あなろぐAI 〜愛は愛(AI)を超えられるか!?〜

澄風 灯音 〜色と言葉で、世界を彩る。〜

第1話 妻に、好きな人ができたらしい

 結婚して二十八年。


 私は今、人生最大の危機に直面している。


 浮気をしたわけではない。


 借金を抱えたわけでもない。


 会社をクビになったわけでもない。


 むしろ、私の人生は驚くほど平凡だった。


 地方の大学を卒業し、中規模の会社に就職。大きな出世こそなかったが、これまで真面目に勤めてきた。


 職場での評価は、もっぱら「いい人」。


 困っている同僚がいれば仕事を手伝い、急な残業を頼まれれば断らず、飲み会の幹事も引き受ける。


 その結果、どうなったか。


 出世した同僚から、今でも飲み会の幹事を頼まれている。


 まあ、そんな人生だ。


 家庭では、一人の妻と一人の娘に恵まれた。


 娘はこの春、大学進学を機に家を出た。


 そして私は、妻との第二の人生を楽しみにしていた。


 週末には旅行に行こう。


 たまには洒落たレストランで食事をしよう。


 これからは、夫婦二人の時間を大切にしよう。


 そう考えていた。


 ところが、である。


 最近、妻の様子がおかしい。


 いや、正確には何もおかしくない。


 朝はいつも通り、


「おはよう。コーヒー飲む?」


 と声をかけてくれる。


 仕事から帰れば、


「おかえり。今日は早かったね」


 と笑ってくれる。


 夕食も一緒に食べる。


 テレビも一緒に見る。


 会話もある。


 それなのに。


 何かが違う。


 以前の妻は、何かにつけて私を頼ってくれた。


「ねえ、これどうしたらいいと思う?」


「ちょっと調べてくれない?」


「あなたなら、どうする?」


 そんな言葉を聞くたび、私は少し誇らしい気持ちになったものだ。


 ところが最近、それがない。


 電球が切れても、自分で交換する。


 旅行先も、自分で調べる。


 スマートフォンの操作で困っても、私を呼ばない。


 先日は、家具の組み立てまで一人で済ませていた。


「呼んでくれれば手伝ったのに」


 そう言うと、妻はにっこり笑った。


「ありがとう。でも、できたから大丈夫よ」


 大丈夫。


 便利な言葉だ。


 しかし、夫という生き物にとって、時として残酷な言葉でもある。


 私は必要とされなくなってしまったのだろうか。


 そう考えると、夜も眠れない。


 いや、眠れるには眠れる。


 ただ、寝つくまでに三十分ほど余計にかかるようになった。


 私にとっては大問題である。


     *


 妻の気持ちを取り戻そうと、私はさまざまな努力を始めた。


 まずは家事だ。


 ある日曜日、妻より早く起きて洗濯を済ませた。


 完璧だった。


 少なくとも、干すまでは。


「あら、洗濯してくれたの?」


「ああ。たまにはな」


「ありがとう。でも、このセーターは洗濯機に入れないでほしかったな」


 私は物干し竿にかかった、小さくなったセーターを見つめた。


 妻のものだった。


 いや、妻のものだったはずだ。


 現在の寸法では、小学生でも着られるかどうか怪しい。


「……すまん」


「いいのよ。気持ちは嬉しいから」


 妻はそう言って笑った。


 やはり優しい。


 だからこそ、胸が痛んだ。


 次は料理に挑戦した。


 ネットで調べた「初心者でも失敗しない絶品オムライス」。


 そのレシピを忠実に再現した。


 ただし、卵を包む工程だけは少し難しかった。


 完成した料理を見て、妻が言った。


「チャーハン?」


「オムライスだ」


「あ、そうなのね」


 妻は最後まで美味しそうに食べてくれた。


 だが、私はわかっている。


 あれはオムライスではなかった。


 ケチャップ味の炒り卵ご飯だった。


 それから、サプライズで花束を買って帰ったこともある。


「まあ、どうしたの?」


「いや、たまにはと思って」


「嬉しい。ありがとう」


 妻は本当に喜んでくれた。


 その夜、私は久しぶりに手応えを感じた。


 しかし翌朝、妻はいつも通りにコーヒーを淹れ、いつも通りに新聞を読み、いつも通りに出かけていった。


 私はテーブルの花束を見つめた。


 花は元気だった。


 夫の自信だけが、しおれていた。


     *


 運命が動いたのは、翌週の金曜日だった。


 昼休み。


 会社の休憩室で、若い同僚たちが話していた。


「最近、AIに相談するのが流行ってるらしいですよ」


「俺も使ってる。何でも答えてくれるし」


「恋愛相談とかもできるんでしょ?」


「そうそう。しかも、めっちゃ優しいらしい」


 私は弁当の卵焼きを箸でつまんだまま、耳を澄ませた。


 何でも答えてくれる。


 恋愛相談もできる。


 しかも優しい。


 ……そんな都合のいい相手がいるのか。


「AIって、男にもなれるの?」


 思わず尋ねると、若い同僚が振り向いた。


「え? まあ、キャラ設定とか話し方を変えれば、そういう感じにもできますよ」


「イケメンにも?」


「画像とかアバターなら、できますね」


「……そうか」


「どうしたんですか?」


「いや、別に」


 私は静かに卵焼きを口へ運んだ。


 味がしなかった。


 妻は最近、スマートフォンをよく見ている。


 何かを調べているようで、ときどき微笑んでいる。


 私に相談しなくなった。


 私を頼らなくなった。


 そして今、世の中ではAIというものが、何でも答えてくれるらしい。


 まさか。


 いや、そんなはずは。


 その日の午後、私は仕事で三回ほど計算を間違えた。


 課長に注意され、同僚に心配され、コピー機にまで用紙詰まりを起こされた。


 すべてAIのせいである。


 いや、コピー機は関係ないかもしれない。


     *


 決定的な出来事は、その週末に起きた。


 娘が久しぶりに帰省したのである。


「ただいまー!」


「おお、帰ってきたか!」


 私は嬉しくなって、玄関まで出迎えた。


 娘は笑いながら靴を脱いだ。


「お父さん、相変わらずだね」


「そうか?」


「うん。安心する」


 久しぶりに聞く、家族からの肯定的な評価だった。


 夕食後、私はリビングで新聞を読んでいた。


 台所では、妻と娘が楽しそうに話している。


「お母さん、最近もAI使ってる?」


「使ってるわよ。あれ、便利ねえ」


 私は新聞をめくる手を止めた。


「でしょ? 何でも聞けるし」


「そうなのよ。私の話もちゃんと聞いてくれるの」


 ……私の話も?


