第45話 食べていない料理
先に足を止めたのは、玲司だった。
角を曲がったところで膝に手をつくと、少し前を走っていた葵も戻ってきた。置いていく気はなかったらしい。右腕を押さえ、こちらの顔を覗き込む。
「もう無理?」
「お前が逃げるからだろ……」
「黒瀬さんも逃げましたよね」
追いついた朝倉が、二人の前へ回った。玲司より息は整っているが、目つきは店の前で見たときと変わらない。葵は玲司の隣へ寄り、朝倉を見上げた。
「ごめん。久我が来るとは思ってなくて」
「来なければ、私を置いていってもよかったんですか」
「そうじゃなくて」
葵が助けを求めるようにこちらを見た。玲司はようやく体を起こしたが、まだ脇腹が痛かった。
「店長に話を聞いたら、向こうが電話したんです。俺たちが呼んだわけじゃない」
「それで、待っていたんですね」
「……はい」
朝倉は二人を見比べ、何か言いかけて口を閉じた。通りかかった人を避けて壁際へ寄ると、玲司たちにもそちらへ来るよう促した。
「何を話したんですか」
玲司は、店を訪ねた理由から説明した。朝倉も父親捜しの依頼は覚えていた。あのとき玲司が男を追って入った店だと分かると、眉を寄せる。
「そこで、無料で食事を出していたんですか」
「ああ。それは確かめてある。でも今日、店長に聞いたら、月末にまとめて払ってもらってるって。久我も同じことを言った」
「私たちの話より、こっちが早いよね」
葵が玲司のポケットを指した。玲司はスマートフォンを取り出し、店で録った音声を開く。
「録音したんですか」
「久我が来るって聞いたときから」
朝倉が近づいたので、玲司は音量を少し上げた。食器の触れ合う音に混じって、自分の声が聞こえる。そのあとに続いた久我の声は、店で向かい合っていたときと同じ、穏やかなものだった。
『常連の方には、月末にまとめてお支払いいただいています。店長からも、そう聞いていませんか』
朝倉は途中で口を挟まなかった。玲司の問い返しを聞き、久我が代金を受け取っていると重ねて答えたところで、画面から顔を上げる。
「無料で食べている人がいることは、久我に伝えたんですか」
「支援でもしてるのか、とは聞いた。どこで聞いたかって返されたから、全部は話してない」
玲司が再生を止めると、朝倉は自分の携帯電話を取り出した。
「久世さんにも聞いてもらいます。ほかには?」
「舟渡のことと、昨日の工場」
葵が答えた。
「誰が使ってたのか聞いたんだけど、会社で確認するって。分かったら警察に言ってとは頼んだ」
朝倉の指が止まった。
「工場に入ったのが二人だということも?」
「話した。向こうは、俺たちが何を知ってるのか気にしてたみたいで」
「そういう相手に会うなら、なおさら先に連絡してください」
玲司は返事をした。朝倉はまだ怒っていたが、同じことを繰り返す代わりに電話をかけた。久世が出ると、二人が店で久我と話したこと、無料の食事について説明が食い違っていることを伝え、玲司へ電話を渡す。
『何を聞いた』
玲司は、父親捜しのときに確認したことと、今日の店長の説明を話した。久我との会話は音声が残っていると告げると、久世はそれも送るように言った。
『前に捜した男、どの辺りにいた』
「上野です。目撃された場所と、本人の特徴は送れます」
『頼む。ほかの客の話も聞いてみる』
「工場の方は?」
『使っていた人間と、貸した会社の関係を調べてる。店の方も、こっちで確認する』
隣で葵が口を開きかけた。玲司はスピーカーに切り替え、葵へ電話を向けた。
「久世さん。私を連れてった奴らのことも、何か分かったら教えて」
『分かった。お前らに言えることが出たら、連絡する』
葵は小さく返事をした。久我に会っても、あの建物で自分を待っていた連中の名前は分からなかった。警察が調べると言ってくれるのを聞いても、その表情はすぐには変わらない。
通話を終えて朝倉に電話を返すと、玲司は自分のスマートフォンから音声と必要な情報を送った。送信を確かめている間も、朝倉はすぐそばに立っていた。
「店のことは調べてもらえます。それと、二人が勝手に出かけたことは別ですからね」
「まだ怒ってる?」
葵が聞くと、朝倉は真顔で頷いた。
「怒ってます」
玲司はスマートフォンをしまった。今度は朝倉が歩き出すのを待ち、葵と一緒にその隣へ並んだ。
*
数日後、久世は上野で、玲司が以前捜していた男に会った。
教えられた目撃場所を捜査員が回り、ようやく居場所が分かった。公園のベンチに座っていた男は、警察手帳を見ると、足元の袋を自分の方へ寄せた。
「今度は警察か。娘が頼んだのか」
「娘さんからの依頼ではありません。食事に行っている店について、聞かせてください」
