第12話 姉弟の楽しみ
しかし、自分は領地と神殿、すなわち領民という信者を与えられる約束を取り付けたが、その時にも、ゼウスの口からはアレスへの恩賞の話は一切出なかった。共に戦場に出る弟にも相応の扱いがあって然るべきだというのに。あたしとしてはそれが不満だったが、その場で弟の話は持ち出せなかった。
なにしろ、謁見の間のゼウスの玉座の真横からヘーラーが睨みをきかせていたのだ。あのババア、ヘーラーはあたしの弟のことを、おおっぴらに「つまみ食いでできた子供」などと蔑む。もちろんヘーラーにしてみれば、アレスは自分の息子を「寝取られ亭主」にした憎い相手だ。下手に話題に出すことで、機嫌を損ねては元も子もなくなる。
そのせいで。
「ごめんね、あんたには何のご褒美もなくて。かわいそうなことしちゃったわ」
あたしは実際申し訳なく思っていた。だからこそ正直にその一切合切を打ち明けたが、アレスは特に気にした様子もなく、愛用の兜の手入れをしながら、にっこりと笑った。
「いや、ぼくはアテナねえさまの功名が響けばそれでいいよ。領地だの領民だのはいらない、そういう小難しいことは嫌いなんだ。何人も神官やら巫女やら召し抱えて、信者どもの願いを聞いてやって、なんて、そんなの面倒くさいったら」
千人を超える軍団の調練は平気でこなすというのに、神殿に仕える者を召使うのが面倒というあたりは、やはり弟らしい言い草だった。
実際、アレスは身の回りのことはほとんど全て自分でやり、召使いも下女も、奴隷のひとりすら持ってはいなかった。自分の身につける武器は、今ちょうどこうしているように全て自分で手入れをしないと気が済まないし、愛馬や猟犬の世話も自分でする。
さすがに見かねたアフロディーテが馬丁を手配しようとしたものだが、そのとき彼はこう答えたそうだ。
「ぼくの馬の世話をできるのはぼくだけだよ。他のやつが近づいたら蹴り殺されるか噛み殺される。ああ、もちろん、あなたやぼくらの子供たちのことはちゃんと分かっているから、そんな悪さはしないから安心していいけれどね」
これにはアフロディーテも納得して引き下がるほかなかったらしい。何しろ、アレスの愛馬アイトーン(熱血)号とプロギオス(火炎)号と名付けられた、この賢い動物たちは、他の人間や半神が飼葉を持って近づくだけでも前掻きをして威嚇するほどの暴れ馬なのだ。しかもその前脚の蹄鉄には、長い鉤のような鋲が打ってある。
そのプロギオスが、ふたりの長男であるフォボスに容易く懐いて、やすやすと背に乗せたのには、傍らで見ていたアフロディーテですら冷や汗をかいた上に、ほっとため息をついたとか。
以来、フォボスは戦の調練の時、まだ少年でありながら、軍神アレスの馬の轡取りという大役を任されている。
「あんた、食事もアフロディーテか自分でこしらえたものしか食べないって聞いたけど、ほんとなの? 随分と気難しくなったものねえ」
「それはただの噂。この間も、ハデス様のお誘いで冥府での午餐の宴に行ったよ。イカスミで黒くしたパンが洒落てたし、色とりどりのオリーブがたっぷり乗っかったカジキの蒸し焼きは見事だったな。デザートの、蜂蜜と山羊の乳のかかった干しイチジクがおいしかった」
「ちょっとお待ち。まさかあんた、それ食べたの? 冥府での食べ物を口にしたら、あんた、冥府から戻れなくなってるんじゃ?」
あたしは思わず血の気が引くのを感じたが、弟はことも無さげに言った。
「現にぼくはここにいるじゃない」
と、アレスはあたしの困惑を見抜いた様子で、妙に冷たいところのある微笑を浮かべた。
「ああ、ペルセポネー様のザクロの話?」
