2-10 セレンディピティ
駅の周りは再開発されてすっかり変わってしまった。東京の一部とは思えないほど畑の多かった風景も今は昔だ。マンションが立ち並び、洒落た感じのお店も増えている。里佳にはずっと住み慣れた街だ。なのに、ふと、まるで見知らぬ場所に思えることがある。
「あら、こんなところで」
声をかけてきた女性になんとなく見覚えがある。
「金子よ。この前は電話でごめんなさないね」
「いえいえ」
なんとか思い出していた。電話でインフルエンザが流行っているからと営業を断られた、あの金子さんだ。
「お買い物?」
白衣とも作業着ともつかない格好ではない姿しか見たことがなかった。私服の金子さんはそこら辺にいる普通のおばさんだ。少し若く見える。
「いえ、今から戻るところで」
「あら、今日も外回りなの。大変ねえ。私は今から帰るところ。今日は早番なの」
「そうなんですか」
「職場にもよると思うけど、ウチのとこはヒトが多いからまだましね」
荷物は小さなカバンだけ。身軽だ。
「あ、カバン小さいと思った? 私は介護事務だけだからケアマネとか介護士とかみたいに持ち帰るような仕事ないのよ。そういうのはちょっと助かってるわね。それに独身だし」
「そうだったんですか」
「あ、驚いてる? そうよね、私みたいなおばさんが独身ってね」
金子さんはケラケラと笑った。職場で会う時よりも陽気だ。
「そうだ、そこのケーキ屋さん、ついこの前オープンしたばっかりなのよ。私おごるから、お茶しない」
特に急いではいない。断る理由もなかった。
「美味しい!」
思わず声が揃った。
綺麗に作り上げられたケーキは流行りものを紹介する雑誌に載っていてもおかしくない。文句なく美味しい。複雑な気分だった。こんな美味しいケーキ屋さんが当たり前に駅前に出来て、昔からやっていた近所の洋菓子屋さんは廃業してしまった。別にこのお店のせいじゃないのはわかっている。それでもと思う。
あっという間にケーキを平らげた金子さんは満足気に紅茶をすすった。
「ごめんね、お腹すいちゃってたから」
事務職だから直接お年寄りを介護しているわけではない。なのに疲れているように見える。
「ふふッ、あなた、今、私のこと、疲れてるって思ってたでしょ」
見透かされていた。
「わかるのよワタシ。わかっちゃうの。こう見えても、前はね、大きな会社で働いてたの。古い体質の会社でね。毎日ずっと他人の顔色を伺って仕事するのよ。そんな生活続けてたらなんとなくわかるようになるのよ。ワタシだけじゃないわよ、皆そうよ。でも、そういうの疲れちゃって」
里佳に話しているわけではない。自分自身に言い聞かせるように話は続いた。
「今はバタバタ忙しいけど、やっぱり一緒ね。同僚のこと、お年寄りのこと、他人の顔色ばっかり見て仕事してる。ホント、そういうの辞めたいんだけど無理ねえ。無理。無理無理。しょうがないわよね」
ポットの中の紅茶を注ぎ足す。
「紅茶なんてねえ、昔はこんなポットで出すお店なんてそんなに無かったわよね。あ、若いから知らないわよね。ええっと」
「田村です」
「そうそう、田村さん」
照れ隠しのように手で口を覆う。
自分が金子さんの名前を忘れていたのと同じように金子さんも里佳の名前を忘れていたことになぜかホッとした。
「でね、田村さん、あなた、あのツアー、バスの、あのお墓参りの。あれ、どうなった?」
「ああ、あの、そうですね」
「やっぱり集まってないんだ」
「ええ、まあ少しは」
「そうよねえ、バスツアーなんてそもそも元気な人が行くものよね」
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
「あたしもねえ、元気だけど、行きたくても行けないのよね、お墓参り」
遠くを見る目だった。
「色々あったから」
聞いていいものかどうか迷っているうちに長い話が始まった。
里佳にとっては教科書でしか知らないバブルの頃、電機メーカーの本社に一般職として入社した若き日の金子さんはディスコでブイブイ言わせていた。身体の線の出る衣装、かきあげるほどの長い髪。羽のついた扇。バブルが崩壊した後の狂乱の時代。若さと勢いだけで日々をエンジョイしていた金子さんだったが、普通の幸せにも憧れていた。近郊の一戸建てとちょっと気だるい日常生活、手のかかる子どもたち、素敵な旦那様。
「どれも手に入らなかったけどね」
笑いが乾いていた。
「あー、こんな話してると煙草吸いたくなっちゃう。もう止めて5年ぐらい経つから滅多に喫いたくならないんだけどね」
