第59話 雨音と甘音
『千草、お父さんとお母さん、週末出掛けてくるから』
6月の終わり、両親は古い友人に会うため、お店を休んで長崎まで旅行へ行った。
土曜日の今日は朝から大雨で、出掛ける気も削がれてしまう日だった。
それに、なぜか両親がいないことを左京くんにも伝えていない。
……だって。
……だって。
なんて言えばいいのかわからなかった。
『親がいないの』
――だなんて誘ってるみたいだし!!
今日は1日うちで過ごそう。
天気もわるいし、左京くんはバイトだって言ってたし。
晩ごはん、何作ろう。
……そうだ!クッキーも焼こう。
バレンタインの日、左京くんのために作ったチョコチップクッキー。
『美味しい』
そう喜んでくれた彼を思い出す。
このあいだ『キッチンTAKIZAWA』であのガトーショコラを食べた時から、また彼に何か作ってあげたいと思っていた。
美味しいと騒ぐ私たちを見て嬉しそうに微笑んだ雪さんと、バレンタインデーの時の彼がダブって見えたからだった。
「よしっ!」
エプロンをして腕まくりをする。
何だか楽しくなってきた私は、鼻歌まで歌ってしまっていた。
***
夢中になりすぎて時間をすっかり忘れていた。
窓に打ち付ける激しい雨音と風の音で、ふと我にかえる。
薄暗くなった部屋に一人きり。
ガタガタと音をならす店のガラス戸。
私は慌てて電気をつけた。
キッチンの洗い物を済ませたあと、テーブルの上に並べたクッキーを見ていた。
左京くんのために焼いたナッツ入りのアイスボックスクッキー。
喜んでくれるだろうか。
彼のことを思い出しただけで思わず頬が緩んだ。
クッキー作りに夢中になりすぎて、晩ごはんの支度をしていなかったことを思い出した私が、慌てて立ち上がろうとしたちょうどその時だった。
窓ガラスに稲光が映る。
そしてすぐに、ドドドドド……と大きな音を立てて空が揺れた。
「か、雷?!」
雷が大の苦手な私はそれだけでオロオロしてしまう。
ピカッ。
「きゃあ!!」
また光り、轟く稲妻。
両耳を押さえ思わずしゃがみこむ。
子供みたいで情けないけれど、こればかりはどうしようもなかった。
手にかいた大量の汗。
……どうしよう。
心細くて堪らない。
怖い!
そう思った瞬間だった。
テーブルの上で鳴り出す携帯。
屈んだまま近付き手に取ると、携帯の画面に映る彼の名前。
「も、もしもしっ!!」
「千草。何してた?」
「さ、左京くん……」
私の声を聞いて、彼はすぐに何かを察したようだった。
***
電話を切ってからたった20分ほどで彼はやってきた。
「千草、大丈夫か?」
バケツの水を頭から被ったのかと思うほどずぶ濡れでやってきた彼は、玄関先でまず私の心配をした。
バイト先から真っ直ぐ直行してくれたのだろう。作業着のままの姿が嬉しかった。
「ごめんね」
「大丈夫だよ」
静かになった雷鳴。
弱くなった雨音。
二人の間の空気が、急に緊張し始める。
タオルで頭を拭き終わった彼が、ゆっくり私に問い掛けた。
「あ、お父さんたちは?」
「……今日と明日、旅行で、な、長崎まで」
「……そっか」
「う、うん」
再び訪れた緊張と、静けさに私は堪えられなかった。
「さ、左京くん!お腹すいてない?!」
「……あ、うん、実はペコペコ」
「晩ごはん!!」
「ん?」
「……晩ごはん、食べて行かない?……かなぁって」
頬が熱い。
どんどん小さくなる私の声。
それでも彼は、とても嬉しそうに微笑む。
他ではそんな顔しないのに、私に向ける緩んだその顔が大好きだった。
気にしないようにしていたのに。
濡れた彼の髪の毛にもドキドキが止まらない。
「……千草?」
急に無口になった私に、不思議そうな顔をしてゆっくり近付く彼。
一歩、また一歩……と、彼が近付く度に、心臓が今までないくらいに騒ぐ。
目の前に立った彼は、私の背丈に合わせて少し背中を丸める。
私は、彼が首にかけたタオルをそっと掴む。
それが合図になった。
――重なる唇。
近付いた彼からは雨の匂いがする。
冷たい指先も、冷えた体も、温めてあげたいと思ったから、私は彼に両手を回した。
「……俺、止まんなくなるよ」
彼の熱い息が耳にかかる。
「……それでもいいの」
自分が自分じゃないみたいだ。
抱えた不安と、恐怖。
でもそれ以上に彼と結ばれたかった。
彼に包まれたかった。
私も、彼を包みたかった。
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