第83話



「めんどくせえことになった」


 ハギルが開口一番そう言った。



 キルス・ヒュセイノフとの接触から一夜明け、救貧院から《冒険者ギルド》へと向かう水路上。

 オルレイウスたちを捕まえたハギルとルドニスの顔色は朝から冴えない。


 一方のオルたちの顔色もまた良くなかった。

 昨夜、足から血を流し過ぎて昏倒したルクレシアを治療したあと、事の成行きを聴いたアマリアもまた巨乳もろとも倒れた。

 リザルは《壊剣》に怖れをなして、昨夜から救貧院の物置小屋に籠り切りで連れ出すのに苦労した。


 朝になっても皆の顔から血の気が失せていて、いつもはうるさいルクレシアですらも貧血気味なのか、静かすぎて不気味なくらいだ。

 ただひとり、カサリナだけが覇気に満ち溢れていて、全員の尻を叩いて救貧院から追い出した。



 そして、現在。

 ハギルとルドニス、そして小舟から降りたオルたちは連れ立って《ダンの酒場》へと入ったところだった。

 相変わらず閑散とした酒場にはオルたち以外の客の姿はない。


 卓に着き、イヤそうな顔をしたハギルは改めて口を開く。


「めんどくせえことになった」

「そりゃあ、聴いたぜ。ちっせえおっさん」


 そう応えるルクレシアをぎろりとハギルが睨みつけ、彼の後ろに立ったルドニスがその両肩を押さえつける。

 オルが呆れ顔を浮かべてルクレシアを見ると、彼女はなぜかにやりと口の端をゆがめた。


 怒りを逃がすようにハギルがふぅっと太い息を吐き出す。


「……いいか。俺らが話を持ち掛けたヤツら、ぜんぶに断られた」


 ルクレシアは開いた口が塞がらないといった様子で、アマリアは「ああ」と訳知り顔で巨乳と一緒に首を振り、リザルの顔は兜の奥にあって見えない。

 オルとしても、それは少なからず予想外のことだった。

 沈黙するハギルを改めて見たアマリアが口を開く。


「やはり、ヒュセイノフさんとの接触が」

「ご名答だ、アマリア。あのイカれ野郎が、オルにご執心だってェ話が広まってる」


 ルクレシアとリザルがオルを見る。


「それのどこが問題なのでしょうか?」


 オルの問いにハギルがしかめっ面をする。


「野郎の、いい具合のイカれっぷりを拝んだろうが? あンなのたぁ、どちらさんも、お近づきになりたかぁねえンだとよ」

「はあ、なるほど」


 そこでハギルに向かってリザルが手を挙げた。

 ハギルは顎をしゃくって発言を促す。


「じ、じ、じっさい、ぼ、ぼ、僕らが、お、お、おそ……」

「はきはき喋れやぁ……」


 ハギルの言葉に「ぁう」とリザルは言ってから、ルクレシアを見た。

 代わりにルクレシアがオルを親指で指した。


「で、こいつがら……いや、られちまう可能性はどんなもんなんだよ?」

「ん? ん~、まあ、ゼロじゃあねえだろうが。……なあ、ルディ?」


 振り返るハギルにルドニスは無言で頷き、そして、オルとハギルと自分を手で指し示し、オルを指した手を畳んで、ハギルと自分を指した手で握る。

 それに対して、「まあ、だろうな」とハギルが頷き返す。


「ルディが言うにゃあ、野郎のマトは別段、オルに限ったモンでもねえ。切った張った、刺した刺されたってぇのは、野郎にしてみりゃ日常茶飯事だし、俺らが野郎にケガさせんのも、させられんのも初めてじゃあねえ。ついでに言えば、野郎はイカれてる上に気分屋だ。近づかなけりゃあ、なんてこたぁねえし、《タブラ・ラサ》の連中がいりゃあ、大人しい」

「では、なぜハギルの誘った《冒険者》たちは……?」


 オルの問いにハギルは肩をすくめた。

 代わるようにアマリアが口を開く。


「皆無ではないということが重要なのです。ハギルやルドニスのような《最上位冒険者》、なにより一流の戦闘に秀でている人物ならともかく、私のような《上位冒険者》程度が束」

