15. 一年

 二人がそれぞれ席に着くと、シルヴィ司教は、この一年ほどの南方未踏地帯の変化について話し始めた。


「人の魔王閣下が提示された協定に基づき、およそ二年前、神々の国と魔王の庭は大変革に関する任務で実質的な協力を開始しました。南方未踏地帯については、根蔵教会が担当しています」


「当時、私たちは遊騎兵ギルドと人亜連合の開拓部隊に同行してここへやって来ました。ですが、この土地はあまりにも混乱していました。邪教徒、盗賊団、指名手配犯、それに数多くの強大な未知の魔獣が荒野に潜んでいました」


「そのうえ、いつまで経ってもあなたが現れなかったため、私は予定を変更し、まずはここに安定した拠点を築くことに全力を注ごうと提案しました。そうすれば、その後の調査任務にも役立つと考えたのです」


 そこまで話すと、シルヴィ司教のうっすらと髭の生えた顔に、悲しげな色が浮かんだ。襟元から覗く首筋には太い青筋まで浮かび上がっていた。


 どうやら、あまりよくない記憶を思い出したらしい。


「私の考えは、あまりにも楽観的でした」


「ヴァネッサさんは蒼穹の島からバロア大城まで来られたのですから、南方未踏地帯がどのような場所なのか、すでにある程度はご存じでしょう。ここには至るところに無法と混乱が蔓延しています」


「この二年で、根蔵教会も多くの優秀な神官や牧師を失いました。ようやく拠点を築くことには成功しましたが、大変革の調査もこの抜け出せない泥沼に引きずり込まれ、ずっと足踏みしたまま、さらに奥へ調査を進めることができていません。本当にお恥ずかしい限りです……」


 それを聞いたヴァネッサの表情も、ひどく険しくなった。


 堕天使族は誇り高い。だが、それは他種族の努力を軽んじるという意味ではない。まして今回の件には、自分が遅れたことにも責任がある。


 ヴァネッサは手を伸ばし、相手がそれ以上自分を責めるのを止めた。


「シルヴィ司教。もともとの協定では、南方未踏地帯の調査は堕天使族が担当することになっていたわ。それも魔王の庭で合意されたこと。神々の国は後方支援として、私たちが迷宮城の外で活動できるよう援護するだけだった」


「約束どおりここへ来られなかったのは私の責任よ。これからの調査任務は私に任せて」


 女ドワーフの司教は小さく息を吐き、うなずいた。


「それでは、これからはヴァネッサさんにお願いいたします。根蔵教会も、南方未踏地帯でのあなたの調査を全力で支援します。必要なものがあれば、何でも遠慮なくお申しつけください」


 ヴァネッサも遠慮せず、そのまま本題へ入った。


「この一年で、大変革を引き起こす可能性のある要因について、何か新しい発見はあった?」


 少し考えたあと、シルヴィ司教は眉を寄せ、うつむいて記憶をたどった。


「この一年、開拓が加速するにつれて、以前は大変革の要因ではないかと考えられていたものの多くを除外できるようになりました」


「今のところ、まだ冒険者や傭兵団が深部まで探索できていない場所は、主に迷いの荒漠、暗影の魔洞、地熱雨林の三か所です。……あるいは、入った者はなかなか戻ってこられない、と言ったほうが正しいかもしれません」


 聞き覚えのある場所が含まれていると知り、ヴァネッサはすぐに答えた。


「シルヴィ司教、迷いの荒漠も除外していいわ。この一年、私はずっとあそこに閉じ込められていたの。確かに中は恐ろしい危険だらけだけど、シロ大陸に大変革を引き起こすほどのものではない」


 それを聞いたシルヴィ司教は驚いた顔で頭を上げ、慌てて問い返した。


「ヴァネッサさんは、迷いの荒漠に閉じ込められていたのですか!? よろしければ、中の様子を詳しく教えていただけませんか? 多くの冒険小隊が入ったまま戻っておらず、今では遊騎兵ギルドによって立入禁止区域に指定されているほどなのです」


