第2話 十二項目

 プリンは、大地が食べた。

 缶コーヒーは、まだ鞄の中にある。開けられなかった。開けたら何かを一つ認めることになる気がして、そのまま家まで持って帰って、そのまま持ってきた。


 朝、並木の坂を上りながら、鞄の重さを一本ぶんだけ数えた。缶一本は、教科書一冊より軽い。そういうことを考えているうちに校門に着いた。


 火曜の朝、取説は学年に回り終わっていた。

 廊下を歩くと、知らない女子が俺を見て隣の子の袖を引く。A組の前を通ったときは、中から「あれが真壁」と聞こえた。名前の後ろに何がつくのかは、聞かないことにした。

 階段の踊り場では、三年の男子が二人で話していた。安達って子が元カレの取説ばらまいたらしい、と。一人が笑って、もう一人が、えぐいな、と言った。

 どっちの意味の、えぐいなのかは分からなかった。


 教室に入ると、大地が腕を組んで待っていた。


「真壁。昨日、読まないと言ったな」

「言った」

「じゃあ今朝の委員長を見ろ」


 教卓の前の席で、桐生がノートに付箋を貼っていた。黄色い付箋が、上から順に十二枚。一枚貼るたびに、定規で端を揃えている。

 何の付箋かは、聞かなくても分かった。


「あれを知らないまま実施されるのと、知ってて実施されるの。どっちがいい」

「……知ってるほう」

「だろ。読むぞ」


 大地は自分のスマホを机に立てて、朝の連絡を読むときと同じ声で読み始めた。


『一 落ち込んだら甘いものを与える』

『二 泣きたいときは一人にしてあげて』

『三 好きなタイプは年上のお姉さん』


 違う。

 違うし、違う。三つ目でもう、誰の話をしているのか分からなくなった。

 (甘いの苦手だって、一年……言えなかったな)

 後ろで、ページをめくる音が止まった。


『四 褒めると伸びる。とにかく褒めて』

『五 怖い映画が苦手』

『六 好きな曲は「ブルーアワー・ドライブ」』


 四で背中がかゆくなった。五で首をかしげた。六で、喉の奥が鳴った。

 あの曲は――。

 言いかけたものを、俺は飲み込んだ。大地がどうしたという顔をしたので、首を振った。


『七 料理は和食派』

『八 寒がり』

『九 喧嘩したら先に謝らせて』


 どれも違った。違うのに、どれも、ひかりの前で一度は頷いた覚えがあった。


『十 猫派』

『十一 秘密は話したがらない。無理に聞かないで』

『十二 誕生日は十一月三日』


 大地はそこでスマホを伏せた。


「以上、全十二項目。……感想は」

「よく書けてる」

「嘘つけ。顔に全部違うって書いてあるぞ」

「書いてない」

「お前の取説には書いとけよ。嘘をつくとき耳が赤い、って」


 俺は耳を触った。触ってから、触ったら負けだと気づいた。


 一時間目が終わると、桐生がノートを持って俺の机まで来た。


「真壁くん、事前確認です。現在、落ち込んでいますか」

「……普通」

「普通。記載にない回答ですね」


 桐生は付箋の一枚目の余白に、小さく何か書き込んだ。覗くと、普通(要確認)とあった。

 確認されるらしかった。


 ◇


 昼休み、教室の前の戸が勢いよく開いた。


「真壁いるー?」


 隣のA組の、ネイルの派手な女子だった。昨日、戸口から覗いて引っ込んだ子だ。

 大地が小声で、水野ななみ、ひかりの友達、と教えてくれた。教えてくれる前に、もう水野は俺の机の前にいた。手に提げたコンビニの袋を、どんと置く。


「あたし、ひかりの友達だからさ。あの取説、うちのグループにも回ってきたわけ。今回のは、あの子の尻拭い」

「尻拭い」

「そ。で、昨日ずっと考えたんだけど。ひかりって、人のことわかったつもりで、全部ちょっとずつ逆なとこあるじゃん。だから取説の逆が正解っしょ。あたしはあれ、攻略本として使うことにした」


 袋の中身は見えなかった。ただ、透けて見える色が赤かった。

 (赤いな、あれ)


「赤いよ? 激辛だもん。明日のお楽しみね」


 水野が笑った。そこへ、教卓の前から桐生が立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らして、教室が少し静かになる。