「お家に帰りたい……」


 リザルの呟きに、一同は思い思いにリザルを見つめた。

 当のリザルはそのままオルへと体を向ける。


「お、オルくん。ぼ、僕とルーシーも辞退しちゃダメ?」

「リズッ! このタマなしがッ!!」

「やめて、ルーシー……」


 机に身を乗り出したルクレシアの右腕が力無く宙を掻いた。

 アマリアは、ハギルとルドニス、オルを順々に見つめていく。


「……正直、昨日のルーシーの傷はかなりの深手だったわ。あのヒュセイノフさんと相対して、その程度だったのだから幸運と言えば」

「なにが言いてえ、アマリア・ラングバル?」


 ハギルに遮られて、アマリアは口ごもってしまう。

 その様子を見て、リザルもまた俯いた。


「……《優良者クァルカス》はまず、オルレイウスを奴隷から解放して庇護すべきだと、私は思うの。そうすれば、この探索だって断れるし、なによりオルレイ」

「おいおい、アマリアよぅ。……そいつァ、俺が考えることでも、てめえが考えることでもねえだろうがァ?」

「でもね、聴いて、ハギル。オルレイウスの主家は」

「そっちこそ、聴きやがれ。……他力本願は構わねえがなぁ、俺ぁ、てめえでできねえモンを、他人に押しつけようとするヤツぁ、好きじゃねえ」

「そんなつもりは……それなら、私がオルレイウスを保」

「だから、てめえはダメなンだよッ。……オルの値は、それなりだぁ。てめえのインカムじゃあ、無理ってモンだ」


 なお、巨乳を揺らして言い募ろうとするアマリアにハギルは掌を見せて止める。


「世話焼きは結構だがな、アマリア。……少しゃあ、分を知りやがれ」


 そこでハギルは、ルクレシアとリザルを順々に開いた指先で示した。

 アマリアが少し悔しそうに唇の端を噛む。


「簡潔に言えよ、アマリアぁ。俺ぁ、別に責めちゃいねえ。てめえとの付き合いも長え。ガキどもの命がかかってんだ、……無理を言うつもりなんか、ねえ」


 アマリアは首を横に振り、巨乳を揺すり、オルを見、リザル、次いでルクレシアを見る。

 いかにも悔しそうに、アマリアは口を開いた。


「このパーティーでの探索の成功率は大きく低下したと見るべきでしょう。そして、パーティーを組めばまた余計な危険性が」

「姐さん、早まるんじゃねえ」


 ルクレシアがそう言って、ハギルのほうへと身を乗り出した。


「オレらを試して、お愉しみか? 《小鬼しょうき》のハギル?」

「……おいおい、噛み癖は直ンねえか、小娘ガール? 次ゃ、白目剥くぐれえじゃ済まさねえぞ?」


 ハギルの威しにも屈さない彼女は、さらに卓上の肘を滑らさせて身を乗り出す。


「あんたは、オレらが抜けたら終りだなんだと言いながら、ずっと、余裕ぶっこいてる。……気に食わねえ」


 ルクレシアの静かな剣幕を、ハギルは平静そのものの顔で眺め、鼻で笑う。


「なにが、おかしいんだよ?」

「別に、おかしかねェさ。……まともな会話もできンだな?」

「――もッたいつけんなよ! オレは、○○○汁が染み出るほど待つつもりなんて!」


 やれやれ、という感じでハギルは肩をすくめた。

 そして、切り出す。


「……どうってこたァねえ話だ。最悪、ひとりも揃わねえときの、保険インシュアランスぐれえあるっつー話だ」


 そう言うとハギルは二本の指を立てた。


「ふたりだ。頭数が足りねえ以上、数に入れにゃあなるめえ」

「初めからッ、言っておきゃあッ!!」

「――るせェなァっ……話の途中だろうがァ。ちぃっと、だあってろ」


 軽くルクレシアを嗜めたハギルは、オルを見る。


「……言っとくが、オル。こらァ、反則技イリーガルなンだ。だから俺も使いたかぁなかった」

「反則……ですか? どのような?」


 ハギルは首を横に振った。


「とりあえず、そいつァ、置いとけ。……ついでに、もうひとり、《神官クレリック》が入る」

「《神官》? なぜ?」


 オルは思わずリザルを見る。

 リザルもまた《神官》ではないか、と。

 それに対して、ハギルはアマリアに譲るように目くばせする。


「いいかしら、オルレイウス? 《神官》と言っても、崇める神々によって受けられる《祈り》は異なるの。リズの《祈り》は守護と治癒には向かないから。……それにしても、《神官》? そんな知人がい」

