第8話 朝になっても、愛されている
目を開けると、夫がわたくしの髪を指に巻いていた。
「おはよう、コレット」
「……おはようございます」
自分の声がまだ眠たそうで、少し恥ずかしくなる。
婚礼から一ヶ月が経った。けれど、目覚めたばかりの顔をすぐそばで見られることには、まだ慣れない。
窓の向こうでは、細い雨が降っている。
わたくしが布団から手を出すと、夫は髪を指からほどき、その手を取った。
「寒いか」
「いいえ。今、何時でしょう」
「君が急ぐ時刻ではない」
「あなたは?」
「……俺は、そろそろ起きる」
彼はそう答えながら、少しも起きなかった。
離した手の代わりに腕が回り、わたくしの額が胸元へ触れる。
「旦那様」
「ああ」
「起きていらっしゃいません」
「知っている」
声の低さが可笑しくて、わたくしは彼の胸へ額を押しつけて笑った。
つられたように、彼も笑う。その振動が頬へ伝わるほど近くにいられる朝を、あと少しだけ引き延ばしたかった。
わたくしは顔を上げた。
「今夜、お帰りは?」
「夕方の会議が終われば帰る」
「では、お食事のあと、わたくしにお時間をください」
「食事の前では駄目なのか」
「お腹が空いていらしたら、お誘いを断られるかもしれませんから」
彼が目を細めた。
「何をするつもりだ」
「今申し上げたら、朝からお困りになるのでは?」
わたくしを抱く腕に、少しだけ力がこもった。
近づいてきた唇へ、わたくしから触れる。短く済ませようと思っていたのに、背中へ回った手が温かくて、彼の肩に置いた指が動かせなくなった。
扉の向こうから、控えめな音がした。
「旦那様、お支度のお時間でございます」
彼は目を閉じ、わたくしの額へ自分の額をつけた。
「……聞こえた」
「わたくしも、聞こえました」
「笑うな」
「今夜まで、お預かりしておきます」
わたくしがそう言うと、夫は名残惜しそうに腕をほどいた。
寝台を出る姿を、布団へ頬を埋めて見送る。
振り返った彼に目が合い、隠すより早く笑ってしまった。
「帰ってから、覚えていろ」
その低い声まで、今日の楽しみになった。
午後には雨が上がった。
伯母の家を訪ねると、春のために出した花鉢が玄関に並んでいた。家へ入る前から見慣れた女中が顔を出し、まるで昨日もここへ帰ったように迎えてくれる。
居間で、伯母は手紙を読んでいた。
「あら、今日はお一人?」
「お仕事のある方ですもの」
「知っているわ。でも、毎回あまりに見事についていらっしゃるから」
わたくしは椅子へ腰を下ろし、持参した紙包みを差し出した。
伯母の好きな菓子を買ったつもりが、箱を開けると、自分の好きなものも半分以上入っている。
「お上手になったわね」
「何がです?」
「食べたいものを、遠慮なく持ってくること」
笑って返そうとして、伯母の顔を見た。
その人は何でもないように箱を皿のそばへ置き、お茶を淹れている。
わたくしは一つ取って、まだ空いている自分の皿へ載せた。
「ええ。せっかくですから」
伯母も、満足そうに一つ取った。
話したことは、特別なことではなかった。ニナが公爵家の料理人と仲良くなったこと。公爵家の廊下で道を間違え、誰もがわたくしより先に恐縮してしまったこと。夫が夜になると、わたくしの本を覗き込んでくること。
「本がお好きなの?」
「いいえ。どこまで読んだか、お聞きになるのです」
「それで?」
「その章が終わったら、と申し上げましたら、昨夜は残りの頁を数えられてしまいました」
伯母はとうとう、茶碗を置いて笑った。
「まあ。あの方らしいこと」
「おかげで、なかなか読み終わりません」
「それは、お二人でどうにかなさって」
そう言う伯母の目が優しくて、わたくしまで笑ってしまった。
窓のそばの花鉢に、伯母がふと目を向ける。
「今日は日が差してよかった。あの蕾、朝には少し開いていたのよ」
わたくしは立ち上がり、一緒に窓辺へ行った。
小さく色づいた花の向こうに、雨で洗われた庭が見える。
