プレッパーズ・ハイ

友一

プレッパーズ・ハイ

 一走目から違和感はあった。


 靴の反発に乗れないというか、なんとなく蹴り出しが遅かった。


 密かに居ついた爆弾は、二走目のゴールを切った直後、気が抜けた隙に爆発した。


 右足下部から炸裂音と激痛。


 よく分からないけど、とにかくスプレーかけて固定。できる限り急いで。


 先生のところへ無理やり向かう。処置さえ受ければなんとかできる。


「アキレス腱が切れた。これはもう無理」


 先程の炸裂音の話をすると、先生は苦い顔をした。


「いけます、大丈夫です」


「足、動かないでしょ」


「三年間最後です、一回だけいいでしょう」


「走れないだろ」


「顔出すくらいはできます」


 先生は悩ましげな顔をした後、正面に回り込んでしゃがみ込み、肩を叩いた。


「今は納得できないと思うけどな、大人として、面倒を見るものとして、一生後悔するような選択はさせられない」


 子供を諭すようにそう言った後、その場から動かないままコーチに電話をかけて。程なく、私が出場を棄権したという放送があった。


 桜が散って幾日も経たぬ四月中旬、安達瑛莉の青春は終了した。


 起き上がる気力も出ず、観客席下の灰色の天井を眺める。


 私が走ると未来の私が後悔するらしい。今動かないで終わるのは後悔しないの?


 未来で幸福になった私が、「いやーやめといてよかったわー」なんて思うの?


 暑くて痛くてムカついてもどかしくて、今にも弾けそうな私を差し置いて?


 これまでずっと、今日の私のために頑張って、今のために全リソースをかけたのに、未来のためにおじゃん。……ツマンネー。


 これから受験して、就職して四十年、ずっと未来の私のために。


 余韻で熱を帯びる身体に反して、患部と頭だけが酷く冷めていく。


 ここ数年のリソースを吐き切ろうとした今よりも未来が大事なら、私は未来に生きているんだろう。いつなら人生を使い切っても許されるんだろう。


 例えば……世界が滅ぶとか? スマホで終末を調べてみる。


 結構よく終末の予言はなされているようで、近いやつだと四か月後。


 八月十七日、世界が滅ぶらしい。


 理屈は分からない。原因も分からない。根拠は個人サイトひとつだけ、しかも動画サイトの広告付き。


 でも、まあ。それならそれで良い気がした。


 私を託すにはあまりにも頼りないけど、なんでもいいから理由が欲しかった。


 終末の直前、どこかですべてを出し尽くした私は、世界の終わりに巻き込まれながら、目を瞑って倒れこむ。安達瑛莉の物語は、そこで終わりにしよう。




 夏休みも後半に差し掛かった八月十五日。


 夏期講習帰りで疲れ切った身体をぐでんとソファに預けながら、テレビのチャンネル変更ボタンを適当にポチポチしていた時、一本の映画が目に留まった。


 おもちゃが動く人気シリーズの……三作目? よその子の所に行くやつ。


 出てくる敵がやけに計算高くて、子供の頃は結構怖かった。というかこのシリーズの敵は大体が怖い。


 第一作目から十一年が過ぎ、持ち主の少年の成長を機に、屋根裏部屋に置いて行かれるはずだったおもちゃたちが、紆余曲折を経て別の女の子に託されるまでのお話。


 懐かしくてボーっと眺めていただけのはずが、名作はそう呼ばれるだけの貫禄があるもので、エンディングまでしっかりと見入ってしまった。


 元気に動き回るおもちゃたちがとても可愛らしく、主人公の持ち主と年齢が近いのもあって、昔遊んでいたおもちゃを振り返りたくなる。確か物置部屋に入れたんだっけ?


 押し入れの下段左奥に押し込まれた、太字のペンで「たからばこ」と書かれた段ボール箱を引っ張り出した。


 年末の大掃除の時、使わないものを一気に整理しようとしたお母さんが作るように言ってきた代物。おもちゃと共に育った私の世界ごと封じ込められて消えていき、私が私でなくなっていくような予感が恐くて大反発。お母さんとの数時間にわたる激闘の末、代わりに提示されたカフェに屈した。


 少しドキドキしながら、埃をかぶった段ボール箱の封を開けた、が。


「ああ、なる、ほど?」


 目に映った宝物たちは存外貧相に見えた。そもそも、この中の半分くらいはまともに覚えてもいなかった。


 残りのほとんども、そういえばこんなのあったな……程度。あまり記憶にない。


 流石にいくつかは覚えていたのだけれど、うっすら黒ずんで綿の抜けた、名前も思い出せないぬいぐるみや、スピーカーが壊れて割れた音を出す目覚まし時計、妙な都市伝説の本。夢の魔法から覚めた私の目には、あまり魅力的とはいえないものばかり。