「しかも、優しいんだよね」


「ほんと。何を聞いても嫌な顔しないし」


 私は新聞を少し持ち上げた。


 顔を隠すためである。


 耳は隠さなかった。


「お母さん、すっかり仲良しじゃん」


「ふふ。そうかもね」


 仲良し。


 妻が、私以外の誰かと。


 いや、正確には何かと。


 私は新聞を見つめた。


 記事の見出しには「デジタル化の進展」と書かれていた。


 なんということだ。


 我が家でも進展していたのか。


「お父さんにも教えてあげたら?」


 娘が言った。


「そうねえ。でも、お父さん、ああいうの苦手じゃない?」


 私は新聞の陰で固まった。


 苦手。


 確かに私は、最新の機械が得意ではない。


 スマートフォンの機種変更には一日かかる。


 テレビのリモコンも、ボタンが増えるたびに戸惑う。


 しかし。


 妻に愛情を注ぐことなら、二十八年の実績がある。


 そこだけは負けたくない。


「あなた、コーヒーのおかわりいる?」


 不意に妻から声をかけられた。


「い、いや、大丈夫だ!」


「そう?」


 妻は不思議そうな顔をした。


 私は新聞を広げ直した。


 上下が逆だった。


     *


 翌日。


 私は行きつけのカフェへ向かった。


 駅から少し歩いた場所にある、小さな店だ。


 木製の扉を開けると、コーヒーの香りがした。


「いらっしゃい」


 カウンターの向こうから、マスターが穏やかに声をかけてくれる。


 私はいつもの席に腰を下ろした。


「ブレンドでいいですか?」


「……はい」


「今日は元気がありませんね」


 さすが、長年店を営んでいる人は違う。


 客の顔色を見るだけで、何かを察する。


「実は……」


 言いかけたところで、隣から声がした。


「その顔は、恋愛相談ですね」


 見ると、白い服を着た青年が座っていた。


 整った顔立ちに、どこか不思議な雰囲気を漂わせている。


 店の常連、シロだ。


 年齢はよくわからない。


 職業もよくわからない。


 ただ、妙に物知りで、言うことがときどき鋭い。


「な、なぜわかった?」


「勘です」


「すごいな……」


「愛斗さん、信じるのが早すぎます」


 マスターが苦笑した。


 私は周囲を見回してから、声を落とした。


「実は……妻に、好きな人ができたかもしれないんです」


 マスターがコーヒーカップを置いた。


 シロもこちらを向いた。


「それは……大変ですね」


「相手は、誰なんです?」


 私は唇を噛んだ。


 そして、小さな声で告げた。


「……AIです」


 沈黙。


 コーヒーミルの音だけが響いた。


 やがてシロが口を開いた。


「……AI?」


「そうです」


「人工知能の?」


「そうです」


「それは、なかなか斬新な三角関係ですね」


 マスターが少しだけ肩を震わせた。


 私は真剣だった。


「妻は最近、私に何も相談しなくなりました。AIには何でも話しているようなんです」


「なるほど」


「しかも、優しくて、何でも答えてくれて、イケメンにもなれるらしい」


 シロはしばらく考え込んだ。


「そのAIがイケメンかどうかは、まだわからないのでは?」


「可能性はあります」


「まあ、可能性ならありますけど」


「私は五十四歳です」


「はい」


「腹も出てきました」


「はい」


「髪も少し薄くなりました」


「……はい」


「それなのに相手は、年も取らず、疲れもせず、何でも知っている」


 私は拳を握った。


「勝てる気がしないんです」


 シロは何かを言おうとして、やめた。


 マスターが静かにコーヒーを差し出した。


「愛斗さん。ひとつ聞いてもいいですか?」


「何でしょう?」


「奥さんは、AIに恋をしているとおっしゃったんですか?」


「……いいえ」


「では、奥さんから愛斗さんへの気持ちがなくなったと言われたんですか?」