「つまり、てめえらが抜けても、三人は揃う。オルを入れて四人だ。……まあ、全員が働きゃア、なンとかなるギリギリの数だ」


 ハギルは、つまり、ルクレシアとリザルは強いて必要ないと言っているわけだ。

 それを聞いたリザルが安堵の息を吐き、アマリアは複雑そうな表情を浮かべ、ルクレシアの頬に朱色が差す。


 押し殺すような、ルクレシアの声が卓の上を這いずる。


「つまり……あんたは、オレらは、いらねえッてのかい?!」


 握り拳を作るルクレシアに対し、ハギルは指を一本立てて示す。


「いいか、小娘ガール? いらねェなンて言ってねえだろうが。俺ぁ、保険みてえなモンに頼るのぁ好きじゃねえし、それでもギリギリだ。……てかなぁ、」


 そこで、ハギルは立てていた指をゆっくりと寝かせてリザルを指した。

 差されたリザルの体が小さく震える。


腰抜けチキン野郎に気ぃ遣ってやってンだよ」

「――リズは腰抜けなんかじゃねえッ!!」


 椅子を蹴って立ち上がるルクレシアを、あくまで冷静に眺めるハギルは、脚を組んでため息をひとつ。


「……てめえがなんと言おうが、てめえの相方の腰は引けてる」


 ハギルはリザルをすがめて、続ける。


ツラぁ、拝まなくたって、コイツが言い出さなくたって、わかンだよ。兜の奥で、コイツがどこ見てやがるのかなんてェのぁ。……なあ、てめえはずっと卓から引いてるよなぁ? なんだ、てめえは関係ねえってのか? 他人に任せときゃあ、終わるってのかい?」


 ハギルに問いかけられるたびに、リザルの体が小刻みに揺れる。

 ルクレシアの顔がさらに真っ赤に染まっていく。


「いい加減にしろやッ! おまえ、何様」

「――やめて! ルーシーも、ハギルも!!」


 アマリアの悲鳴にも、ハギルの視線は動かない。

 リザルに留まったままだ。


「俺も? 腑に落ちねえなぁ、アマリア。……なあ、てめえはどう思う、リズ? てめえは腰抜けじゃねえのかい? どう高く見積もったって、臆病モンだろうが?」


――ハギルはリザルを挑発しているのだ、とオルは悟った。

 おそらくはリザルの発奮を期待しているのだろう、と。


 ハギルはイヤなことはイヤだと言うが、なんだかんだ言って面倒見がいい。

 ほんとうにリザルに対しての評価が、言葉通りのものであれば、声すらかけずに切り捨てるだろう、と。


 ただ、そのハギルに対してアマリアは巨乳を揺らして首を横に振る。


「この子に、あなたのやり方は合っていま」

「アマリア・ラングバル。てめえもわかってンだろうが? 擦り合わせをする気すらねえ……んなモン、言い訳アポロジーにもなっちゃねえ。できねえのと、やらねえのぁ、違うだろう? ひとりで立たさせンのと、無暗に可愛がるのぁ、違ぇだろうが?」