普通の幸せは普通に手に入るものだと疑っていなかった。ごく自然に社内で恋に落ちた。相手に妻子がいたのもよくある話だ。別れて一緒になると言ってくれた言葉を信じてその時を待つ。随分と辛抱強く。同期は寿退社を決めてひとり去りふたり去り。結婚式では必ずお立ち台の武勇伝がネタになる。羽根のついた扇は余興で大ウケだった。後輩たちが追い抜くように結婚していく。ネタはもうウケなかった。誰も彼もが幸せになっていく。落ち着いた先輩として穏やかに祝福しながら、いつかは自分の番も来ると信じていた。いや、信じようとしていた。
「なんでこんな話してんだろね、あたし」
ポットの紅茶は残っていない。店員が水を取り替えた。平日の昼間、他に客がいるわけでもない。
「そしたらね、死んじゃったのよ、奴が。あたしを残して死んじゃったの」
冗談っぽく、でも、目は笑っていなかった。
「びっくりしたわよ。夜寝たら朝起きてこなかったって。なによ、それ、勝手な話よねえ」
葬式には呼ばれもしなかった。いてもたってもいられず向かった通夜の会場で同僚や上司に見つかり、その場で帰された。みんな知っていた。秘密だと思っていたのは当人たち、いや、本人だけだったのかも知れない。後日、上司に呼び出されて少しだけ話を聞かされた。故人の奥さんから名指しで会社に強い申し入れがあったそうだ。プライベートな事だから会社としてどうこうということはないが少々気をつけてもらいたい。奥さんが社の偉いさんの親族だったなんて話は聞いていなかった。別れるつもりなんて無かったんだ。どういう形であれ、普通に幸せになるとか、そんなことには絶対にならなかったんだ。わかっていなかったのは自分ひとりだけだ。幸せになれるはずなんてなかった。
「ちょっと違うな。なんて言うかな、だいぶ前から気がついてたけど認めたくなかったていうか、なんか、そういう感じ」
会社は辞めた。居座るつもりは無かった。誰が知らせたのかは知らないが親からも不倫はダメだとかなんだとか、どうでもいいことを言われて喧嘩になって、結局ずっと住んでた親元も離れた。仕事も居場所も失くしてしまった。行くあては無い。手に職も無ければ資格もない。若くもない。
「で、暇だったし、介護事務の資格取って事務員の仕事見つけて。今のところで三箇所目。人間関係面倒になるとねえ。て、そんなこと言ってられない歳なんだけどね。ごめんね、こんな話。なんかあたしも色々溜まってるみたい。ホント、ごめんね」
なんと返事をしたものか迷う。
「そうよね。ごめんね。それで、何の話だったっけ。ああ、そうそうお墓参りのバスツアー、あれってワタシも参加できるかしら」
「金子さんが、ですか?」
「そう、アタシ。お墓参り、行きたいのよね。八柱霊園らしいんだけど。どこかわからないのよね。あ、八柱がってことじゃないのよ。霊園は行ったことあるの。そうじゃなくて、お墓の場所。いっぱいあるでしょ、何回か行ってみたんだけど、適当に探してもみつからないのよね」
「あのー、そのお墓って……」
聞いていいものかどうか。
「そう。さっきの話の昔のオトコ。やだ、オトコとかってアレね。でもまあ、そういうこと。八柱にお墓があるらしいの。でも、お墓の場所まではわからなくて」
「あのー、それだと行っても……」
何を言っていいものやら。
「そうよねえ。そうなのよ。それはそうなのよ。でもねえ。そうよ、施設のお年寄りで行きたいって方いたから、ワタシ、その日お休みとってその方の付き添いで行くわよ。それならいいでしょ。ていうか、それ、いいじゃない。ええっと、」
「田村です」
「そうそう、田村さんもお年寄りばっかりだと大変よ。介護施設の現役職員が付き添うなら問題ないでしょ」
「でも、金子さん、事務職で現場はやってないからって」
「なーに言ってんの。毎日見てるんだからなんとかなるわ。事務もいつまで出来るかわからないし、介護士の資格とか目指してもいいかなって思ってるし。大変そうだけどね。ね、いいでしょ」
「わかりました。そういうことなら」
納得したわけではないが、すっかり押されていた。
「よかった。そうだ、今度飲みに行かない? そこに新しくオープンした串焼き屋。どう?」
「あ、えと……」
「あ、そうよね。ごめんね。若い人は若い人で色々あるわよね。付き合ってもらってありがとね。ここ、ワタシのおごり。美味しかった。また来ようかしら」
小さな鞄を抱えた金子さんは店を出ると何度も里佳に手を振りながら小走りで駅に向かった。
本当にこれでよかったのか、もやっとした気持ちはなかなか晴れそうにもなかった。
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