第二十六話『かごの中の令嬢』

 数日後、松平秀光氏の葬儀が密やかに執り行われた。

 あれ以来、警察は一度も屋敷を訪れる事はなく令嬢もそのまま執事が引き取る事になった。

 元鷹宮邸が焼かれその保険金が入り、元より蓮家が引き継いできた財産がアスカの手元に残った。今後、令嬢と二人で暮らすには十分過ぎる程の金額だろう。

 蓮家は代々財産を引き継いできた。それは初代邦靖(くにやす)の遺言で、『財産を受ける権利は鷹宮へ復讐を果たした者とする』とあり、アスカの代までその財産は手付かずのままに引き継がれてきたからだ。祖父は果たせず、父の代も事故で他界し果たす事は叶わなかった。

「アスカ、本当に私はこのままお屋敷に住んでもいいのでしょうか」

 葬儀が終わり数日経過したある日、令嬢は午後のお茶を淹れる執事に遠慮気味な眼差しを向けた。

「勿論でございます。ご主人様がお亡くなりになった事はとても不幸な事故でございましたが。私はご主人様が残されたお嬢様だけでも大切に御護りし、今後も変わらずにお世話を致したいと願ったのでございます。…もしご不安がある様でございましたら、別の策を考えますが?」

 令嬢は勢いよく首を振った。

「いいえ、今やこの屋敷主は貴女なのに令嬢として扱って頂く事に恐縮しているのです。ましてや、私の父は貴女を…」

 その続きの言葉を制する様に、アスカは掌をやんわり彼女の前に差し出したが、それでも令嬢は絞る様な切ない声で続けた。

「…父は貴女を殺そうとした。貴女は父の事を、いえ…鷹宮家が困窮している事を案じてあの屋敷を買い取られたのではありませんか?母の力があったとはいえ私達を救う為だったのでしょう?父は逆上して貴女に手を掛けようとした…そんな事があった後で、その娘を…今や身寄りすらない病弱な娘をこうして貴女が主であるこの屋敷に留めて下さるなど…私にはそのお心の深さに唯、恐縮と感謝で頭が上がらないのです」

「何を仰有っておられるのです。申し上げた筈でございます。私が貴女をこの屋敷に留めたい、と願ったのだと。ですから此まで同様、お嬢様としてお過ごし頂くのは当然でございます。ですが、もしお気持ちが引けるのであれば…そうですね…ではこう致しましょう。本日より私もお茶の時間を共に戴きます。構いませんか?」

 令嬢の顔がぱっと明るくなり少し頬を薄く染めた。

「え、ええ!勿論です。貴女さえ宜しければ…」

 アスカは、早速新たに一人分の紅茶を淹れると向かい側へ座り、白いカップへ指先を絡めた。互いに紅茶のカップを交わす事で二人の距離が少し縮まるだろうか。

 いつも令嬢の傍らに立ち茶の給仕をするだけで、こうして向き合って顔を合わせる事などなかった。そんな事を思いながらアスカは今、芳醇なアールグレイの香りと共に微かな幸福感に包まれていた。

「実はね、私ずっと思っていたのです。貴女とこうしてお茶を戴けたらどんなに素敵か、って。でも、貴女はずっと私の傍らに立っていらして…とても一緒にお茶を、とお誘い出来なかった。私はとても臆病なのね」

「では、もっと前からこうしてお茶を共にさせて頂きたかったものでございます。何故なら、いつか私もお嬢様とお茶を頂きたいと思っておりましたから」

 アスカは茶菓子のマドレーヌへ手を伸ばすとそれを品よく小さく割り、その一片を令嬢の口許へ宛がった。令嬢の小さな唇がゆっくり開き、甘い菓子が咥内へと吸い込まれていった。指先を引き、少し恥ずかしそうに俯きながら咀嚼する令嬢の仕草をじっと見つめ美しい黒髪を優しく梳いた。令嬢の頬が更に染まり何か口元で言葉を呟いた、が、その言葉はアスカの耳まで届かなかった。