 約束の時期に遅れてしまったことへの負い目もあり、ヴァネッサは何も隠さず、この一年近く迷いの荒漠に閉じ込められていた間に、観察して得た知見を話した。


 現地の魔獣の習性。


 終わりのない嵐。


 そして最後に発見した、超獣種と思しき存在。


 その間、彼女がどれほど危険な生活を送っていたのかを聞き、シルヴィ司教はひどく肝を冷やした。


「貴重な情報をありがとうございます、ヴァネッサさん。差し支えなければ、この情報を遊騎兵ギルドと人亜連合にも共有させていただきたいのですが。そうすれば、多くの無用な犠牲を減らせるでしょう」


 ヴァネッサは知性種族を好んではいなかったが、だからといってわざわざ止めるつもりもなかった。


 いつもどおりの口調で答える。


「好きにすればいいわ。堕天使族には何の影響もないもの。私の任務は南方未踏地帯の大変革を調査すること。共有した情報をどう使うかは神々の国の問題よ。権力争いに使おうが、私は気にしない」


 シルヴィ司教はそれを聞くと、笑みを浮かべながら首を振った。特に反論はせず、そのまま次の質問を口にする。


「迷いの荒漠がそれほど危険で、しかも絶え間ない激しい嵐が進路を覆い隠し、エネルギーの流れまで乱しているとなると、鋼鉄の玉座が持つ測位の魔導器も、役には立たなかったでしょう。ヴァネッサさんは、どうやって外へ出られたのですか?」


 それまで会話が順調に進んでいたため、シルヴィ司教も自然な流れで尋ねただけだった。


 だが思いがけず、目の前の大柄な堕天使は、その問いを聞いた途端に黙り込んだ。顔には、答えるのをためらうような困った色が浮かんでいた。


 それを見たシルヴィ司教は、すぐに察して話を変えた。


「失礼しました。少し聞きすぎたようですね。迷いの荒漠を除外できるのなら、今後の調査対象は暗影の魔洞と地熱雨林だけになります。この二か所はいずれも独特の自然環境と、正体の分からない魔物が存在していて……」


 シルヴィ司教の説明を聞きながら、ヴァネッサは、ヤガザンが迷いの荒漠から脱出した方法を話すべきか考えていた。


 だが、彼の強さも天賦も再現できるものではない。


 同じ方法はほかの者には適しておらず、話したところで、かえってあの間抜けな野蛮人に余計な面倒をかけるだけかもしれない。何度も考えた末、ヴァネッサは真相を胸の内にしまっておくことにした。


「……以上が、ここ数年の調査で根蔵教会が得てきた知見です。残念ながら、大変革の要因については、まだ分かっていないことが数多くあります。ヴァネッサさん、ほかに何か質問や、知っておきたい情報はありますか?」


「ないわ。ありがとう、シルヴィ司教。次はまず暗影の魔洞を調べに行くつもり。あそこなら、堕天使族も動きやすいから」


 混沌時代以降、悪魔種族は迷宮城を離れると、周囲の環境によって、さまざまな悪影響を受けるようになった。


 堕天使族の場合、光神の光の下では長時間行動することができず、そのまま光を浴び続ければ、徐々に衰弱し、やがて死に至る。


 かつて悪魔種族と戦ったことのある聖職者として、シルヴィ司教も相手種族の弱点はよく理解していた。暗影の魔洞がヴァネッサにとって比較的行動しやすい場所なのは確かだったため、反対することなくうなずき、さらに尋ねた。


「暗影の魔洞へ向かうにあたって、何か支援は必要ですか? 現在、バロア大城の根蔵教会には、苦行士が四名、神官が五十六名、騎士がおよそ三百名います。牧師は教会の運営を維持するため離れられませんが、それ以外の者であれば、あなたの支援に回すことができます」


 かなり大きな戦力だった。少なくとも南方未踏地帯で身を守るには十分だろう。だが少し考えたあと、ヴァネッサは先に一つ確認した。


「その人たち……魔王の庭と神々の国の本当の関係を、全員知っているの?」


 シルヴィ司教は残念そうな表情を浮かべ、首を横に振った。


「知っているのは、ごく一部の信徒だけです。何しろ、簡単に受け入れてもらえるような話ではありませんから」


「それなら、好意には感謝するけど、人員の支援はいらないわ。調査には未知の危険があるもの。何か事故が起きて、それが原因で私たちの協力関係に問題が生じれば、双方にとってよくないでしょう」


