第二章
零れた白
それから幾日が経った。いつものようにランニングシャツに着替えて廃物置き場のシャッターを開けて製鉄場へ出る。一歩ずつ歩くごとにパンのいい匂いがしてくる。すると勝手に足が速まってくる。終いには小走りになってドアまでたどり着いた。
「おはよう。お父さん、お母さん」
ガザッ!と音を立てて父がキトリを見やった。見ていた号報を荒々しく握った音だった。いきなり声をかけたからびっくりしたのかな? そんなに驚かなくてもいいのに、と思いつつも、驚かせちゃったぞ、というイタズラ心でキトリはにんまりする。それを見た父はいつものようにキトリの椅子をぽんぽんと叩き、椅子を半分引いた。今日は早起きでもしたのだろうか。キトリの牛乳と一緒に出てくるはずのコーヒーがテーブルの上にポツンと一つ、既に置かれていた。
キトリの父は毎日のように配られる大戦の状況報告が記された『号報』にいつも一通り目を通している。目を背けたくなる現実と、目を背けては守れない者がいる葛藤の中で毎朝やってくる活字を眺めているのだろうか。いつもは食事が出る頃に読み終わるそれを、今日はもう読み終えており、机に伏せて置いてあった。キトリは読み終わった号報が後は捨てられるだけだと知っていたので、紙ヒコーキでも作ろうと用紙に右手を伸ばした。
ガシャーーーン!!
目の前で何かが破散した音がした。慌てて正面を向くと、お盆をひっくり返し牛乳を床にぶちまけたキトリの母の姿があった。床一面を白色に染めながら、母は目を丸くしてキトリを見つめていた。カランカラン、と床に落ちたお盆の回る音が響き、やがて止んだ。
「お母さん!? 大丈夫?!」
大きな声を出すなという『令』があるにも関わらず、キトリは大きな声が出てしまった。慌てて駆け寄る二人。父は〔下がっていなさい〕という仕草をして、砕け散ったコップの破片を大きい物だけ拾った。同じように拾おうとしたキトリを、大きな手を突き出して制止した。
『ごめんなさい……ごめんなさいね……』
酷く怯えた母の姿に、不思議な違和感を覚えた。今まで一度たりとも飲み物を零した事なんて無かった。あれだけコップ一杯に注いできた飲み物を、お盆の上にすら零さないほどなのに。懸命に破片を拾う父を見て、キトリは何か拭く物を探した。気を取り戻した母も同じ事を考えていたらしく、テーブルの向こう側に行ったので、キトリは台所に雑巾になるものを探しに行った。
キトリの母は奥のトイレに行く合間に、テーブル上の号報を掴み破って丸めた。
母の失態以外は、何も変わらない朝だった。床を拭き終わり、遅れた時間の分、皆で朝食を準備した。キトリはいつもと違うコップで飲む牛乳を見るたび、母の動揺に不思議な気持ちでいたが、美味しいパンをほおばる度にそれらを忘れていった。
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