 窓から射す午後の日差し。穏やかな時間がゆるりと流れる。が、その流れを止めたのは令嬢の言葉だった。

「ですが私、このお屋敷には長くお世話になる訳にもいきません。お父様の葬儀が終わった後、参列して下さった霧島様から正式にお付き合いを申し込まれたの」

「正式に?」

「ええ…つまり、結婚を前提に今後はお付き合いを、と。ですから貴女のお手を煩わせてしまうのもそんなに長くはないと思います」

 アスカの表情は一瞬戸惑いに曇った。が、それは令嬢には見えていないだろう。

「それで…お嬢様は霧島様の事をどう受け留められたのでしょうか?」

 令嬢は少し俯きながら、幾度か口元を動かそうとしては閉じた。が、その瞳の揺れ方、何よりも言葉を選んでは飲み込む時に見せるはにかむ表情でその心中を図る事が出来る。

「私も霧島様をお慕い致しておりますから、御承けしたいと願っております」

 それまでの穏やかな気持ちが一瞬にして心に影を落とす。

 ……彼女が霧島のものになる?馬鹿な。私が此処に彼女を留めたのは何の為だというのだ。そんな事はさせない。否、彼女をこの屋敷から出してはいけない……!

 穏やかな仮面を貼り付けた儘、アスカは瞳に鋭い光を宿らせ、ゆっくり立ち上がると令嬢の側へ近付きテーブルに手を突いた。

「…出来ません」

「え?」

「それは出来ません。貴女はずっとこの屋敷で過ごすのですよ?お嬢様」

「で、でも…」

 戸惑い、視線が泳ぎ何か言葉探る令嬢を尻目にそのまま言葉を続けた。

「此処から貴女を出す事は出来ません。また、私の許可なく屋敷から出る事は許しませんよ?」

「何を…言ってるの?アスカ…?」

 大きな瞳が更に見開き、令嬢の瞳は困惑よりも不安の色に染まっているのだろう。その瞳を捉えた儘、更に一歩距離を詰め、令嬢の背後へ回り腕を彼女の細い肩へ回そうとした時、怯えた様に令嬢が立ち上がった。

 が、そのままゆっくりと後退る令嬢へ距離を詰めてゆく。壁まで追い込むと逃げ場を阻む様にアスカの腕が伸び、その掌を静かに壁へ押し当てた。

「後がございませんよ?お嬢様…」

 黒く長い影が令嬢を覆う。そのまますい、と腰を折り怯える令嬢へ顔を近付けた。

「貴女には今後も此処でお嬢様としてお過ごし頂きます。このお屋敷の主は私です。貴女は私の管理下にある、という事をどうぞお忘れなく…」

「管理?私は…物ではありません」

 令嬢は怯えながらも力弱く執事を睨みつけた。その時、燕尾服の袖から伸びる指先が優雅な動きで令嬢の小さな顎先を絡め少し乱暴に持ち上げた。

「いいえ。貴女は私のものです」

 アスカは低く呟くと長身の身体を引き、喉奥から低くくぐもった笑い声を漏らした。

 ……ひとまずは此処でゲームセット、か……

 壁に貼り付いた儘の令嬢に冷たく微笑んだ後、執事の顔に戻り茶のセットを手早く片付けた。

「では失礼を致します。お嬢様」

 丁寧に一礼した後、執事は令嬢の部屋から静かに出て行った。

 室内は冷たい薄荷(はっか)の様な苦く、冷たい空気に包まれていた。執事が愛用している香りがそれと似ているからだろうか。

 令嬢は暫く壁に背を付けた儘動けず、やがて力が抜け落ちたようにゆっくりと膝から崩れ絨毯へ腰が落ちた。

「私は…これからどうなるの…?」

 最早誰も答えぬ部屋で、令嬢の小さな声だけが響いた。

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