やってしまった
さっくんから、三度目となる小説の試し読み依頼があった。
そのための場所として誘われたお店は、ちょっと……いや、かなりおしゃれなバー。
さっくんからお店の名前をきいておいたので、事前に調べて心の準備をすることができた。
服装も、雰囲気に合わせてちょっと背伸びした感じに整えてみたりして。
ふつうに考えたらデートの誘いだと判断するところなのだけれど、相手はさっくんだ。
きっと、ちゃんと小説の話をすることを望んでる。
たぶん、このお店を選んだのは、いっしょに入るわたしを立てようとしてくれている、さっくんなりの配慮。
これまでのやりとりで、さっくんがそういう人なのだと、わたしは認識していた。
認識していたのだけれど。
まさか、さっくんがカップルシートを選ぶなんて、わたしは予想もしてなかった。
店員にどちらの席にいたしますか、と問われて、さっくんは横目でちらっとわたしをみてから、ちょっと小さな声で、ソファー席で、と答えた。
わたしは内心すごく驚いていたけれど、平静を装って、さっくんと一緒に案内された席につく。
いつも向かい側にいるさっくんがとなりにいるのは、なんだかむずがゆいような、恥ずかしいような、妙な気分だった。
軽く見渡す。柔らかい照明で彩られた店内には――見事なまでに、カップルしかいない。
きっと、わたしたちもカップルだと思われている。
わたしの胸はちょっとだけ、鼓動が大きくなっていた。
ちらと隣をみると、そこにはさっくんが、いつもと違う角度で見えていた。
横顔はシャープな印象だなとか、思ったより胸板が厚いんだなとか、あらたな発見がいっぱい。チェックのポロシャツにスラックスというシンプルな組み合わせも、細身で背の高いさっくんにとても良く似合っていた。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、わたしはなんだか気恥ずかしくなって、今日はわたしのほうから、さっくんの小説の原稿を早く見せてもらえるようおねがいした。
わたしはさっくんの小説に集中するように努めた。
いくらこんなちゃんとしたバーでデートみたいな座りかたをしたって、さっくんの主目的は小説の試し読み。
それをおろそかにするのは、わたしが自分を許せない。
スマートフォンに表示されたさっくんの小説を、わたしは読み続けた。
やがて、注文したカクテルが運ばれてきたので、一度、読むのを中断する。
「かんぱい」
グラスを持ちあげる。真剣なさっくんの目が、わたしを見てた。
さっくんに見つめられて、わたしはすぐに目を逸らし、カクテルをひとくち呑んで小説に戻る。小説を読むという、さっくんから目を逸らすための大義名分が与えられているのは幸いだった。
カクテルのアルコールが喉から鼻へ抜けていく。上品な甘さで美味しいけれど、呑みすぎは冷静な判断力を鈍らせるから、気を付けなくてはならない。
さっくんの小説は、驚くほど読みやすくなっていた。前回から今までのあいだに、相当な試行錯誤を重ねたのだろう。
その進化に、わたしは思わず頬が緩む。
小説を読み進めていくと、ヒロインの女の子が登場した。そこで、わたしの手がとまる。
大事な人物であるヒロインの表現が甘い。これから物語を彩っていく重要な人物なのに、その姿形がイメージできない。
小説は文字で伝える。ほとんどの場合、それは視覚を通して行われる。味覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚も使うことはできないのがふつう。
だから、いかに文章によって五感を刺激するかが大事になる。人間の脳と想像力は優秀だ。美味しそうなデザートの記述を読めばよだれが出る。官能的な表現なら興奮する。素敵なオーケストラの記述は、あたかも本当の演奏を聴いているかのような臨場感をもたらす。
そこにないのに、そこにあるかのように思わせることができるから、小説は面白い。
さっくんの小説の表現は、ヒロインといういちばん大事な存在のところが、致命的に弱い。
このヒロインには、誰かモデルがいるのだろうか? さっくんの交友関係は知らないけれど、モデルになる女の子がいてもおかしくない。実在する人物をモデルにしたほうが、文字の表現を作るのもとても楽になる。
じゃあ、そういうひとがいるか、聞いてみたほうがいいのかな。
ちくりと胸が痛む。
自分自身の反応に言い訳をしたとは認めたくないけれど、わたしはその思い付きを否定した。モデルがいたとして、さっくんのいまの文章力なら、ヒロインの表現はこんなふうにはなっていない。
――つまりそれはひょっとすると、さっくん自身に、まだ女の子との経験が多くないから……?
わたしはそう考え至り、いまの自分の状況を思い出して、顔が熱くなった。
――少し、落ち着こう。
自分に言い訳するようにそう考えて、いちどスマートフォンを置いて、カクテルをとる。カクテルに沈んだチェリーをちょっと眺めて、ひと口含むと、ゆっくり時間をかけて、それを愉しんだ――
――――
「……う……ん?」
まぶしさを感じてまぶたを開く。
目の前はぼんやりと霞んでる。眼に痛みを感じて、思わずぎゅっとつぶる。
「え……?」
痛む目をこんどはゆっくり開けて、霞みがかったような意識で視界を確かめる。
目の前にくしゃくしゃに丸まった布の塊。……わたしのブラウス。
「え、え……」
徐々に、脳が現実を認識し始めて。
「う、うそでしょぉ……」
わたしは、枕に頭を沈めたまま、情けない声をあげた。
場所は、わたしの自宅。ベッドの上。
窓のカーテンの隙間から朝日が漏れている。
やってしまった。
わたしが下戸だということくらいはわかっていた。
それでも、まさか、カクテル一杯飲んだだけで記憶をなくすなんて。
さすがにそこまで弱くはなかったはずだ。
体調もとくに悪くなかったのに。
じゃあ、緊張していたから?