 封印されていた間に、私の世界は、すっかりと萎びていたようだ。


 今の私になるために、これだけの過去の私が消えていることに少しもの悲しさを覚えながら、ガサゴソと探索していると、周りとはずいぶんと異なる大人びた様子の小さなポーチを発掘した。


 中から出てきたのはデジタルカメラ。昔は母さんが使っていたけど、よく借りて街中を適当に撮っていた。


 そういえば最近このカメラは見ていなかった。昔の私は、これを自分の所有物だと思っていたらしい。


 今となってはスマホの方が性能が高そうだけど、久しぶりに少し触ってみたくなる。横に添えられていたコードを使って軽く充電し、いくつか写真を覗いてみる。


 ほとんどのものは壁やブレきった街中だったが、かなり昔まで戻ると母さんが撮影した私の画像があった。我ながら中々可愛らしく撮られている。これらに関してはなんとなくですら覚えていないものが殆どだったが、その中に一枚、鮮明に記憶に焼き付いた景色があった。


 星空。画質が悪くてほとんど星はないけれど、それでもいくつかは輝きを放っている。


 香川県の小さな島にあるキャンプ場の写真だ。夜にトイレに起きたとき、ランタンを灯してのんびりと夜更かししていた母さんが見せてくれた。


 あの時、今の視界をなんとか持ち帰らなくてはいけないという使命感に襲われ、母の鞄から勝手にカメラを取り出して撮影したものの、当時のスペックでは全く歯が立たなかった。あまりの違いに泣いてしまって、母さんを困らせたっけ。


 懐かしさのほかに、何か巨大な運命と出会ったような気持ちになった。


 期限前日に、やっと穴埋めが終わった。


 私の死に場所、ここに決めた。


 終末に、デジタルカメラを連れて、瞼に移す最後の世界はあの星空。


 あまりに出来すぎてる。最後の地として、それ以外は考えられなかった。


 終末さんが空気を読んで、私が寝ている間にやっちゃってくれたらちょうどいいのだけれど、駄目そうならその場で考えよう。


 そうと決まれば明日は早い。こんなことをしている場合じゃない。


 さようなら、昔の私たち。ごめんなさい。二度と会うことはないでしょう。


 たからばこに封をして、元の場所にしまいこむ。


 朝四時前、アラーム直前に目が覚めた。


 両親に変な心配をかけないように「友達と遊びに行きます」と書置きをしておいた。


 足の調子は上々。無茶はダメそうだけど、普通に使う分には問題ない。仏壇下の収納に入っていた、これまでのお年玉が貯められた通帳も回収済み。デジカメの充電もばっちり。残りはその場で全部買うことにする。


 持ち物確認よし。ハンドバッグ片手に、振り返らずに部屋を出る。


 朝五時、両親の顔を一瞥し、眠っているうちに我が家を飛び出した。


 夏といえども早朝はかなり涼しく、その新鮮さに自分がやらかそうとしていることへの恐怖と興奮も相まって、うっすらと射す朝日に照らされた道を眺めているだけで変にテンションが上がってしまう。


 東海道新幹線に乗り、名古屋駅についたのが八時前。


 喫茶店に立ち寄り、名物の小倉トーストを朝ごはんにする。美味しいけど、とにかく甘い。睡眠不足の脳みそをグワングワンと揺さぶってくるような味だった。コーヒーと合わせるのが前提なのかな。


 食後、銀行で預金を下ろして回り、合計だいたい三十万。哀れにも紙束となった通帳を道端のごみ箱にダンクシュート。したと同時に背徳感……というか危機感が背筋に走る。


 初めて来た場所で、通帳を捨てた。自分の意志で。最悪なんとかなるとはいえ、ここで引き返さないと絶対に後々面倒くさくなるぞという理性が後ろ髪をこれでもかと引っ張っている。


 正直信じ切れていない所があるからだろう。ほぼ百パーセント嘘だし。


 ビビった拍子に俯くと、ある程度動くようになった足が目に入った。


 恐怖は脳内から無理やり消去して、後に引かないためにそこそこ高い服を買った。


 結構なお金を出したことで、心の内にいる臆病な私も覚悟が決まったようで、あまり迷うことは無くなった。良くないけど。


 名古屋を後にする。香川までは一気にいけないらしいので、一旦岡山までの新幹線の座席を購入。折角なのでグリーン席。私は最強だ。


 お金は払ってるので何も悪いことはしていないのだけど、居心地が悪い。周りにいるのは、ブランドスーツに身を包んで眉間に皴を寄せている、「私は偉い人です」を擬人化した感じのおじさん、ふわふわの髪の毛を携え、身体にぴったり合った子ども服を着た、さっきのおじさんにあったら委縮して消滅しそうなくらいの無垢さを醸し出す男の子と、その両親。見るからに高尚というか、住む世界が違いそうな人たち。