「……いいえ」


「それなら、まず奥さんと話してみるのが一番では?」


 正論だった。


 非常に正しい。


 しかし、私はうつむいた。


「……怖いんです」


 二人が黙った。


「もし、本当に私よりAIの方がいいと言われたら……」


 そこまで言って、私は言葉に詰まった。


 二十八年間、隣にいることが当たり前だった。


 朝、一緒にコーヒーを飲むことも。


 休日にスーパーへ買い物に行くことも。


 夕食の献立を相談することも。


 そんな何でもない日々が、いつの間にか私の人生の中心になっていた。


 その中心から、自分だけが少しずつ押し出されている気がする。


 私は、それが怖かった。


 マスターは何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。


 シロも静かに私を見ていた。


 しばらくして、シロが口を開いた。


「愛斗さんは、奥さんのことが大好きなんですね」


「……はい」


「だったら、その気持ちは大事にした方がいいと思います」


 私は顔を上げた。


「ただ、AIと競争する必要はないと思いますけど」


「しかし、敵を知らなければ勝負になりません」


「……敵なんですか?」


「私にとっては」


 シロが少し困ったような顔をした。


 そして言った。


「それなら、まずAIについて知るところから始めましょうか」


 その一言で、私の中に光が差した。


「教えてくれるんですか!?」


「ええ。基本的な仕組みくらいなら」


「お願いします!」


「ただし、奥さんの気持ちは奥さんに聞かないとわかりませんよ」


「わかっています!」


 本当は、あまりわかっていなかった。


 だが、私は久しぶりに希望を感じていた。


「まず、AIというのは、質問を入力すると文章で答えてくれるものが多いんです」


「なるほど」


「人間と違って、ものすごい速度で文章を生成できます」


「……速度?」


「はい」


 私はその言葉を心の中で繰り返した。


 速度。


 つまり、速さだ。


 仕事でもそうだ。


 遅い人間より、速い人間の方が頼りにされる。


 妻に何か聞かれたとき、私が調べている間にAIは答えてしまう。


 だから妻は、私を頼らなくなったのではないか。


 私はついに、問題の核心へたどり着いた気がした。


「シロさん」


「はい?」


「ひとつ、聞いてもいいですか?」


「どうぞ」


「AIに勝つには、一分間に何文字打てればいいんでしょう?」


 シロが止まった。


 マスターも止まった。


 時計の秒針だけが、規則正しく動いていた。


「……え?」


「ですから、タイピングです。私は今、あまり速くないんです」


「あの、愛斗さん。そういう話では……」


「一日何時間くらい練習すれば追いつけますか?」


「追いつくというか……」


「やはり、ブラインドタッチでしょうか?」


 マスターが口元を押さえた。


 シロは天井を見上げた。


 私は手帳を取り出した。


 そこには、仕事の予定や買い物のメモが几帳面に並んでいる。


 新しいページを開き、大きく書いた。


 『AI対策計画』


 そして、その下に目標を記入した。


 第一目標:タイピング速度の向上。


 シロが私の手元をのぞき込んだ。


「……愛斗さん」


「はい!」


「念のため確認しますけど、AIになるつもりじゃないですよね?」


 私はペンを止めた。


 AIになる。


 その発想はなかった。


 いや、待てよ。


 AIに勝てないのなら。


 AIと同じ能力を身につければいいのではないか。


 私はゆっくり顔を上げた。


「……それです」


「え?」


「シロさん、それですよ!」


「何がですか?」


「私がAIになればいいんです!」


 シロは目を見開いた。


 マスターはとうとう吹き出した。


「ぶっ……!」


「マスター、大丈夫ですか?」