冥府で、地の底に属する食べ物を口にしたものは二度と陽の当たる地上には戻れない。
それが、死者の住まう奈落の底の掟のはずだ。神ですら逃れられないそのさだめを利用して、ハデスは可憐なペルセポネーを正当な妃として娶ったのだ。
しかし、あんなもの。
「アテナねえさま。よく考えてよ、あんなのペテンに決まってるじゃない。ハデス様とゼウス様が示し合わせて『冥府の掟』とやらをでっち上げて、ペルセポネー様とデメテル様に信じ込ませただけさ。ゼウスなら、果物にちょっとしたおまじないをかけるくらい簡単なもんだろ。よく考えてご覧よ、ねえさま。ペルセポネー様はゼウスと、デメテル様の間に産まれた娘だよ。あのジジイ、血のつながった娘を、ハデス様のお妃に差し出したんだぜ」
「ひっどいイカサマね……だから年の半分は、地上のデメテル様のおそばに戻れるのね」
「もっとひどいのは、デメテル様がゼウスともハデスとも一緒に産まれた妹だってことだよね。ハデス様の悪口は言いたかないけど、姪っ子が美人に成長したからって、まともなアタマしてたらあんな汚い手を使ってまで妻になんてしようと思わないだろうな……って。ああ、ごめんよ。他人の妻を堂々と連れ回してるぼくが言うのはお門違いか」
「あんたも大人になったのねえ。そんないっぱしの色男みたいな口をきくようになるなんて」
「まあね」
アレスは少し伏し目がちになって、照れたのか、何かを恥じるような苦笑いを見せた。
そう、あたしは知っている。
アレスの秘密の企みの成功を……アフロディーテに恋をしてしまった、不幸な人間の若者をひとり、野生の猪どもに殺させ、骨の欠片も残らないまでに貪り食わせたことを。
それは本来、野生の猪を生け捕りにするために父が……あたしたちのアロセウスとうさまが使っていた狩りの手法だった。雄の猪は発情期になると、ある種の、土の中にだけ埋まっている奇妙な黒い茸を、好んで食うようになる。雌の猪のおしっこの臭いに似ているから、雌から相手にされないような若い雄は、その茸に夢中になるのだとお父様は教えてくれた。あたしたちは春先と秋の初めになるとその茸を掘り出して煮詰め、罠を仕掛けて雄の猪を捕らえ、肉を食ったり街に毛皮を売りにいったり、その牙を使って父に首飾りや足輪を作ってもらったりしたものだ。
その懐かしい狩りの技術を、アレスは暗殺に用いた。
「本当に大人になったものだわ」
煮詰めた茸の煮汁を、アフロディーテに恋をした若者の頭からぶっかけて、若者そのものを罠の餌として森に放ったのだ。
若者はさぞや恐ろしかっただろう。
発情した雄の猪どもが、荒い息を吹きかけながら駆け寄ってきて、何匹もが取り巻いて求愛の雄叫びを上げる。交尾のできない相手だと知るやその目は怒りに血走り、その牙を使って皮と肉を裂き、蹄で内臓を踏みつぶして、それでも簡単には死なせてもらえずに、彼は生きながら食われたという。どうか殺してくれと懇願する若者を、アレスはただ奇妙な生き物でも見るように、ぼんやりと眺め下ろしていたと。
その一部始終をすべて、森の木陰の糸から見守っていたアラクネからその話を聞かされたとき、アテナは一瞬狼狽え、自分がお姉様の紡いでくれた文章を読み違えたのかとさえ疑った。
だが。
アレスにしてみたら当然のことかもしれない。アフロディーテを、ただの美の女神から愛の女神へと押し上げてしまったからには、その愛を求めていくらでも、孤独で悲しみを抱えた男たちがやってくる。あの優しい彼女が、そんな男を厳しく追い返せるだろうか?
それがもし、かつての自分と同じように、孤独と絶望だけを抱えた少年だったとしたら、アフロディーテは彼を拒むだろうか?
