第9話
夜会での騒動から数日。公爵城には、ひとつの不穏な風が吹き荒れていた。
エリザベート様の専属家庭教師として、本家からの推薦を受けた高名な魔導士——ルシアン・フォン・ベルガー男爵が着任したのだ。
王立魔導アカデミーの元教授であり、数々の高度な魔導書を執筆したとされるルシアンは、白髪を綺麗に切り揃えた五十代半ばの男だった。その瞳には、あからさまな選民思想と、下級貴族出身の俺に対する激しい蔑視が宿っていた。
「——ローゼンバーグ家の若木よ。立ち去るがいい」
執務室にて、ルシアンは開口一番、俺に向かってそう吐き捨てた。
エリザベート様は現在、別室でマナーの講義を受けており、ここには俺とルシアンの二人しかいない。
「エリザベート様の魔力暴走を鎮めた功績は認めよう。だが、所詮はお前のような下級貴族の独学。これ以上の指導は、彼女の類稀なる才能を泥で汚すに等しい。今日からは私がすべての魔法指導を司る。お前は雑務係へと下がるがいい」
「ルシアン閣下。私は公爵閣下より直接、エリザベート様の専属指南役として任命されております。指導方針の変更には、公爵閣下のご指示が必要かと」
俺が静かに返答すると、ルシアンは嘲笑を浮かべ、一枚の書面を机の上に叩きつけた。
「フン、分からん奴だな。これを見ろ。王立アカデミーが定めた『古代魔導回路の活性化手順』だ。エリザベート様の持つ闇魔力の特性上、今すぐにでもこの古代呪文を刻み込み、極大魔術を行使させる練習に入らねばならん。お前のようなガキに、この理論の深遠さが理解できるか?」
俺は示された書面に目を通した。
前世で『グラレガ』の設定資料集とゲーム内の図書館を隅々まで読み漁った知識が、即座にその「欠陥」を弾き出す。
(……正気か、この男は?)
俺は心の中で冷や汗をかいた。
ルシアンが提示した手順は、一見すると魔力を爆発的に高める画期的な手法に見える。だが、それは未発達な精神と魔導回路を持つ幼少期に行えば、魔力の逆流を引き起こし、術者の精神を完全に破壊する禁止呪法だ。
原作において、エリザベート様を完全な闇堕ちへと追い込んだクソ家庭教師たちが使っていた典型的な「成果焦りの愚行」そのものだった。
「ルシアン閣下。失礼ながら、この術式は極めて危険です。第一節の魔力収束理論において、精神回路への負担を相殺する『緩和式』が欠落しています。これをエリザベート様に施せば、三日と持たずに魔力回路が崩壊します」
「……何だと!?」
ルシアンの顔が怒りで真っ赤に染まった。
「無知なガキが、高名な私に意見する気か! 緩和式など不要だ! ヴァルハイト公爵家の血統ならば、それくらいの痛みに耐えて当然! 痛みをねじ伏せてこそ至高の魔導士となるのだ!」
「耐えさせる必要がどこにありますか」
俺は毅然とした態度で立ち上がり、ルシアンの目をまっすぐに見つめ返した。
「痛みを強いるのは指導ではありません。ただの怠慢です。エリザベート様が必要とされているのは、力を正しく制御するための『安全な導き』です。貴殿のその時代遅れなスパルタ理論に、彼女の未来を預けるわけにはいきません」
「お、おのれ……! 不遜な……! 公爵閣下に報告し、今すぐお前を追放してやる!!」
ルシアンが激昂し、杖を振り上げようとした——その時だった。
パシッ、と静かな音が室内に響いた。
見れば、いつの間にか部屋の入口に立っていたエリザベート様が、ルシアンの杖の先端を「氷の結晶」で完全に固めていた。
「え……? エ、エリザベート様……!?」
ルシアンが驚愕して振り返る。
エリザベート様は無表情のまま歩み寄ると、俺の前に立ち、ルシアンを冷たい氷の眼光で見下ろした。
「ルシアンと言ったかしら。……よくもまあ、私の前でそんな恥ずかしい妄言を吐けたものね」
「な、何を仰いますかエリザベート様! 私はあなたのために、最高峰の魔導理論を——」
「最高峰?」
エリザベート様は鼻で笑った。
「アルスの言う通りよ。あなたの提示した術式は、魔力の循環効率が最悪。第三節の展開スピードも遅すぎて、実戦なら詠唱中に首が飛ぶわ。……そんな欠陥だらけの紙切れでアルスに意見するなんて、笑止千万だわ」
「な……な……!?」
ルシアンは絶句した。
それもそのはず、エリザベート様は俺の「魔力調和理論」を完璧に叩き込まれているため、現代の偏った魔法理論の矛盾を一瞬で見抜く視点を手に入れていたのだ。
「それに」
エリザベート様の手から、恐ろしいほどの密度を誇る「黄金色の風と氷」の混ざり合った完璧な魔法陣が展開された。ルシアンが持参した欠陥論文の十倍以上洗練された、美しい高次術式だ。
「私に必要なのは、アルスの教えだけよ。アルス以外の誰も、私の体に触れることも、私の指導をすることも許さない。……消えなさい、老いぼれ。これ以上アルスを侮辱したら、あなたの実績ごと城の外へ吹き飛ばすわ」
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
ルシアンはエリザベート様から放たれる規格外の魔術と威圧感に腰を抜かし、這いずるようにして執務室から逃げ出していった。
嵐が去った室内。
俺はホッと息を吐くと同時に、呆気にとられていた。
「エリザベート様……いつからそこに?」
「ルシアンがアルスに暴言を吐いた瞬間からよ」
エリザベート様はくるりと振り返ると、一瞬で「いつもの甘えん坊な少女」の顔に戻り、俺の腰に抱きついてきた。
「アルス、凄かったわ……! あんな老いぼれのハタリモノを、完璧な理論で論破しちゃうなんて! やっぱり私のアルスは、世界一の魔法使いよ!」
「い、いえ、論破というか、当然の指摘をしただけでして……」
「いいえ! アルスは私の自慢の指南役よ!」
エリザベート様は俺の胸に顔をうすめ、すりすりと頬を寄せてくる。
「私を導いてくれるのは、アルスだけでいいの。……だから、絶対にいなくならないでね?」
俺は彼女の柔らかい髪を撫でながら、「はいはい」と頷いた。
原作の「クソ家庭教師による精神破壊イベント」は、俺の知識とエリザベート様の成長によって完璧に叩き潰された。
更生計画は、順調そのものだ。……彼女の「アルス絶対主義」が、また一つ強固になってしまったことを除けば。
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