第65話
――
彼はのちに僕に対してそう語った。
――儂らは己を恃むところが大きい。それを支えるは、神々への信仰と幼いころより培われた信念よ。儂らは産まれた落ちたときより戦い続けている。父母や血族に育まれるというよりも、抗って育つという思いが強く、そして、多くの《ギレヌミア》は諦めが悪い――
彼はそうして豪快に笑う。
――なぜならば、《ギレヌミア》の膂力によって一太刀浴びせることが叶えば、大概のものは死ぬからだ。そして、それが命に届けば儂らの勝ちだ――
心地よさそうになみなみと酒で満たされた杯をあおると、彼は続けた。
――その点において、儂らは獣に近い。
彼は、苦そうに顔にしわを刻んで、こう締めくくった。
――知ることもある。己の精力を傾けた一撃が決して届かぬ相手。およそ、生涯、触れることすら叶わぬ敵。一目で思い知らされる……そのような者をこそ、儂は畏怖する――
……僕が彼と語り合い、その思いを知ったのは、しばらく後のこと。
ただ、このときの僕は大まかにそれを把握していた。
彼――ネシア・セビが、なぜ、あれほど僕の母を怖れていたのかということを。
「ぅっぎゃああああああああああ!!」
やたらと声の大きなネシア・セビの悲鳴が村から森まで響き渡っていた。
「《
「オルレイウスさまあっ、お助けを!」
「だんなあっ!」
「いやあああっ!!」
阿鼻叫喚だった。
それもしょうがない。
だって、ネシア・セビを引きずった血まみれのイルマは、僕にかしずいたままの人々のど真ん中に着地したのだから。
そして、血まみれで髪を逆立てたイルマと、捉まれたネシア・セビは八本脚の《魔獣》に見えなくもなかった。
僕のほうへ向かって逃げようとする人々と、立ち向かおうとする民兵たちが入り乱れる。
僕はというと呆気に取られていた。
今日はただでさえ理解が追いつかないことが多い。
「心配したのよ~!! オルかニックになにかあったんじゃないかって! 名前が聞こえたから飛んで来たわっ!!」
「ぎゃあああああああああ!!!」
イルマひとりがネシア・セビの絶叫の背後で嬉しそうに笑っていた。
僕も嬉しいかと問われれば嬉しかった。
だって、イルマに会うのは二年ぶり。嬉しくないわけがない。
けれどもそれどころではなかった。
僕の母は相変わらず若々しくて、美人だったけど、それ以上にスプラッタだったから。
「ぎゃああああああああああ!!」
「っるさい!」
その大喝にイルマとネシア・セビ以外のみんな、動きを止めた。
自分の手の中で絶叫し続けるネシア・セビの巨体を、イルマは片手で持ち上げて指に力を込める。
「――やめてぇくれえっ!! 割れる! 頭が割れるっ!!」
ネシア・セビは丸太のような手足を振り回して暴れるけど、イルマはそれをすべて剣の腹で叩き落した。
かつて見たときは白かったネシアの肌は血と痣で紫色に変色していて見る影もない。
「黙りなさい! ……握り潰すわよ……?」
「………………」
イルマの威しにあえなくネシアは沈黙した。
そして、昔通りのネコのような笑顔をイルマが僕へ向ける。
「オル! 大きくなったわね!」
イルマが両腕を拡げた。
左手には血だるまの巨漢。
右手には血だらけの剣。
左手にぶら下がったネシアの巨体が力なく揺れ、剣からは血が勢いよく飛散して、腰を抜かしていた人たちの顔を汚した。
「どうしたの? 忘れちゃったの? お出で」
そう。イルマが僕を抱きしめるときのポーズだ。
イルマがふつうに帰って来たなら感極まって跳び込んだろうけど、さすがの僕も躊躇していた。
それ以上に久しぶりに全裸になった僕の頭は高速で回転していた。
北の戦争が終結したという話は聞いていない。
そんなことになっていれば、いくらこの国の情報をあんまり教えてくれないガイウスでも教えてくれたはず。
アウルスはマルクス伯父が身辺警護のために《騎士》を呼び戻したと言っていた。
戦争が半ば終結して前線にすらいないマルクス伯父に対外勢力による命の危険があるとは思えない。
つまり、マルクス伯父が怖れていたのは、この国の内側からの脅威。
戦争に勝利したレイア王家の求心力の下落は高く見積もったとしても、謀叛を起こされるほどではないはず。
加えて、北の森の向こう側にいたはずのネシア・セビがここにいる。
数日前から聞こえて来たという鳴き声も、おそらくは《ギレヌミア人》たちの悲鳴。
さらには《
おそらくは北の森に侵入した《ギレヌミア人》の脅威に対しての援軍要請。
