第7話「決戦、ど根性寒中水泳」
第7話「決戦、ど根性寒中水泳」
一月。私立聖樹学園の中央を分断するように流れる精霊の川は、一年で最も過酷な表情を見せていた。
鉄機山脈の万年雪と、霊峰の奥深くで結晶化した絶対零度のマナを源流とするその川は『霊晶水脈』と呼ばれ、川沿いの岩肌には鋭い氷柱(つらら)が牙のように垂れ下がり、淀みには分厚い氷の膜が張っていた。
「ハ……ッ、ハックション!! ……死ぬ……ッ! 今日はマジで死ぬぞコレ!!」
粉雪が舞い散る川岸。雑賀アルヴェインは、長ラン風ローブの下は純白の一晒し(ふんどし)一丁という狂気の出立ちのまま、透き通るような白い肌を紫色に変色させ、ガタガタと大樹の枯れ葉のように激しく震えていた。
その足元では、霊獣アース・パグのトシロウが、持ち前の深いシワを限界まで寄せ、「キュ~ン……」と主人の素足にすり寄りながら、白い息を吐き出している。
「頭(ヘッド)! だから言ったじゃないですか、一月の霊晶水脈で寒中水泳なんて、正気の沙汰じゃありません!」
「そうです先輩! 風邪どころの騒ぎじゃありません、エルフの身体では完全に心臓が止まってしまいます!」
舎弟のシマダとサキが顔面を蒼白にさせ、分厚い毛布をかぶせようと必死に追いすがる。だが、アルヴェインはガクガクと顎を鳴らしながらも、硬直した手でそれを制した。
「バ……馬鹿野郎……ッ! 男が……真正面から挑まれた勝負を……『寒いから』なんて理由で逃げたら……この白フンが泣くぜ……!」
アルヴェインの視線の先には、鉛色の寒空の下で豪快に笑い声を上げる、小柄だが岩石のように丸々としたオークの少年――オークの小太郎が立っていた。
小太郎は分厚い獣皮の短パン一丁。全身を覆う、重厚にして極厚の『あつい脂肪』という名の天然のウェットスーツを、誇らしげにバンバンと叩いてみせた。
「ギャハハ! 震えてるぞエルフ! お前ら風の民には分からねぇだろうがな、この霊晶水脈を泳ぎ切ることは、オイラたちオークにとって大自然に己の『肉の鎧』を証明する神聖な『冬の禊(みそぎ)』なんだよ! 圧倒的な脂肪こそが、大地の恵み! 寒中遠泳でこのオイラに勝てたら、あんたを真の番長と認めてやるぜ!」
「ふ……ふん、言ってろ……。男の勝負だ、受けて立つ……ッ!」
アルヴェインは長ランを雪の上にバサリと脱ぎ捨て、白フン一丁の姿となって氷の張る水際へと進み出た。
「両者、対岸の『大岩』まで寒中遠泳……はじめっ!」
シマダの悲痛な叫びを合図に、二つの肉体が同時に極寒の川へと跳躍した。
ドボンッ!!
「―――ッッッ!?!?!?」
水面に飛び込んだ瞬間、アルヴェインの脳髄を、千本の氷の針で一斉に串刺しにされたかのような、言語を絶する激痛が突き抜けた。
(あ、アカン!! 冷たいんじゃない……痛い!! 呼吸が……息が吸えねぇ!!)
防寒という概念を一切持たない、身長百八十センチ、体脂肪率数パーセントの美形ハイエルフの肉体は、物理的・生理学的に極寒の氷水に対してあまりにも無防備すぎた。毛穴という毛穴が恐怖に粟立ち、全身の筋繊維が瞬時に石のように硬直する。心臓が暴走し、四肢の末端から急速に感覚が麻痺していく。
一方、大地の恩恵たる脂肪の鎧をまとったオークの小太郎は違った。
「ヒャッハー! 霊晶のマナが冷たくて最高に気持ちいいぜ~!」
極厚の皮下脂肪が完璧に冷気を遮断し、同時に圧倒的な浮力を生み出している。小太郎はまるで水を得たアザラシのようにスイスイと推進力を得て、豪快なバタ足で瞬く間にリードを広げていく。
「だめだ……! アルヴェイン頭の腕が、まったく上がっていません!」
「脂肪のないエルフの肉体じゃ、水温ゼロ度のマナの奔流になんて耐えられるはずがないんだ……!」
川岸から、シマダ、サキ、そして魚人のマリオが絶望の悲鳴を上げる。
(くそっ……腕が……重い……! 足が水圧で千切れそうだ……! 意識が……飛ぶ……)
暗く冷たい水中で、アルヴェインの意識が白濁していく。
だが、その途切れかけた意識の底で、かつて霊峰の裏山でゴルバ先生に叩き込まれた、雷鳴のような怒声が響き渡った。
『丹田(下腹部)に気を込めろ! 筋肉に種族など関係ない! 漢なら下半身で語れぇぇぇ!!』
(……そうだ……! オークのような脂肪の鎧がねぇなら……俺には、俺の武器がある……! 根性と……この白フン(一晒し)を通じて大地から吸い上げた熱で、内側から沸騰させりゃいいんだよぉぉぉッ!!)