ここで過ごした秋と冬のことを、どこから話せばいいのか分からない時もあった。ありがとうと繰り返すだけでは、伯母が困ってしまうことも知っていた。
だから今日も、何でもない話をしに来た。
花が開いたら、また見せてほしいと頼むと、伯母は「もちろん」と答えた。
その夕方、わたくしは公爵家へ戻る途中で馬車を止めてもらった。
軍の庁舎は、帰り道からそう遠くない。
会議が終わる時刻だと聞いていたけれど、まだ玄関に人は少なかった。先に使いを頼もうかと考えていると、門衛がわたくしに気づき、慌てて背筋を伸ばした。
「奥方様。お約束でいらっしゃいますか」
「いいえ。会議が終わりましたら、夫を迎えに来たとお伝えいただけますか。こちらで待ちます」
彼は敬礼して中へ入っていった。
しばらくして姿を現したのは、副官だった。
婚礼の披露の席で、夫をからかっていた方だ。わたくしを見ると、一瞬で楽しそうな顔になった。
「あと少しで終わります。どうぞ、こちらへ」
「お邪魔になっておりませんか」
「まさか。むしろ、ありがたいことです」
通された待合の椅子へ座ると、その方はお茶を用意するよう頼みながら、小声になった。
「今日は、定刻に終わるでしょう」
「いつもは、そうではないのですか」
「終わります。終わりますとも。ただ皆、あれもこれも相談したくなりますから」
悪戯を見つかった少年のような笑顔を浮かべ、彼は廊下へ戻っていった。
扉の向こうで足音が行き交う。
待合の本棚に、すり切れた地図帳があった。卓上へ広げ、北方の頁を開く。夫が長く暮らしていた町の名を探すと、王都からずいぶん離れたところに、小さな印が見つかった。
その印へ指を添えているうちに、聞き慣れた足音が近づいた。
顔を上げると、夫が扉のところに立っていた。
「どうした」
「迎えに来ました」
「……何かあったのか」
「あなたに会いたくなりました」
廊下の向こうで、誰かが妙な咳をした。
彼は扉のところで一度振り向いた。それからわたくしのそばへ来て、卓上の地図を見下ろす。
「そこに、俺がいた」
「ご覧になった景色を、少し知りたくなって」
夫は町の印に添えられた頁番号を見て、市街図を開いた。川を挟んで並ぶ家々が、今度は一軒ずつ描かれている。
その川のそばへ、彼の指が置かれた。
「詰所は、橋のこちら側だ。窓から川が見えた」
「綺麗なところなのですか」
「ああ。雪が降ると、向こう岸の屋根まで真っ白になる。春には水かさが増えて、橋の上で話すと、互いの声が聞こえない」
指が橋を渡り、印刷された町の中を進む。
「このあたりに、夜明け前からパンを焼く店がある。帰りが遅くなると、焼ける匂いで朝だと分かった」
「食べてお帰りになったのでしょう」
「時々な」
わたくしが顔を上げると、夫は少し笑った。
「かなり、度々だ」
戦を終わらせた軍神の話は、王都の誰もが知っている。
けれどわたくしは今、眠たそうな顔で焼きたてのパンを待っている、この人を思い浮かべていた。窓の向こうの雪も、橋の上の大きな水音も、もっと聞きたかった。
「今夜は、その店のお話をしてくださいませ」
「そんな話でいいのか」
「あなたが、何を召し上がっていたかも」
彼の指が、地図の上からわたくしの手へ移った。
「では、茶を飲みながら話そう。長くなる」
「楽しみにしております」
副官が扉のところで、軽く頭を下げた。
「お疲れさまでございました。残りの回覧は、明朝のお机へ」
「頼む」
それだけ告げて、夫はわたくしを連れて歩き出した。
すれ違う人々が、次々に道を譲る。
その度に、彼はわたくしへ合わせて歩く速さを変えた。大股で先を急ぎがちな方が、隣のわたくしを待つ。そのことを、皆が気づいているようだった。
馬車へ乗ると、彼は向かい側の席へ座らなかった。
「狭くなりますわ」
「まだ、空いている」
わたくしの腰の横を指して言うので、笑ってしまう。