考えたって、失ってしまった記憶は戻らない。
わたしは情けない気持ちで、洗面所へ向かうと、すっかり乾いて目に貼りついてしまった使い捨てのコンタクトレンズをはずす。
お酒は眠っているあいだに抜けたのか、すこしぼうっとするけれど、頭は痛くない。
鏡には昨日と同じ服を着たわたしが映っている。スカートには折り目がくっきり、首回りにはつけっぱなしのネックレスの鎖のあと、顔は化粧も落とさないで、髪はばさばさになって。
小さく溜息をついて――玄関の鍵が締まっているかが気になり、わたしはテーブルの上に置かれたセルフレームの眼鏡をかけると、玄関を調べた。チェーンはかかっていなかったけれど、鍵は閉まっていたので、とりあえず安堵の息をつく。
と、玄関に折りたたまれたルーズリーフが落ちているのに気づいて、わたしはそれを拾い上げた。
ルーズリーフを開くと、そこにはわたしの部屋の鍵が入っていて、ルーズリーフにはメッセージが書かれていた。
『大丈夫そうなので帰ります。お大事に』
それから、さっくんの名前。
「ひ、ひぃぇぇぇぇ……」
わたしは恥ずかしさで、変な声を挙げた。
どうやらわたしは、一人で帰ってきたのではなかった。バーで酔いつぶれて、さっくんに送られてきたらしい。
気が付いてみれば、テーブルのうえには出かけたときにはなかったミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。たぶん、さっくんの気づかいだ。
さっくんはきっと、酔ったわたしを家まで連れてきてくれて、わたしが無事ベッドで眠ったのを確認してから、部屋に鍵をかけて、鍵をルーズリーフに包んで新聞受けから中に入れてくれたのだ。
ぜんぶ、見られた。
掃除が完全ではない部屋も、つつんでからまだ捨ててない燃えるゴミの袋も、台所のちょっと残ったままの洗い物も、窓際に干してある下着を含む洗濯物も、酔いつぶれたわたしの寝顔も、ぜんぶ。
「ううぅぅぅぅぅ……!」
わたしは床に倒れ込んで、両手で顔を覆って唸った。
しばらくそうしてから、バッグを探ってスマートフォンをとる。
バッテリーはほとんどゼロに近かった。
充電器と接続して、わたしは通知画面を開く。
メールの受信、あり。
わたしはその画面を数秒見つめて、まずはさきにシャワーを浴びることにした。
一応、シャワーを浴びるあいだに、確認。当然と言えば当然だけど、わたしの身体には『なにもおかしなことはなかった』。
着替えを済ませて、髪にタオルを巻いたままスマートフォンをとり、受信メールフォルダを開く。
受信していたメールは、やっぱり、さっくんからだった。
だいじょうぶ? と気遣いの一言。
完璧だった。そのやさしさはとっても嬉しいけれど、やさしすぎて、完璧すぎて、わたしにはひとつの逃げ場も残されていない。
わたしは返信画面を開く。
お礼はちゃんとしなきゃ、だめだ。
それから、わたしがあのバーでどうなったのかもきかなくちゃ。
わたしは、画面をタップする。
そのあと、何度かさっくんとメールをやりとりして、わたしはきちんとさっくんにお礼を言い、いつか埋め合わせをすると約束し、バーでなにがあったのかを尋ねた。
どうやら、わたしはきちんとさっくんの小説への感想、主にヒロインの表現に関する指摘を――さっくんが言うには、とても思わせぶりに――して、それから追加で二杯のカクテルを注文して、呑んでいるうちにゆっくりと反応が鈍くなっていったらしい。
わたしがその場で寝てしまうようなことはなく、すこしふらついていたが、自分で歩いて部屋まで帰った、とのことだけど――それはさっくんがわたしを気遣ってそういういことにしてくれているのかもしれないし、これ以上のことはもう、わからない。
わたしはとりあえず、小説の感想を言う目的はきちんと達成できたならよかった、と思うことにした。
それから数日が経って、さっくんからわたしに、書きなおされた小説の原稿が届いた。
わたしは自分の部屋で、それを読み進める。
ふたたび、ヒロインが登場するところにさしかかり――表現は劇的によくなっていた。
ヒロインの外見、魅力がきちんと文章で表されている。
容姿が思い浮かぶ。
けれど。
けれど――
「あううぅ、これ……これ、わたしとの経験だよねぇぇぇぇぇぇぇぇ?」
以前の小説にはなかった、ヒロインの身体に触れたときの柔らかさの表現、そのときに主人公が感じた香りまで。
「そりゃ、介抱するなら身体には触れるし、ちょっと背伸びしてコロンつけてみたりしたけどぉぉぉ」
恥ずかしさに耐えられなくて、わたしはひとり、ベッドの上でごろごろと悶絶した。枕に顔をうずめる。
さっくんの小説が、今までとは違う意味で読み進められなかった。
これではまずい。
わたしはなんとか、恥ずかしさを解消するような方法を考える。
――もしかしたら、ほかの女の人とのことかもしれないし?
――でも、さっくんがほかの女の人となんて、そんなの、嫌だ――
心中でそう自問自答してしまって、わたしは枕を抱えたまま、ふたたびベッドの上で激しく横転を繰り返した。
「うぁぁぁぁー!」
枕に顔をうずめてなければ隣室から苦情が来てもおかしくないくらいの叫び声をあげて、わたしは悶絶する。
さっくんの小説がもっと彩られるならこのくらい、いいじゃないか。
最終的に、わたしはそう自分に言い聞かせた。
そう言い聞かせるしか、なかった。
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