 流石にそんなのばかりじゃなくて、背伸びした一般っぽい人もいるにはいるんだけど、その人たちも私と同じでなんとなく縮こまっている、気がする。私は弱い。


 新幹線に乗って三時間が経った。


 時間というものは恐ろしいもので、三十分も経った頃にはグリーン車の雰囲気にも慣れていた。そうなると、別の問題が発生した。やることがない。


 名古屋までは、変なハイテンションとか、理性の枷とのドキドキとかで、心が揺れ動いていたのだけれど、今となってはもう取り返しもつかないので一周回って落ち着いている。折角キャンプ場にいくのなら知識を持っておこうと動画をずっと流していたせいで、携帯電話は電源が切れて充電中、現状の私ができることは、現代文明に対する自分の無力さを感じながら、斜め前の少年が見ているFPSゲームの実況動画を盗み見ることぐらいだった。


 岡山駅からは都会の香りがした。東京とは比べ物にならない地方都市なのだけど、それでも都会の風が吹いていた。


 週末や夏休みの少年少女たちが、慣れない格好に身を包みウキウキしながら集まるような、そんな憧れの町がここなのだろう。中学生くらいのグループや、どうみても私より年下のカップルが、みんな少し誇らしげに歩いていく。


 ここは目的地前の最後の大きな駅なので、ここで必要なものは買いそろえておく必要がありそうだ。そもそも、香川の島と覚えていたからとりあえず高松に向かっているけれど、それであっているかも分からないので、とりあえず詳しそうな場所に確認する必要がある。


 高松港から四十分くらい船に乗ると辿り着く、猫と灯台が売りのおだやかな島。


 私の目指すキャンプ場はそんなところにあるらしい。


 岡山のアウトドアショップの店員さんに、キャンプ用品と島について尋ねると、とても親切に教えてくれた。貸出がない分だけ購入したが、ほとんど荷物にならない量で済んだ。


 白い船体に赤いストライプ、非常にわかりやすい船だった。


 高松港の待合室にはかなりの人数がいたものの、そのほとんどは別の島が目的地のようで、私が乗る船にはその八分の一程度しか乗っていなかった。おかげで、屋上の展望デッキを独占できた。置いてあるベンチに深々と腰掛け、手遅れかもしれない日焼け止めをこれでもかと塗りたくる。日焼けは性質的にはやけどなので、実はかなりの体力を持っていく。部活の合宿で身に染みていた。


 とにかく風が強い。セットもメイクも日焼け止めも全てを無に帰さんとする暴風が私を襲った。水平線と空が交差する風景への感動も、ついに到着する高揚感も確かにあるが、心に浮かんだ直後に暴風に流されていく。


 鳥たちはこの風を上手に拝借して飛んでいる。私は近代文明だけでなく、大自然にも無力だった。


 間もなく到着するという船内放送に導かれ、風に逆らい前に移動すると、目的地はすっかり眼前に迫っていた。


 低い山に沿うように家屋がちらほらと立ち並び、島の西側には自慢の白くて小さな、とても可愛らしい灯台がぽつんと立っている。


 夕方の今からでも、夜まで頑張れば半分くらいは制覇できそうな、小さな島だ。


 部外者は私だけだったらしい。


 優先で降りていく地元の人達に続いて、目的地に到着した。


 島の玄関となる港は、思ったより発展していた。


 軽く周囲を散策したところ、基本的には何もない島だが、港の周りには民泊や食事処もあるようだ。


 一旦荷物を置くか、とキャンプ場への道を確認しようとした時、


「お姉ちゃん、飯食ってき」と呼びかける声がした。


 声がした方を向くと、真っ黒な日焼けに真っ白な髭を蓄えたお爺さんが手招きしていた。


 おなかは空いているし、食べ物もあまり用意していなかったので、ご厚意に甘えることにした。


「これな、サザエ飯」


 お爺さんは冷たい水と団扇、サザエ飯と沢庵を出してくれた。


「いただきます」


 サザエを食べることが殆どなかったので少し心配だったが、杞憂だった。


 かなり硬いが、ずっと噛んでいると周りの炊き込みご飯とよくなじんでいく。自分からは食べないかもしれないけれど、中々おいしかった。


「はあ、こんな若いのに、東京からこんなところに来たんかいの」


 心底不思議そうだ。


「あんまり来ないんですか?」


「いやあ、来るからこそ不思議やの」


 お爺さんによると、今日は私の他にあと一組、家族連れがいるそうだ。


 休み期間はもう少しお客さんがいるけれど、盆休み中ごろには大体帰ったらしい。


 夜は一人といえ、それまで人がいるのは頼もしい。イノシシとか出るらしいし。


「一息ついたので、そろそろおいとまします」


「そうかそうか、またきての。えとな、800円」


 会計を済ませ、お爺さんに頭を下げて店を出る。……サザエ飯、800円なら食べなかったかもしれない。


 キャンプ場は遠かった。歩いて四十分ほどの所にあるのだが、とにかく道が悪い。道中の五割は獣道一歩手前で、残りの五割は石の上だった。うっかり明日になる前に死んでしまいそうな場所もいくつかあった。


