第8話
エリザベート様の教育が順調に進む一方で、ヴァルハイト公爵家の「外の社会」は決して穏やかではなかった。
この日は、公爵城の大広間にて、周辺の傘下貴族や有力商人たちを集めた定期的な「晩餐会」が開催されていた。
本来なら十歳のエリザベート様が出席する必要はないのだが、彼女の魔力暴走が収まり、精神的に安定したという噂を確認するため、公爵が「顔見せ」として彼女を同席させたのだ。
そして、その専属従者である俺も、彼女の斜め後ろに控えて立っていた。
「ふむ……あれがヴァルハイト家の『暴走令嬢』か。案外、おとなしそうな顔をしているな」
「隣にいるガキはなんだ? ローゼンバーグ男爵家の若木だそうだぞ。ふん、貧乏貴族の分際で、公爵家の威光に寄生しようという腹づもりか」
会場のあちこちから、抑え気味ではあるが質の悪いヒソヒソ話が聞こえてくる。
前世で『グラレガ』をプレイしていた俺には分かっている。貴族社会の人間など、他人の足引っ張りや嫉妬で生きているような連中ばかりだ。下級貴族である俺が公爵令嬢の側近に収まっているのが面白くないのだろう。
(まあ、これくらいは織り込み済みだ。無視無視……)
俺が心の中で大人の対応を決め込んでいると、一人の肥満体型の貴族がグラスを手に近づいてきた。
ヴォルコス子爵。領地の利権を巡ってローゼンバーグ家と浅からぬ因縁のある、嫌味な貴族だ。
「これはこれは、エリザベート様。お元気になられたようで何よりですな。……して、そちらに控える小僧は?」
ヴォルコス子爵は、あからさまに見下した視線を俺に向けた。
「ローゼンバーグ家の長男にございます、ヴォルコス閣下」
俺が恭しく礼をとると、子爵は鼻で嗤った。
「ふん、挨拶だけは一人前か。だがな小僧、公爵家の専属従者ともあろう者が、その程度の身嗜みとは呆れたものだ。ローゼンバーグ家の貧乏臭さが移って、エリザベート様の気品に傷がついたらどうする?」
「な……」
「おい、給仕! この小僧に雑用係の衣装でも着せておけ。公爵家の夜会に相応しくない!」
子爵は周囲の貴族たちに聞こえるように大声で嘲笑した。何人かの貴族たちが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
貴族社会における典礼上の揺さぶりだ。俺を侮辱することで、ローゼンバーグ家の立場を貶めようという腹づもりだろう。
俺は平静を装い、反論の言葉を練ろうとした。
ここで感情的になれば相手の思うツボだ。巧みに受け流し、後で公爵閣下に報告して処理するのが上策——
そう思っていた、次の瞬間。
カツン、と小さな靴音が響いた。
「——ヴォルコス子爵」
静かだが、会場中のすべての音を掻き消すような「絶対的な声」が響き渡った。
声を上げたのは、エリザベート様だった。
彼女はゆっくりとグラスをテーブルに置くと、ヴォルコス子爵に向かって一歩踏み出した。
その瞬間、夜会会場の華やかな空気は一変した。
冷気。いや、絶対的な階級の差から来る「死の圧迫感」が、広間全体を叩き潰したのだ。
「え……? エ、エリザベート様……?」
ヴォルコス子爵の顔から、みるみるうちに余裕が消え去り、脂汗が滝のように噴き出し始めた。
「今……私のアルスに向かって、何と言ったの?」
エリザベート様の深海の瞳が、蒼い光を帯びて細められる。
彼女の背後に、目に見えるほどの漆黒と氷のオーラが立ち昇っていた。
「私の……私だけの愛おしい指南役に、貧乏臭い? 相応しくない? 雑用係……?」
「ひ、ひいいいっ!? ち、違います! 私はただの冗談で——」
「不敬だわ」
エリザベート様が小さな手をひと振ると、子爵の足元から一瞬で氷の刺が突き上がり、彼の着ている高級な貴族服の裾を床に縫い付けた。
「ひゃあぁぁぁっ!?」
「私のアルスは、この世界で最も気高く、最も価値のあるお方よ。彼の服の糸くず一つすら、あなたのような愚か者の命より重いの。……それすら理解できないなら、その汚い口を永遠に凍らせてあげましょうか?」
圧力。
十歳の幼女から放たれているとは到底信じられない、完全なる「支配者の威圧」。
周囲で嘲笑っていた貴族たちも、恐怖のあまりガタガタと震えだし、次々とその場にひざまずいた。
(ひえぇぇぇっ!? エリザベート様!? 威圧感が完全にラストボスのそれに戻ってますよ!?)
俺は背中に大量の冷や汗をかいた。
確かに俺を庇ってくれたのは嬉しい! ものすごくスカッとした!
だが、このままだとヴォルコス子爵が精神崩壊するか、物理的に凍結されて夜会が惨劇の舞台になってしまう!
「エ、エリザベート様! そこまでです!」
俺は慌てて彼女の前に立ち、その小さな手を優しく包み込んだ。
「あ……アルス……」
俺に手を触れられた瞬間、エリザベート様の背後に渦巻いていた凄まじい威圧感が、氷が溶けるように一瞬で霧散した。
彼女の瞳に宿っていた冷酷な光が消え、いつもの潤んだ瞳に戻る。
「私のために怒ってくださり、感謝いたします。ですが、私の価値はエリザベート様が知ってくださっていれば、それで十分なのです。……どうか、そのお手を納めてください」
「アルス……。でも、この男があなたを……」
「大丈夫です。私はエリザベート様の従者ですから。どんな言葉も、私とエリザベート様の絆を傷つけることはできません」
そう言って頭を撫でてやると、エリザベート様は照れたように顔を真っ赤にし、俺の袖を固く握りしめた。
「うん……アルスがそう言うなら、許してあげる……」
そう言って、彼女は震え上がるヴォルコス子爵を一瞥し、「二度と私の視界に入らないで」と冷ややかに吐き捨てた。
子爵は「は、はいぃぃっ!」と悲鳴を上げて逃げ出し、夜会の出席者たちは一斉に俺に向かって尊敬と恐怖の入り混じった視線を注ぐようになった。
(「あの暴君令嬢を、一言で手懐ける恐ろしい少年従者……」って思われてるな、絶対……)
俺は心の中で深い溜息をついた。
更生計画は順調だ。エリザベート様は俺を守るために力を使い、俺の一言で暴走を止めるまでに成長した。
だが、彼女の中で「アルス侮辱=即死罪」という恐ろしい方程式が完成しつつあることに、俺は深い頭痛を覚えずにはいられないのだった。
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