「ええ、ええ。ちょっとコーヒーが……」


 私は二人の反応を気にせず、手帳に新しい文字を書き込んだ。


 『目標:妻専用AIになる』


 なんと素晴らしい計画だろう。


 これなら、妻にもう一度頼ってもらえる。


 相談してもらえる。


 必要としてもらえる。


「シロさん。これからもご指導、お願いします!」


 私は深々と頭を下げた。


「いや、僕はそこまで……」


「よろしくお願いします!」


 シロはマスターを見た。


 マスターは笑顔でうなずいた。


「いいじゃないですか。応援してあげましょう」


「マスター……面白がってません?」


「まさか」


 その顔は、明らかに面白がっていた。


     *


 その夜。


 妻が風呂に入っている間に、私はパソコンを立ち上げた。


 検索窓に文字を入力する。


『タイピング 速くなる方法 50代』


 画面には、さまざまな情報が表示された。


 私は一つひとつ、真剣に読み進めた。


 ホームポジション。


 正しい指使い。


 反復練習。


 なるほど。


 AIへの道は、なかなか奥が深い。


 試しにキーボードに指を置いた。


 FとJの位置を確認する。


 背筋を伸ばす。


 肩の力を抜く。


 そして、ゆっくりと文字を打ち始めた。


 あいうえお。


 かきくけこ。


 さしすせそ。


 途中で何度か間違えた。


 だが、諦めなかった。


 妻のためだ。


 二十八年の結婚生活がかかっている。


 私は、これほど真剣にキーボードと向き合ったことがなかった。


 それから一時間。


 指先が少し痛くなってきた。


 しかし、まだまだだ。


 AIは疲れないらしい。


 ならば、私も疲れている場合ではない。


 さらに三十分ほど練習したところで、背後から声がした。


「あなた、何してるの?」


 妻だった。


 私は慌てて画面を切り替えようとしたが、指がもつれた。


 なぜか「ああああああああ」と入力されてしまった。


「……大丈夫?」


「だ、大丈夫だ!」


「ずいぶん熱心ね。何か仕事?」


「いや……その……」


 私は迷った。


 まだ、計画を明かすわけにはいかない。


 しかし、嘘をつくのも嫌だった。


 だから、正直に答えた。


「……君のために、処理速度を上げているんだ」


 妻は黙った。


 私も黙った。


 パソコンの画面には、相変わらず「ああああああああ」と表示されている。


「…………そう」


 妻はしばらく私を見つめ、それから優しく笑った。


「無理しないでね」


 そして、寝室へ戻っていった。


 私は、その背中を見送った。


 優しい。


 本当に優しい妻だ。


 しかし、反応は薄かった。


 私は小さく息を吐いた。


「……まだ、足りないのか」


 再びキーボードに手を置く。


 時計は午後十一時を回っていた。


 画面に向かい、私は決意を新たにした。


 明日はもっと速く打とう。


 その次は、検索能力を鍛えよう。


 そして、いつか必ず。


 妻から、もう一度こう言ってもらうのだ。


『あなたに聞けば、何でもわかるわね』


 それが、今の私の夢だった。


 なお、この時点で私は、ひとつ重大なことを知らなかった。


 AIには、そもそもタイピングの練習が必要ないということを。


 そして、もうひとつ。


 妻が本当に求めているものは、検索しても出てこないということを。


 こうして私の、あまりにもアナログなAI修業が始まった。


 ちなみに翌朝、指が痛くて牛乳パックを開けられず、妻に頼むことになった。


「もう、何やってるのよ」


 妻は笑いながら、パックを開けてくれた。


 私は、その笑顔を見て思った。


 やはり、努力は無駄ではなかった。


 ……たぶん。



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