答えは簡単だ。
そんなものなど、最初からなかったことにすればいい。
アレスは戦場で大人になった。ひとの生死を間近に見て、名誉ある死と無惨な死、栄光に満ちた生とただ生きさらばえてしまっただけの生をいやというほど見続けて、そうして彼は軍神となった。
己のものは己で守れ、己の宝を奪わんとするものには、相応に相手の命で購わせよ。
それが彼が戦場で育って身につけた生き方なのだとしたら、あたしはアレスに、なんてかわいそうなことをしてしまったのだろう。
いささか暗い気持ちになりかけた時、それすら見透かしたように、軽快にアレスは言ったものだ。
「そうそう。今度、次の満月の晩に、ハデス様がポセイドン様にお取り次ぎ下さるそうだから、アフロディーテや子供たちを連れて海遊びに行ってくるよ。海老や蟹も楽しみだけれど、穴子とかいう、ウミヘビそっくりの魚が美味いらしいんだ。ねえさまの都合が合わなくて残念だな」
「ごめんね、次の満月の夜は、あたし、狩りの下見に行く約束をしちゃってるのよ。そのウミヘビとやらが食べられないのはちょっと残念だけど、ポセイドン様にもアテナから宜しくご挨拶をお伝え申し上げておいて。海はあんたの大事なアフロディーテの故郷だものね。ゆっくり羽を伸ばしてらっしゃい。でも、あたしへのお土産に真珠を忘れないで。真珠はまだ持ってないのよ」
「承知致しましてございます、姉上様」
アレスがわざとらしい仰々しさで立ち上がり、わざわざ拝礼の格好までするのを、あたしは笑って眺めた。
真珠というのはとてもふしぎな宝玉で、貝殻の中で長い年月をかけて育ったものが、ようやく貝が天寿を全うした時に吐き出される代物だそうな。つややかな乳白色や黄色や黒の表面に、虹色の光沢が現れる。
海に捨てられたウラノスの性器から生まれ、巨大な貝殻に乗って海を渡り育ったアフロディーテにとっては、真珠とはまさに彼女そのもののような存在で、じっさい彼女が流す涙は真珠なのだが、涙は時が経過すると消えてしまう。
ほんもののの真珠というのは、大切に扱ってさえやれば長い時間、宝飾品として楽しめるものらしい。おもに人魚たちの占有する宝玉で、商売の切り札であり、時に浜辺でそれを拾った人間の漁師は一生楽をして暮らせるほどの高値で買い取ってもらえたものすらいた。
「ポセイドン様は、わざわざゼピュロス様も呼んで下さるそうだ。アフロディーテの恩人だからね、きちんと礼儀を通しておかなくては」
「ああ、『西風』のゼピュロスね。そりゃ、あんた、そっちにもちゃんと献上品を支度するのよ。もう準備できてるの?」
「それはアフロディーテに任せてあるから」
やはり当たり前のようにアレスは答えた。
いくら正式な夫のヘパイストスが認めたとはいえ、こうもあからさまなのはいかがなものか……と、アテナは一瞬だけ不快に感じたが、アレスがそう振る舞うことで、彼に尽くす喜びをアフロディーテが感じているのなら叱るのも野暮だと思いとどまった。
それに、西風の神であるゼピュロスと知り合っておくのは、悪い話ではない。
ゼピュロスは、このオリュンポスでは最も古い神々のひとりであり、なんとあの最初のティタノマキア、ウラノスとクロノスの血を分けた凄絶極まる史上最大の戦を、大海原の上をゆっくりと吹き抜けながら見守っていたそうな。
そしてゼピュロスは、戦の週末を見届けてからしばらくの後、我が子と妻に裏切られたウラノスの怨念が海水と混じり、凝り固まって何かが出来上がっていることに最初に気付いた。そして、それが純血種というよりウラノスの破片そのものであることをも見抜き、これを守ることにした。
彼は出来上がったばかりの、まだしっぽの生えた胎児でしかないアフロディーテを、その未熟な幼子にふさわしい安全な場所にかくまった。
生きたオオシャコガイの外套膜の中に、その胎児を隠したのだ。
海水と、母体の中の羊水は似ている。そして、巨大なオオシャコガイのゆったりした外套膜の隙間は、静かで安全で、へその緒がないこと以外は子宮そっくりだった。
巨大な、三メートルはゆうにあろうかという貝がその天寿を全うしたとき、ゼピュロスは自らが見守り続けたものが神であると確信した。
本来ならばあまりの重さでその場から動かないはずのオオシャコガイの貝殻が、自らの死んだ肉体を捨て、既にひとらしい形にまでは成長していたアフロディーテだけを大切に二枚の殻の間に包んで、ゆっくりと、ゆっくりと、海の底から浮び上がったのだそうな。
海面の、満月を映すほど穏やかな波間に浮び上がった貝殻は、もはや死んでいるはずの貝柱を使って、ぱくりと音を立てて開いた。