 疲労困憊のまま、管理人さんやもう一組のお客さんに手伝ってもらいながらエリアを作る。貸し出しのテントは四人用だったので、かなりゆとりができた。


 一人で居座るにはだだっ広くて落ち着かず、休憩もそこそこに近くの灯台を見に行った帰り、もう一組のお客さん、広崎さん一家と目が合った。


「どうも」


「どうも。広崎さん、お帰りですか?」


「ええ、ほんとはもっと早く帰るはずだったんだけど、娘が夜空をえらく気に入っちゃって、ギリギリになっちゃいました」


 今は六時半。船の定刻が八時なので、確かにかなりギリギリだ。


「私も、娘さんと同じくらいの時、ここの夜空が気に入って、お母さんに迷惑かけちゃいました」


「多分、気にしなくて大丈夫。子どもがそれで喜んでくれるなら、何とかしてあげたいものですから」


「そんなもんですか」


 愛されてるなあ、と思った。娘さんも、私も。


 昔、私が星の写真を撮った後から、カメラはほとんど私の手元にあった。


 結構な買い物だったろうに、適当な使い方をする子どもにずっと預けていたのも、あの時、思った通りに記録できなかった私が悲しんでいたからなのだろう。母さんも、写真撮るの大好きだったはずなのに。


 七時過ぎに広崎さん達は出て行った。


 完全ではないが、星が輝き始めた。広崎さん達もきっと港で見ているだろう。


 私の世界ももうすぐ終わる。


 少し寂しくなって、携帯で夜空の写真を撮って母さんに送ってみた。


「今どこにいるの?」「綺麗でしょ」「もしかして香川?」


 びっくり。分かるんだ。


「しばらくしたら帰っておいで」と続いて届いた。


 既読無視して、スマホを閉じる。


 その時、視界の端、広崎さんのテントがあったあたりに、変なものが見えた。


 ぬいぐるみ。小さいの。


 これ、娘さんのやつじゃない?


 時刻は七時四十分。


 気が付けば、ハンドバッグにぬいぐるみをつっこんで走っていた。


 走りながら、管理人さんに任せたらよかったかなと思い始めた。


 明かりがついていない獣道なんか、よそ者が走るもんじゃない。下手したら死ぬし、明日朝でいいじゃん。そもそも、娘さんとちょっとも話してない。持ってるぬいぐるみなんてなんか黒ずんでるし、綿も抜けてる。あと明日で世界終わるんじゃなかった?


 それでも、足は止まらない。この旅に、ほんの少しでも、嫌な気持ちを持ってほしくないと思ってしまった。忘れてしまった過去の私に、少しでも手を差し出したかった。慣れていない獣道の全力疾走。当然怪我は悪化する。ランニングシューズじゃないし。服が張り付く、足の上りが悪い、腕の振りが遅い、呼吸のリズムが悪い。バランスだってボロボロだ。こんな走りじゃぶっ壊れる。いったん休んでクールダウンするべきだ。


 でも、今日ならぶっ壊れてもいい。そう決めてある。


 走る。走る。走る。身体の悲鳴が聞こえないように、魂が歓声を上げている。これまで備えたもの全てを使い切って、これまでの、これからの全ての私を潰して、その分だけ動き続ける。


 ああ! やっと! 私は今を生きている!


 泣き声が聞こえた。広崎さん達だ。


 船はもう到着している。が、出航はまだしていない。


 娘さんに駆けよってぬいぐるみを差し出す。


「この子、忘れてません?」


 泣き声はぴたりと止んだ。


 広崎さん達はなにやら言っていたようだが、正直何も聞いていなかった。


 ただ、最後に残った私自身を使い切れたことへの喜びに打ち震えながら、生返事を繰り返していた。


 出航していく船を見送り、バタリと仰向けに倒れこむ。もう動けない。


 生暖かい。硬い。あと小石が痛い。


 だが、私がこれまで見てきた喜びを目いっぱい輝かせたような世界が眼前に広がっていた。


 ハンドバッグの奥に突っ込んでいたデジカメを取り出す。


 プルプル震える指で、何とかシャッターを切る。


 映った写真は真っ黒だった。


「やっぱだめか」


 これで、私の物語は終了だ。あとは終末がうまいことやってくれ。


 私は静かに目を閉じた。

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