馬車が動き出したあと、夫は手袋を外し、そっと懐から何かを取り出した。
小さな革袋に入っていたのは、結婚指輪だった。
「今日は、お稽古に加わっていらしたのですか」
「午前にな。剣を握るから外した。帰ってから、君にはめてもらうつもりだった」
彼の左手が、わたくしの前へ差し出される。
わたくしは袋から指輪を取り出した。婚礼の日と同じ指へはめると、彼はわたくしの手ごと持ち上げ、そこへ口づけた。
「おかえりなさいませ」
「ああ。ただいま」
「まだ、お屋敷ではありません」
「君が言ったのだろう」
彼の肩へ、そっと頭を預けた。
手袋を外した手が、わたくしの髪を撫でる。
わたくしは彼の腕へ手を回し、顔を上げた。
「今朝のお約束なのですが」
「覚えている」
「わたくし、食事の前でも構いません」
その返事の代わりに、夫は唇を寄せてきた。
窓の外を過ぎていく街の灯りが、少しだけ揺れた。
王宮の春の夜会には、夫婦で招かれた。
婚礼とは違う深い色のドレスを着て、鏡の前に立つ。肩へかかる布の線も、耳元の飾りも、わたくしが選んだものだ。
最後に髪へ触れていたニナが、鏡の中で言った。
「旦那様、もう三度、お待ちになっているお部屋から出ていらっしゃいました」
「お支度が遅いと思われたかしら」
「いいえ。三度とも、あとどのくらいでお会いできるか、と」
入口へ向かって、声を張る。
「もう少し、お待ちくださいませ」
隣室から「分かった」と返事があった。
ニナと目を合わせると、彼女も笑うのをこらえていた。
「今の距離でしたら、ご自分でお聞きになればよろしかったのに」
「お邪魔をしないように、我慢していらっしゃるのですよ」
ニナはそう言い、わたくしの髪から手を離した。
彼の待つ部屋へ入ると、椅子の背に手をかけていた夫が振り向いた。
「綺麗だ」
早すぎる感想だった。
「まだ、よく見ていらっしゃいません」
「十分、見えた」
「せっかく時間をかけましたのに」
彼の礼装も、よく似合っていた。
近づいて、その胸元に留められた勲章へ目をやる。金属の冷たい光の上へ、わたくしの指を置くことはできなかった。その少し下の布へ、そっと触れた。
「わたくしも、あなたをお見せしたいです」
夫はわたくしの手に、自分の手を重ねた。
「そんなに嬉しそうに、俺を見てくれるとは思わなかった」
彼の声が、少し低くなった。
わたくしはもう一度、その胸元を見た。自分だけに向けて笑っている顔を見上げるには、少し勇気が要った。
「嬉しいのですもの」
夫は触れていた手を持ち上げ、薄い手袋の上へ口づけた。玄関へ向かうときには、わたくしから彼の腕へ手を添えた。
王宮では、どこへ行っても挨拶を受けた。
初めてお会いする方に「ドーヴェル公爵夫人」と呼ばれるたび、少し不思議な気持ちになる。けれど、夫の隣へ立つことに遠慮はしなかった。
長い広間の奥で、王妃へお目通りした。
夫が深く一礼し、わたくしも膝を折る。
「お幸せそうね」
王妃の言葉へ返事をしようとして、隣の夫が先に口を開いた。
「はい。妻のおかげで」
王妃が楽しそうに笑われた。
「あなたにお聞きしたつもりではなかったのだけれど」
夫は少しも慌てず、わたくしを見た。
早く返事をするように、という顔ではない。
わたくしの答えを、自分も聞きたい顔だった。
「わたくしも、幸せに暮らしております」
そう申し上げると、隣にいる人の目が、少し細くなった。
お目通りが終わり、広間の端へ下がったところで、わたくしは彼の腕を軽く叩いた。
「先にお返事をなさらないでくださいませ」
「そうだな。悪かった」
「わたくしの口から、申し上げたかったのです」
夫はわたくしを見た。
「聞けて、嬉しかった」
それだけで、叩いた腕へもう一度、手を添えたくなった。
知り合いの奥様方がこちらへいらして、わたくしたちはしばらく挨拶に忙しくなった。
婚礼に参列してくださった方や、伯母の友人。皆、当たり前のように今日の衣装を褒め、来月のお茶へ誘ってくださる。