察するに、さきほどの《人馬》の鬨の声は北の森深くに《ギレヌミア人》たちが出現し、それを迎え撃つためのものだろう。
では、どうして《ギレヌミア人》たちは森の中に立ち入ったのか。
答えは、僕の眼の前にいる。
「照れてるの?」
懐かしい笑みを浮かべる
彼女が出陣していたのはここから遥か北東の《モリーナ王国》付近。
イルマはいつもわかり易いほどに真っ直ぐだ。
だから、たぶん北からまっすぐにこの《ザントクリフ王国》目指して帰ってきたのだろう。
彼女の進路上には北の森と滞陣する《ギレヌミア人》たち。
イルマが《ギレヌミア人》を避けるわけがない。
そして、信じられないことだけど、たぶんイルマは千人弱の《ギレヌミア人》を打ち破ったんだ。
それで《ギレヌミア人》たちは森に入った、いや、逃げ込んだ。
とても信じられないけれど、そうとしか思えない。
……ただ、どうしてもわからないことがある。
「お母さん?」
「なあに、オル?」
ものすごく嬉しそうににやけるイルマ。
血まみれだけど。
僕はちょっとずつ近づきながら、イルマに質問を続ける。
「わからないことがあるのですけど?」
「あら、オル? お母さんとの感動の再会よりも、重要なことってあるかしら?」
ちょっと不満そうに口を尖らせるイルマは、変わってないように見えるけど。
「ひとりなのですか? 連れて行った《騎士》のみんなは? 戦争は終わったのですか?」
イルマは「やあねえ」と言って笑う。
「終わってないわよ! だから、あたしひとりで帰って来たのよぉ」
だから、の使い方がちょっとよくわからないあたり、イルマは変わっていないように思えるけど。
ここからが問題だ。
「なんでこんなに早く帰って来れたのですか?」
そう。イルマが返って来るタイミングがおかしい。
往きは《モリーナ王国》までふた月近くかかったはずだ。
ニックに聞いたところ、《グリア諸王国連合》への援軍要請が出発したのは新年を迎えるひと月半前。
しかも、迫る《ギレヌミア人》を避けて遠回りをしたと聞いた。
だからニックも、援軍要請が届けられるのはどんなに早くても新年のひと月目――先月中のことだろうと予想していたんだ。
今月も終わりに近づいているとはいえ早すぎるんだ。
そして、いくらイルマが強いとはいえひとりで千人近くの《ギレヌミア人》を潰走させることができるとは思えない。
「向こうを早く出て、めちゃくちゃに急いだからよ!」
「どうして……?」
そう、この世界には《魔法》がある。
イルマ本人が操られているとは考えにくいけど、ニックが瞳や髪の色を変えているように、イルマに姿を偽装している誰かという可能性はある。
僕は確かめなければならない。
僕の眼の前にいるイルマが、イルマかどうか。
僕の懸念をよそにイルマは即答しする。
「勘よ!」
その意味不明な答えに僕も直感した。
「お母さんっ……」
僕はイルマの胸に跳び込もうと駆け出した。
僕のために這いずるようにしてみんなが道を開けてくれる。
もう、僕とイルマの間には数歩の距離しかない。
ちょっと異臭はするし、血まみれだし、ものすごく感動を削がれる感じがしてしまうけれど。
やっぱりイルマはイルマだ。
「オル! ……ちょっと、邪魔ね!」
そう言うと、イルマは乱暴に左手に携えていたネシア・セビを放ると、彼に向かって右手の剣を振るう――
「――あおおおっ!!」
自身の運命を悟ったネシアの大声が村に響き渡る。
そして、ドサリ、という音。
「……ちょっと、オル?」
イルマが僕のすぐ眼の前で小首を傾げている。
さっきまで僕とイルマの間には数歩の距離しかなかったけれど、今は違うものがある。
「どういうこと?」
僕は母の質問に答えられなかった。
その余裕が僕の体にはなかったからだ。
僕とイルマの間には、今、ふたつの刃が置かれている。
イルマが握る剣と僕が握る剣の刃が。
「どうして?」
イルマが振るった剣から力が抜けていくのがわかった。
僕の体はイルマの圧力から解放された。
でも、僕はその質問にも答えられなかった。
質問の意味がよく理解できなかったからだ。
どうして? 僕は剣を引いて後ろを振り返った。
そこには、ぽかんと口を開けたネシア・セビが尻餅をついた格好で僕を見上げていた。
気づいてみれば、僕は彼をイルマから庇うようにして立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます