。

 せいいっぱい、思わせぶりな言葉を上にたくさんトッピングして。



 さっくんは机のうえのコーヒーを見つめて、しばらく考えていた。

 わたしは、さっくんのことばを待つ。


 しばらくして、さっくんは、わたしをまっすぐ見つめて、口を開く。


「読子さん、ありがとう。小説……もっと、がんばってみる」

「うん」

「それから」


 さっくんが言葉をつづけたので、わたしはテーブルの下で、膝に乗せた右手を握り締めていた。


「このあと、夜までいっしょに居てもらっても、いいかな」

「……うん」


 胸が高鳴るのを実感しながら、わたしはそれだけ、返事をした。



 それからは、ほとんど言葉を交わさない時間が続いた。

 ビュッフェを出て、あてもなくウィンドウショッピングをして、どこに入るでもなくぶらぶらと散歩をして――

 そのあいだ、さっくんはときどきなにかを考え込んでいたり、スマートフォンになにかを打ち込んでみたり、ずっと悩んでいるみたいだった。

 いっぽうのわたしは、ずっとドキドキして、落ち着かなかった。

 そのまま、数時間があっというまに経って、わたしとさっくんは、繁華街のビル群をつなぐテラスデッキにたどり着いていた。

 薄暗くなったけれど、人通りはそこそこあって、だけど都会だからか、誰もお互いに注意なんか払わない。

 

 そういう景色の中で、さっくんの足が止まる。

 わたしも、足を止める。

 足は止まったけれど、心臓は早く早く動きだす。


 テラスの端、植栽の木々に隠れて周りからはちょっと見えづらい、人々の動線からはすこし外れた薄暗いあたり。

 さっくんは、わたしのほうへ振り返って、わたしを見つめた。

 わたしは予感した。きっとさっくんは何かを言う。

 わたしは胸が苦しいような、つまるような気がして、手を喉のあたりに沿えようとして――


 さっくんは、わたしの肩に、そっと、両手を置いた。

 さっくんの顔が近づく。


 ――待って、ちょっと待って。

 さすがに、その一足飛び、いや両脚ロケットで大ジャンプの展開は予想してなかった。

 わたしの身体がぎゅっと固まる。

 だって、こういうときって、さいしょにことばのやりとりがあって、それが甘い言葉だったらわたしはとっても嬉しくなって、お互いにちょっと笑って、それからどちらともなく……ってなるものじゃ、ないの?

 

 わたしが疑問に思っても、さっくんの顔がいままでで一番近いところにある事実は変わらなくて。

 さっくんは、そこで――わたしを、待ってた。

 わたしをみているさっくんの目をわたしは見て――

 さわいでいた頭のなかのわたしはぴたりと静かになり。

 わたしは瞼を閉じて、あごをちょっとだけ前に出して、受容の合図をする。


 それから、ほんの一秒か二秒くらいの、わたしにとって心臓が止まってしまうかと思うくらいに長い時間が経ったあと。


 ゆっくりと、やわらかく、重なった。


 さいしょ、こわばって固まっていたわたしのからだは、時間が経つにつれゆっくりとほぐれていく。

 そのとき、唐突に理解した。

 そうか――これは、さっくんがわたしにくれた、小説なんだ。

 

 これまで、わたしがさっくんに送ってきたアドバイスたち。

 大原則として、文字はできるだけ少ない方がいい。

 ――だから、さっくんは、わたしがアドバイスしたとおりに、極限まで、それこそゼロになるまでに言葉を減らした。


 小説を読む相手の気持ちになって、時間を置いて自分の文章を読み返してみて。

 ――だから、さっくんは、夜まで時間をおいて、じっくり考えた。いまだってわたしがもしも拒絶したらすぐに中断できるように、わたしの気持ちを待った。


 だいじなことは、すぐに伝えて。

 ――だから、さっくんは、一番最初に一番のクライマックスシーンを持ってきた。


 ちゃんと、わたしのアドバイスをぜんぶ、活かしてる。

 わたしがいま受け取っているのは、さっくんからわたしへの、0文字の物語。


 ――完敗だ。

 目を閉じたまま、わたしは心のなかで白旗を掲げた。


 多くのエンターテイメント小説で、搦め手で主人公を苦しめる使い手は、いつも最後には、主人公のまっすぐな思いに、勝てないんだ。

 だから、わたしみたいなただの思わせぶりじゃ、まっすぐなこの天然たらしには、勝てない。

 わたしとしたことが、そんな基本まで、忘れてしまっているなんて。

 くやしいから、わたしはせめて自己主張をするように、自分の唇をほんのすこしだけ前に押し出してやる。


 やがて、どちらともなく、顔と体を離す。

 お互いに恥ずかしそうな顔で、微笑みあった。


 素敵な物語は、人の心を動かして行動までも変える。

 さっくんの物語に心動かされてしまったわたしは、結局、さっくんの気持ちを言葉で引き出すという野望を果たせないままで。

 わたしはその場ですぐ、さっくんだけに贈る四文字の物語をお返しした。

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