夫も、公爵家の仕事について尋ねられていた。
わたくしは別の輪で話をし、ときどき、その横顔を見た。あちらでも誰かが笑っている。軍から戻って初めてお会いしたころには、退屈な席をどう断るかを、伯母に教わっていた方だ。
目が合うと、彼は持っていた杯を少し上げた。
すぐ隣にいなくても、帰るときには同じ馬車に乗る。それが今は、当たり前の約束になっていた。
音楽の合間に、年配の伯爵様から一曲のお誘いを受けた。伯母のお知り合いで、お若い頃から踊りがお好きな方だ。
わたくしはお受けした。
夫へ顔を向けると、彼はあまり嬉しそうではなかった。けれど、わたくしを引き留めることもない。
「一曲だけ」
おどけて言ったのは、伯爵様だった。
「公爵、そう睨まないでくれ。エリーズ殿に、あとで叱られる」
「睨んでおりません」
「それなら、もう少しお笑いなさいませ」
わたくしが言うと、二人の男性が同時にこちらを見た。
伯爵様は声を立てて笑い、夫は仕方なさそうに口元を緩めた。
一曲を踊り終えた時、わたくしは自分から彼のもとへ戻った。
差し出される手を取ると、夫はわたくしを引き寄せた。
「楽しかったか」
「ええ。とても」
「そうか」
「……あなたがお待ちくださっているのが見えて」
彼が、息を止めたように見えた。
わたくしはその腕へ手を添え、次の曲へ歩き出した。
「今度は、あなたと踊りたいです」
答えは言葉にならず、わたくしを支える手の温かさになった。
その年の冬、王都の広場に灯りの市が立った。
窓から通りを覗くと、夕方には、あちらこちらの家に小さな灯りがともる。屋台の骨組みが少しずつ増え、焼き菓子や温めた酒の匂いが、馬車の窓まで届くようになった。
市へ行きたいと夫を誘ったのは、わたくしだった。
彼はその場で手帳を開き、予定を確かめた。
「明後日の夕方なら、ゆっくり行ける」
「では、その日に」
「寒いだろう。外套を」
「もう用意しました」
言うと、彼は顔を上げた。
わたくしの手には、自分のものと彼のもの、二枚の外套が掛かっている。
「明後日と言ったのだが」
「予行練習です」
彼はわたくしを見て、それから笑いだした。
わたくしも我慢できずに笑った。
約束の日には、細かな雪が降っていた。
積もるほどではない。肩へ落ちると、すぐに消えてしまう雪だった。
馬車を下りたところで、わたくしは夫の襟を直した。
「ありがとうございます、奥様」
「お似合いです、旦那様」
彼はわたくしの手を取り、外套に包まれた自分の腕へ添えさせた。
広場までの石畳には、砂と細かな木屑がまかれていた。足元へ気をつけながら歩いていると、頭の上で、笑いを含んだ声がした。
「今日は、どこまで行くつもりだ」
「あの端まで」
「端の向こうにも、屋台があるぞ」
「では、その向こうまで」
焼いた栗を売る店の前で足が止まった。
夫が紙包みを二つ頼もうとするので、わたくしはその腕へ手を添えた。
「一つで」
「足りるか」
「足りなかったら、また買いましょう」
店の主人が笑い、少し大きな包みへ栗を入れてくれた。
熱い包みを彼に持ってもらい、わたくしが一つ取る。すぐには殻が剥けず、指先で転がしていると、彼が包みを片手へ持ち替えた。
「貸してみろ」
「まだ、熱いです」
「俺にも、分かる」
「ご自分の指だけ丈夫だと思っていらっしゃるでしょう」
つい言ってしまうと、夫は可笑しそうにわたくしを見た。
それでも栗を一つ受け取り、ほどよく冷めたところで、割れ目から殻を外した。
わたくしへ差し出す。
受け取ろうとしたのに、その手が動かない。
「あの」
「手が塞がっている」
「今、差し出していらっしゃいます」
「そうだな」
彼は少しも引っ込める気がなかった。
屋台の主人が次の客へ向いた隙に、わたくしは顔を近づけ、彼の指から栗をもらった。
ほくほくと温かい。
頬まで熱くなるのが、栗のせいなのかは分からなかった。