 アマリアはハギルの言葉になにか言い返そうとして口を開き、だが、なにも言えずに押し黙った。

 そのやり取りを見せられたルクレシアも、ただ、鼻息も荒くもの凄い形相のまま立ち尽くしていた。


 師からも妹弟子からも援護を受けられないまま、ハギルの言葉責めに遭うリザルの視線はさまよった。

 さまよった末にオルの上に落ち着く。


――なぜに、自分なのか。

 オルは考える。義理は無い、と。


 そう考えながらも、オルは困っている者を放っておける性分でもない。

 ハギルに向かって手を挙げる。


「ハギル。……僕も、彼を追いこんだとしても、それほど」

「おいおい、オル。……てめえ、俺が誰のために言ってンのか、わかってんのか?」


 オルにだって、わかっていた。

 ハギルが苦言を呈しているのは、オルの負担を軽くするためだ。

 だが、もう頼れるひとがいないと、リザルの兜の奥の眼が訴えているような気がする。


「わかっています。ハギルの兄貴。感謝しています。……しかし、リザルにもいろいろと事情があるようです」

「事情? んなモンは、俺にも、てめえにだってあるだろうが? 事情のねえ野郎なンていねえ」


 ごもっとも。

 オルもまたそう思った。

 ハギルの指が、苛立ちを表すように卓の上にリズムを刻む。


「いいか、オル? 聴きやがれ。……腕があろうが、なかろうが、辛抱できねえヤツぁ、ダメだ。……見捨てンだよ、そういうヤツぁ」


 背もたれに大きく体重を預けて反り返るように、ハギルはリザルを眺める。


「慎重なのぁ、悪かねえ。だが、臆病風に吹かれッぱなしなんてぇのァ、ありえねえ。……俺に言わせりゃあ、単純シンプルに、堪え性がねえンだよ」


 気が短いことを自任しているハギルが忍耐について語っているのは、違和感がある。

 そんなことを思いながらも、実際にハギルには相応の忍耐力があるのだろう、ともオルは認めざるを得ない。


 だが、それは必ずしもリザルに適用可能だろうか、とも。


「しかし、問題はそう単純な……」


 ハギルは「おいおいおいおい」と言いながら体を大きく乗り出して、オルの鼻先に指を突きつけた。


「見捨てられンのぁ、てめえだ、オル。実際、コイツは家に帰りてえとか抜かしてやがったろうが。……見放されンのぁ、てめえと、てめえの仲間だろうが?」


 正論。正論だった。


 オルは、思わずリザルを見た。

 ただ、オルだけを見つめているリザルを見て、オルはひとつの疑問を抱いた。


「……リザル。そもそも、あなたは《冒険者》を続けるつもりがあるのですか?」


 カサリナは、リザルは無理に《冒険者》を続ける必要はないと言っていた。

 アマリアは、リザルをできれば《冒険者》にしたいようだ。


 では、リザル本人はどうなのだろうか?