「水野さん。A組の方がB組の問題に介入するのは、筋が違います」

「えー、委員長かたい。友達の元カレだよ? あたしの管轄でもあるじゃん」


 桐生は水野の言い分を最後まで聞いてから、首を横に振った。


「それに、記載がある以上、記載どおりに実施するのが筋です。項目一は甘いものです」

「逆!」

「記載どおりです」

「逆だって!」


 教室が沸いた。誰かが手を叩いて、誰かが「委員長派」と言い、誰かが「攻略本派」と言った。俺の派閥は無いらしかった。

 後ろで、芹沢の肩が揺れていた。水野が逆と言うたびに一回ずつ、小さく。顔は教科書に向いたままで、声も出ていなかった。

 大地が、後ろ、と目だけで言った。俺が振り向いたときには、芹沢の肩はもう止まっていた。ページだけが、一枚めくられていた。


 大地が弁当の蓋を閉めて、しみじみと言った。


「つまりあれだな。十二項目ぶん、慰められるってことだな」

「嫌な数え方するな」

「十二回で終わるってことでもあるぞ。取説が尽きたら、慰める理由も尽きる」


 大地はそれだけ言って、空の弁当箱を鞄にしまった。

 桐生と水野はまだ睨み合っていた。睨み合いながら、二人とも同じ場所を見ていた。俺の机の、昨日プリンが置かれていたあたりだった。


 ◇


 午後の休み時間、ひかりの周りにはいつもどおり人がいた。

 一人が、言いにくそうに聞いた。


「ひかり、あれ流してよかったの? 真壁くん、けっこう見られてるよ」

「えー、だって悪いこと書いてないもん。だって、わかってるから」


 ひかりは明るく笑った。笑い方は、一年前と何も変わっていなかった。

 窓際で、水野がその横顔を見ていた。いつもの笑い顔じゃなかった。俺に気づくと、すぐにいつもの顔に戻った。


 (……わかってる、か)

 後ろの席で、シャーペンの芯が折れる音がした。

 芹沢は、何事もなかったように芯を出し直していた。


 ◇


 放課後、桐生が教卓の前に立って、俺の机のほうへ向き直った。


「真壁くん。明日の放課後、項目一を実施します。教室内での飲食は校則で禁止されていますので、場所は駅前ロータリー、サンマート前のベンチとします」

「なんで駅前」

「あなたの通学路です。南口方面の生徒は、全員あのロータリーを通ります」


 戸口で、帰りかけの水野が手を挙げた。


「じゃあ、あたしも行く。逆のやつ持って」

「水野さん。B組の問題です」

「真壁の問題でしょ。真壁、明日逃げんなよ」

「逃げない。帰り道なんだから」


 桐生は一瞬だけ眉を寄せて、それから、ノートの付箋の一枚目に何か書き足した。たぶん、水野の名前だった。

 こうして、駅前のベンチが「現場」になった。俺の意見は一度も聞かれなかった。


 廊下の窓から、A組の前に野々村が立っているのが見えた。ひかりを待っているらしい。通りがかった軽音部の誰かに、あれが元カレ、と顎でこっちを示されて、野々村は俺を一度だけ見た。

 取説の人、と誰かが付け足した。野々村は笑わなかった。少しだけ、面白くなさそうな顔をした。


 大地は「俺は実況席で見てる」と言って帰った。

 教室には、俺と芹沢だけが残った。

 芹沢はまだ、黙って帰り支度をしていた。教科書を一冊ずつ、角を揃えて鞄にしまっていく。急いでいる様子はなかった。

 声をかける理由が見つからなくて、俺は先に教室を出た。


 ◇


 昇降口は、もう人がまばらだった。

 下駄箱の前で、俺は鞄から缶コーヒーを出した。昨日、プリンの横に立っていたやつだ。一日中鞄の中にあったせいで、すっかりぬるくなっていた。

 プルタブを引いた。


 ひと口で、肩の力が抜けた。

 苦かった。ちゃんと苦かった。俺はそのまま、最後まで飲んだ。

 (……これ、なんで知ってた)


 空き缶を下駄箱の上に置いたとき、背中のほうで、上履きが床を擦る音がした。


「明日、です」


 振り向くと、芹沢の背中が昇降口の外の明るさの中へ出ていくところだった。

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