「……美味しいです」
夫が、ひどく嬉しそうな顔をした。
その顔を見ていたら、わたくしも何かしたくなった。
次の栗は自分で剥いた。
彼のほうへ差し出すと、さっきよりずっと素直に身をかがめる。
「お早いのですね」
「待たせたくない」
吹き出しかけたわたくしの手を支え、その人は何でもないことのように、口元へ寄せた。
通りの向こうから、笛と小太鼓の音が聞こえてくる。
人々の笑い声が重なり、濃くなった夕空の下で、灯りがいっせいに明るさを増していた。
わたくしたちは見つけたものを指し、足を止め、また歩いた。
楽隊の前を通るとき、夫の足が止まった。
笛が、聞き覚えのない曲を吹いていた。隣で低い声が聞こえ、わたくしは彼を見上げた。
「歌っていらしたの?」
「ああ。北でも、よく聞いた歌だ」
「続きも、お聞かせくださいませ」
いつも近くで聞いている声なのに、歌になると少し違った。
夫は楽隊の調べに合わせ、わたくしへ聞こえるほどの声で、一節を歌った。冬を越えて帰ってきた旅人が、家の戸口で名を呼ぶ歌だった。
最後の一音が途切れると、わたくしは握っていた腕に、頬を寄せた。
「あなたの好きな歌を、わたくしも覚えたいです」
「では、もう一度聞こう。今度は初めから」
曲が終わると、彼は奏者へ歩み寄り、帽子へ硬貨を入れて、もう一度と頼んだ。
少し冷えたわたくしの指は、彼の手の中にあった。初めから聞くと、何度か繰り返す短い節が分かった。小さく口ずさむと、夫も同じところから声を重ねた。
薄い金属を打ち抜いた飾りを売る店では、窓辺へ吊るす星を買った。どちらの窓へ飾るか相談しているうちに、二つ買えばよかったと気づき、二人で店へ引き返した。
道の端で、夫が手袋を外した。
買ったばかりの飾りが外套の袖へ引っかかったらしい。わたくしが取ろうとすると、彼は少し膝を折って、手元を近づけた。
手袋の下には、結婚指輪があった。
わたくしは飾りを外し、その指をそっと撫でた。
「コレット?」
わたくしも左の手袋を外し、彼の左手へ自分の手を重ねた。同じ金の輪が、広場の灯りを受ける。
「嬉しいと思っただけです」
その人の笑い方が、少し変わった。
声を上げず、目を細めて、わたくしだけを見る。
「俺もだ」
それで十分だったのに、もう少し何か言いたくなった。
わたくしは外套の袖を引いた。
「帰りましたら、今夜はわたくしからお誘いします」
彼は一瞬、広場のほうを見た。
「まだ、半分も見ていないだろう」
「はい」
「では、最後まで付き合う」
「お待ちになれますか?」
返事の代わりに、彼はわたくしの手を外套の中へ入れた。
温かい腕に触れて、わたくしは笑いながら、もう一度歩き出した。
広場の向こうでは、また違う歌が始まっていた。
屋敷へ戻ると、ニナが雪のついた外套を受け取ってくれた。
土産に買った菓子の包みを渡し、買ってきた飾りを見せると、彼女は嬉しそうに覗き込んだ。
「どちらのお部屋へ?」
「明日、一緒に決めましょう」
今夜はまだ箱へ入れておいてほしいと頼むと、ニナはにっこり笑い、そういたしますと頭を下げた。
夫はわたくしの隣で、ひどく大人しく待っていた。
階段へ向かいかけてから、わたくしは彼を振り返った。
「バスティアン様」
「何だ」
「今日も、楽しかったです」
「ああ」
「ですから、続きを」
言葉の途中で、彼の手が伸びた。
わたくしはその指を取って、先に階段を上がった。急ぐ足音が自分のものだと気づくと、可笑しくて、振り返れなくなる。
部屋の扉を開ける。
彼が入ってくるのを待って、わたくしはその首へ両腕を回した。
「今夜は、わたくしからです」
驚いた顔をした人が、すぐに笑った。
「ああ。約束だったな」
膝を折ってくれた夫へ背伸びをする。
戸口へ戻した彼の手が扉を閉める前に、わたくしはその唇へ口づけた。
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