片方の貝殻を船に、もう一方を帆のように垂直に立てたまま、それきりその貝は波間に揺られるだけになった。
ゼピュロスが恐る恐る中を覗いてみると、そこにはひとりの幼い女の子が、いや、この世のものとも思われぬほど美しい少女がひとり、まだ未発達だというのにぞっとするほど魅惑的な裸体を赤ん坊のように丸めたまま眠っていたのだという。
乳白色の貝殻の中で眠っている童女があまりにも美しく、ゼピュロスはしばらくその様に見ほれ、声をかけるべきが葛藤しただろう。ずっとこのまま眠っていてくれたら、ゼピュロスなら新たな隠し場所へと彼女を運び、そこて永遠にこの芸術品を鑑賞することができる。
しかし、それをウラノスは許さなかった。
海という海に散らばった彼の破片が、またそれを食い散らした魚や甲殻類が、分解され尽くしたはずの彼を取り込んだ珊瑚や海藻や、もっともっと目に見えぬほど小さな放浪者たちが、声を揃えて歌った。
「この女は、愛と美の女神アフロディーテなり。ティタンの王でありこの世を支える柱であったわれウラノスが遺した、わがかけらにして、われそのものなり」
海という海が歌っていた。高らかに、天高く、地の果てまで届くように。
「目覚めよ、アフロディーテ」
そして、まぶたが震える瞬間をゼピュロスは見た。長い睫毛の先から、すきま風の中の炎のようにゆらめいてから、彼女がその瞳を開く瞬間を見た。
産まれて初めて見るはずの世界、光と闇、海と空と陸、それらのすべてを、彼女は既に知っていた。見慣れたものをいつもどおりに眺めているだけにしか見えなかったと、ゼピュロスは語っている。
それほどの男と通じておくのは悪い話ではない。頭も切れるし、中立も忠誠も守り通した。その信頼を勝ち取れれば、あたしたちにとっては強力な味方になるに違いない。
「そんな大物にわざわざ紹介してくれるなんて、ハデスも人がいいわね」
あたしの言葉に、アレスは静かに首を振った。
「ハデス様は侮らない方がいいよ、ねえさま」
「あのジジイの弟だか兄貴だかでしょ、耄碌してるんじゃないの」
「それが全然。ぴんしゃんしたもんさ」
と、彼は皮肉っぽく肩をすくめて笑って見せた。
「この間もね、人の世から消えたのに、冥府に送られてくる死者と数が合わない。どうもアラクネとかいう若い女のようだが、何か知らぬか、と訊ねられたよ」
また聞きのあたしですら一瞬ぞっとしたのだから、面と向かって訊ねられたアレスはどんな思いだっただろう。
「それであんた、なんて答えたの」
「人の世からは消えましたが、死んだわけでもございませんので、って、正直に」
しかしアレスは、あの独特の、子供のようにさえ見える屈託のない微笑みを浮かべて言い放ったものだ。
「そしたら、ハデス様の愚痴が始まってさ。ここんとこはそういうのが多くて困る、花になってみたり木になってみたり岩になってみたりする連中ばかりで嘆かわしい、冥府はこんなにいいところなのに、って」
「年寄りのお相手も大変ね」
「だから約束しておいたよ。ミマスとの戦いでは、大勢こちらに参りますから、今のうちにお骨休めなさっておかれませ、ってね」
アレスの堂々とした答えに、あたしはついはらはらと気をもんだ自分が馬鹿馬鹿しくなった。
彼はもう立派な大人になったのだ。
もはや泣き虫で弱気な、あたしやねえさまの後ろを追いかけ回すだけだっただけの可愛い弟はいない。目の前にいるのは、戦場以外でも頼りになる強い男だ。
「あんたはいいところに気に入られたわ」
あたしが満足げに笑い返すと、彼はまた皮肉っぽい言い方で肩をすくめた。
「ねえさまだって、今じゃすっかりゼウス様のお気に入りだって聞いたよ」
「ジジイの愚痴はもうたくさんよ」
あたしは飽き飽きした口調で言った。
ここのところは毎日、ゼウスかヘーラーか、どちらかに代わる代わる呼びつけられては世間話だのうわさ話だの、下らないおしゃべりに付き合わされて辟易していたのだ。
「早く戦に出たいわ」
「すぐだよ」
「そうね」
あたしだってちゃんと、そのくらいは分かっている。ゼウスやヘーラー、ポセイドンなどという重鎮があたしたち姉弟を側に置きたがるのは、戦支度がどの程度整っているのかを確かめるためだ。
ゼウスが一言命令を下さなければ、あたしたちは勝手に戦を始めることはできない。そういう決まりだ。
だが、そのときがきたら。
「派手にやるわよ、あのジジイどもが腰抜かすくらいね」
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