 貴族の出身である以上、基本給付は十分に受けられる。カサリナの言うように無理に続ける必要はないだろう。

 だが、現在のリザルはアマリアの意向に副っている。それは、果たして本人の意志と言えるのだろうか。

 そう、オルは考えた。


 長い沈黙。

 リザルは、指を兜の顎に添えて何事かを考えているような格好で動かない。

 それはまるで、空っぽの甲冑がポーズを取らされているようでもある。


 オルは少しだけ、不安に思う。

 リザル・クローラル――この鎧には、中身があるのだろうか、と。


「……よ、よ、よく、わからないんだ」


 ぼそりと兜の奥から聞こえて来た囁きに、一同が落胆とも怒りともつかないため息をこぼす中、オルは依然としてリザルを見つめていた。

 オルには、それが正直な言葉だとわかったからだ。

 だから、オルは呆れ顔で口を開こうとしたハギルを制して、次の言葉に耳を澄ます。


「け、け、ケイトママも、お師匠も、僕は好きで、ふたりの期待に応えたい。……で、でも、でも、僕、コワいんです」

「怖ェ怖ェ、って、《冒険者》なンかできるわきゃあ、ねえだろうがァ!」


 ハギルの怒鳴り声に、リザルはびくりと体を震わせる。


「やめッちまえ!」

「おまえッ! リズのこと、なんにも知らねえくせにッ!!」


 吠えるルクレシアに、ハギルはちょっと怒ったように目を剥いた。


「知らねえよッ。……だがなぁ、そいつが、他人様から理由を頂戴してるうちゃあ、ダメだっつーことぐれェ、わかンだよ」


 ハギルは腕を組んでアマリアを見る。


「他人に頼ってやがるから、辛抱できねえンだ。……ここしか・・・・ねえ、って思ってねえから、いつでも、逃げ出せるっつって、思ってッから、ダメなンだろうが?」


 ルクレシアが今や赤黒くなった顔色で、ハギルを睨みつける。

 アマリアは少しだけ戸惑うように、どんどん縮こまっていくリザルを見る。


 オルは考えていた。

 ハギルの言葉は一面正しいのだろう、と。


 リザルは、《冒険者》を続ける理由を探さなければ、見つけられないのだ。

 《冒険者》を天職と言い切るハギルからすれば、リザルの心境は不可解で腑に落ちないものなのだろう。


 しかしながら、オルはなんとなくリザルに共感することができた。

 故郷を出る直前の自分オルレイウスが、リザルの姿と微妙に重なる。


 自分の信念や実力に自信が持てないからこそ、他者にすがるのだ。

 そして、他者を否定する勇気がないからこそ、膝を屈するか逃げ出すかしなければならない。


 故郷を出たことに、後悔は無い。

 だが、あれもまた逃避である、と認めなければならないだろうとオルは考える。


 答えを求めて逃亡し続けるオルは、《大陸》を流動する《冒険者》となった。

 それもまた、奇縁と言えば、奇縁ではある。


……だからなのだろうか。

 オルはそこでリザルを見つめた。


「逃げられるのであれば、逃げてもいいでしょう」

「おいおい、オル。てめえ、……」


 オルはハギルを見て微笑み、ハギルはふと、開きかけた口を閉じた。

 そして、オルレイウスはリザル・クローラルを改めて見る。

 なんとなく、安堵したような様子でオルを見つめ返すリザルを。


「だけど、リザル。僕は考えるのです。……いったい、どこまで、逃げ続けられるのだろうか、と」

「……に、逃げ続けられる……?」


 オルは頷いた。


「正直、僕は逃げてばかりです。故郷から逃げ、北から逃げ、そうして今、奴隷として働いている」

「…………」


 リザルは曖昧に頷き返した。


「勘違いはしないでください。後悔はありません。……しかし、逃げ続けて来た僕でも、あなたの前からは逃げないし、あなたを置いて逃げたりもしない」

「…………な、なんで……?」

「逃げる必要なんてないからです」


 あっけらかんとそう言うオルに、リザルはただ無言を返した。


 オルは考えていた。

 背を向けるということが、「逃げる」ということならば、それにはもうひとつの意味がある。

 挑む、ということだ。


 なにかから目を背ければ、当然、それとは反対側のなにかを見つめなければならない。

 不自由なことに、人族にはひとつの顔面しかない。

 同時に両面を見ることなどできない。


 誰もが一面から目を背け、ほかの一面を見つめている。

 振り返った方向に、なにも無い景色などというものは存在しない。


 そして、オルはリザルが背を向けた反対側――正面に立とうと考える。

 それがおそらく、リザル・クローラルと向き合うということだろう、と。

 なによりも、ひとは、ひとから逃げる必要など無いのだ、と。


「あなたもまた、僕から逃げる必要なんてない。……違いますか?」

「…………」


 オルは無言のリザルを見ながらなんとなく考える。

 自分もまた、振り返ってみるときが来たのではないか、と。


 それがなにを意味しているのか、オル自身、よくわかっていない部分が大きい。

 だが、おそらくは、今の自分オルレイウスならば、また違った景観として、多くのものを眺めることができるはず。

 そんな直観がオルの体を包み込む。


「で、でも……僕は、僕自身が、信じられない……」

「信じることができないならば、アマリアさんとルクレシアと、……ついでに、僕を信じてみればいいでしょう」


 オルは考える。

 信じるということは、実はもっとも不条理なことだ。


 たとえば、物理的な世界が存在するか否か、それすら疑うことができる。

 論理的に可能なのだ。

 だが、世界が存在しないとすれば、己が感覚している情報がどのように与えられているかについて、回答を得ることが難しくなる。


 あるいは、自らの存在を疑えば、自らが存在しないかもしれないという判断を、心のどこかで受け入れなければならない。

 受け入れる――それもまた信じるということ。


 おそらくオルを初めとした人族の多くは、それとは別に素朴に信じているのだ。

 世界の存在を。

 自身の存在を。

 そして、他者の存在と、その心の存在を。


 それらの存在を信じることは、それらの不在を信じることよりも建設的である。

 そう、オルは確信している。


 不在に対する信念は、不毛の荒野に向かうことに似ている。

 一粒一粒の砂を精査する忍耐と、そこからなにかを見つけ出そうとする情熱と、なにかが在るという直観と、巨大でちっぽけな幸運に恵まれれば、一欠けらの真理を拾うこともできるだろう。


 だけど、ひとは、なにかを信じなければ一歩を踏み出せない。

 荒野に放り出された者は、その茫漠さに途方に暮れてしまうものだ。

 立ち止まれば、巻き上がる風と砂に、喘ぐことになるだろう。


 立ち止まり、ただ眺めることと、背を向けて、一歩を歩み出すことは、異なる。


 そして、たとえ目を瞑っていたとしても、一歩先に地面があると確信しているだけで、踏み出せる。


「リザル・クローラル。僕は、あなたが僕を信じてくれることを信じましょう。そうすれば、きっとあなたは立ち向かうことができる」


 オルの言葉に、リザルは力無く首を振る。


「……僕には、無理だよ」

「無理?」


 オルはまた微笑んだ。


「理由なんて、初めから要らないのです。それが、そもそも信じるということだと、僕は考えています」


 兜の奥から情けない声が流れ出す。


「……オルくんは、おかしいよ。……僕らは出会って、三日だよ? ……僕は、きみに顔さえ、見せていないのに……」


 オルは笑った。

 信じるか信じないかしかないならば、信じてみたほうが楽しいだろう、と。


「いつか、顔を見せてもらえるということも、信じましょう」


 オルの笑顔に、リザルは躊躇しているのか、アマリアを見、ルクレシアを見る。


 長い沈黙だった。

 アマリアも、ルクレシアも理解していたのだろう。

 ここで、必要なことはリザル自身の決断である、と。


 気の短いハギルだけが、不満げな顔でオルを睨みつけていた。


――やがて、リザルは、折れるように小さく頷いた。


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