アルヴェインは死の淵でカッと目を見開き、硬直した肉体に強引に鞭を打った。
純白の締め込みが放つ呪術的な求心力を利用し、丹田へ全身の血の気を一気に集束させる。冷え切った心臓のポンプを意志の力で強制駆動させ、灼熱の血液を四肢へと爆発的に送り込んだ。
バシャァァァッ!!
「な……なにぃ!?」
先行していた小太郎が、背後に生じた異常な水流に驚愕して振り向く。
そこには、顔面を土気色の紫色に染め上げ、歯をガチガチと激しく鳴らしながらも、鬼気迫る執念のストロークで、じりじりと、だが確実に距離を詰めてくるアルヴェインの姿があった。彼の周囲の水から、急激な体温の上昇によって白い蒸気が立ち上っている。
「うおぉぉぉぉ! 燃えろ俺の丹田! 『一晒(ひとざら)し・凍原(とうげん)掻き』――ッ!!」
「バ、バカな! 脂肪ゼロのエルフが、気合いだけで氷水を泳ぎ切る気か!? くっそー! 負けるかよぉぉぉ!!」
対岸の大岩(ゴール)は、もはや目と鼻の先。
死力を尽くし、絶対零度の水流を掻き分けながら、最後のラストスパートをかける二人。
小太郎の肉厚な腕と、アルヴェインの細くしなやかな腕が、ゴールである氷漬けの大岩に向かって、同時に一直線に伸ばされる――。
しかし。
バシャッ……!
ゴールを捉えるほんのコンマ数秒前。あまりの極寒により、アルヴェインの指先から『感覚』そのものが完全に消失した。
彼の手首が力なく曲がり、ストロークが虚しく空を切る。生理的な肉体の限界が、精神力を凌駕した瞬間だった。
そのわずかな隙を突き、小太郎の肉厚な手が「バシッ!」と先に大岩をタッチした。
「そこまで! 勝負あり! 勝者、オークの小太郎!!」
シマダの絶叫が、雪空にこだました。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
マリオとシマダの手によって川から引き上げられ、川岸の雪の上に大の字で転がるアルヴェイン。全身は紫色を通り越して真っ白になり、ガタガタと激しく痙攣して、もはや言葉を発する気力すら残っていない。
「あ、頭ぁぁぁーーっ! 今すぐ温めます!」
「薪を燃やせ! 昨日仕込んでおいた『番長鍋』の残りスープを、あっつあつに熱して持ってこい!」
シマダとサキが毛布を三重にかぶせて身体を擦り、トシロウが「キュ~ン!」と悲鳴のような鳴き声を上げながら、湯たんぽ代わりにアルヴェインの胸元へ飛び込んだ。
やがて、マリオが持ってきた巨大な椀から、たまり醤油と海鮮の濃厚な香りが湯気となって立ち上る。極限まで凍え切ったアルヴェインの口に、熱々のスープが流し込まれた。
「……ッ……ぁ……」
五臓六腑へ直接流れ込む、強烈な『命の熱』。外からの毛布では届かない深い芯の部分から、番長鍋の濃厚な旨味と熱気により、アルヴェインの肉体が急速に生気を取り戻していく。
その様子を、勝者である小太郎が肩で荒い息をしながら静かに見下ろしていた。
「へっ……オイラの勝ちだ。……けどよ。脂肪も何にもねぇその細い体で、この氷水の中をここまで追いかけてくるとは思わなかったぜ。……バカだけど、半端ねぇ漢(おとこ)だあんた」
毛布に包まれ、トシロウを抱きしめながら、アルヴェインは少しだけ赤みの戻った顔を向けた。ガタガタと震える唇を必死に動かし、ニッと不敵な笑みを浮かべる。
「ふ……ふふ……いい……ストロークだったぜ、小太郎……ッ(ガクガクガクガク)」
「あ、頭! 無理して喋らなくていいですから!! 早くスープの残りを飲んでください!!」
勝負には敗れた。しかし、極寒の霊晶水脈を己の白フンと気合いだけで泳ぎ切った「エルフンドシ番長」の壮絶な生き様に、オークの小太郎もまた、確かな畏敬の念を抱くのであった――。
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