 なぜなら、その時に「事故」が起きれば、彼女自身がこの「仲間」たちに手を下さなければならなくなるかもしれないからだ。


 シルヴィ司教も、堕天使の懸念は理解していた。


 それでも、建前として伝えておくべきことは伝えなければならない。十分に率直でなかったために誤解が生じれば、それは知性種族と悪魔種族の脆い協力関係に、取り返しのつかない傷を残しかねない。


 神々の国も魔王の庭も、この新たな関係をまだ手探りで築いている最中なのだ。


 慎重になりすぎることはない。


「分かりました。ですが、大変革の調査をすべてヴァネッサさん一人に任せるというのも、こちらとしては心苦しいものがあります。根蔵教会から必要な資源を提供します。お金、装備、宿泊場所、情報、それに人手も含めて、必要なものがあれば遠慮なくおっしゃってください」


 そう言いながら、シルヴィ司教は立ち上がり、法衣の中から一枚の木製の徽章を取り出した。大地の生命の気配を宿した徽章には、自然の万物をかたどった彫刻が施され、かすかに神術の力が漂っている。


 濃厚な生命の気配を漂わせるそれを手に、シルヴィ司教はヴァネッサの前まで歩み寄り、差し出した。


 ヴァネッサも立ち上がると、腰をかがめてそれを受け取った。


 何なのか分からず、問いかけた。


「これは?」


「私が自分で作った神術の徽章です。特別な効果があるわけではありませんが、根蔵教会の身分証明としては十分使えます。四正教の聖職者に助けを求める時は、これを見せてください」


「分かったわ」


 使うことがあるとは思わなかったが、ヴァネッサは礼儀として受け取った。そこでふと思い出したように尋ねる。


「そうだ。バロア大城の教会にも、母樹は移植されているの?」


「はい。人の魔王閣下のご提案に感謝しなければなりませんね。バロア大城がある程度安定した後、エルフ族は半年前、ようやく秘密裏に母樹から分けた枝の移植を終えました。ヴァネッサさんは、蒼穹の島と交信するおつもりですか?」


 シルヴィ司教はすぐに彼女の意図を察した。


「ええ。蒼穹の島とは一年近く連絡が途絶えている。できるだけ早く、オスヴィド様とサマンサ様に、私の消息を伝えないと」


「この土地は環境が特殊ですから、母樹を目覚めさせるのは容易ではありません。準備が整い次第、こちらからヴァネッサさんにお知らせします。それまでは、根蔵教会が用意した部屋でゆっくり休んでください」


「ええ。それじゃ、お願いするわ、シルヴィ司教」


 話もほぼ終わった。


 ヴァネッサが再び厚い外套を引き上げ、全身を覆うのを待ってから、シルヴィ司教は片足で床を踏んだ。


 すると周囲を覆っていた土壁がたちまち黄色い光のエネルギーへと変わり、霧散した。大量の灼熱の光が、再び執務室へ差し込んだ。


 ヴァネッサも振り返って扉へ向かった。だが、扉を開けて出ていこうとしたその時、背後からシルヴィ司教の問いかけが聞こえた。


「ヴァネッサさん。お連れの方のお部屋もご用意しましょうか?」


「連れ?」


 ヴァネッサは意味が分からず聞き返した。


 シルヴィ司教はうなずいた。硬く逆立った髪の奥から覗く両目は、非常に真剣だった。低い声で告げた。


「あの、大地の母と共鳴している野蛮人です。彼と神霊との結びつきは、驚くほど強いのです。まだかなり離れているのに、大地の母が怒りを募らせているのを、はっきりと感じ取れます。もしかすると……彼の身に、何か起きたのかもしれません」


 燃えるように赤い、形の整った眉をきつく寄せ、ヴァネッサは険しい表情でうつむいた。


 しばらく、何も言わなかった。


「私には関係ないわ。何よりも調査任務を優先する。あいつは旅の途中で出会っただけの、ただの旅人よ。母樹を目覚めさせたら、私に知らせて、シルヴィ司教」


 そう言うと、相手の返事を待つこともなく扉を開き、見習いの修行者に案内されてその場を去った。

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