久世が店の名を告げると、男は袋から手を離した。隣へ座っていいかと尋ねても返事はなかったが、置いていた上着を膝へ移してくれた。久世は腰を下ろすと、男の了承を得て録音を始め、レコーダーを二人の間に置いた。
「あそこで飯を食うのが、何かまずいのか」
「食べたことで、あなたを責めに来たわけではありません。食事代は払っていますか」
「払ってない」
男はすぐに答え、レコーダーの表示を覗き込んだ。
「あとでまとめて払ったり、誰かに代わりに払ってもらったりしたことは?」
「ないよ。金がないから、あそこで食ってんだ」
「月末に払う約束も、していないんですね」
「約束したって払えないだろ。向こうも知ってるよ」
男は少し腹を立てたようだった。久世は頷き、食事代を求められたこともないと確認してから、料理の話へ移った。
「普段、どんな物を食べていますか」
「出してくれたもん。肉と野菜を炒めたやつとか、煮たやつとか。飯と味噌汁もつく」
「自分で注文は?」
「しない。座ったら持ってきてくれる」
久世は、スマートフォンで店のメニューの写真を見せた。男は少し顔を近づけたが、和牛の御膳を指されると、鼻で笑った。
「こんなの出たことないよ」
「一度も?」
「あったら覚えてる。あんた、毎日の飯を覚えてるか? でも、こんな肉が出たら覚えてるだろ」
久世がスマートフォンを引こうとすると、男はその手を軽く押さえた。
「値段、いくらなんだ」
画面を拡大して見せると、男は口元を歪めて笑った。それから手を離し、膝の上着を広げ直す。
「俺にそんなもん食わせて、どうするんだよ」
「分かりました。ほかの人も、同じような食事を?」
「俺がいるときはな。全部見てるわけじゃないけど」
久世は残りの話を聞き、録音を止めてレコーダーをしまった。礼を言って立ち上がると、男が呼び止めた。
「なあ。あの店、何かあったのか」
「今、確かめています」
「……店長には、世話になってんだ」
男は久世の返事を待たず、上着を着始めた。袖へ腕を通す間も、こちらを気にしている。久世はもう一度礼を言い、ベンチを離れた。
*
ほかの客への聞き取りでも、同じ話が出た。食事は無料で、あとから請求されたこともない。出されるのは安い食材を使った料理で、高額な定食を注文していたわけではなかった。
店の従業員への確認と、本部から提出された会計資料の調査を進めるうちに、実際の食事と売上の間に、いくつもの食い違いが見つかった。代金を受け取っていない食事まで、高額な定食の売上として処理されていた。
久世が同僚の刑事と店を訪ねたのは、昼の営業が終わったあとだった。
客のいない店内では、床を拭く音がしていた。久世たちを奥の席へ案内した店長は、厨房へ声をかけてから向かいに座った。テーブルには水のコップが三つ置かれていたが、久世が資料を広げると、店長は自分の分だけ端へ寄せた。
「常連の方の食事代について、聞かせてください」
「月末にまとめていただいています」
「その常連の方々に確認しました。払っていないし、請求もされていないそうです」
店長は資料へ目を落とした。
「中には、そういう方もいらっしゃいます」
「無料で出していたんですね」
「はい。困っている方に、食事を」
「それなら、なぜ売上に入っているんですか」
久世が紙を向けると、店長は両手をテーブルの下へ引いた。視線だけが、示された数字の上を動く。
「それに、ここで売ったことになっているのは、和牛の御膳や刺身の定食です。実際に出していた料理とも違う」
「会計のことは、本部にも確認していただかないと」
「本部にも聞きます。ただ、店で何を出していたかは、あなたが知っていますね」
店長は顔を上げたが、答えなかった。厨房から食器の触れ合う音が聞こえ、そのあとで従業員が一人、上着を着て出てきた。
「店長、お先に失礼します」
「ああ。お疲れさま」
店長は振り返って答えた。従業員が久世たちへも頭を下げて出ていくと、そのまま入口を見ている。
久世は急かさずに待った。やがて店長が向き直ったので、紙の端を指で押さえた。
「入力を間違えた、という話ですか」
「……いえ」
「では、どういうことですか」
店長は口を開きかけ、下を向いた。何度か唇を動かしたあと、ようやく声が出た。
「言われたとおりに、入れていました」
「誰に言われたんですか」
「上からです。本部の方から」
隣の刑事がレコーダーを出した。店長はそちらを見て、すぐに久世へ視線を戻す。
「無料で出した分も、売上に入れるようにと?」
「はい。その料理を食べたことにして、処理しろと。金の方も合わせるからって」
「実際には、その料理は出していない」
店長は頷いた。久世が黙って待つと、今度は声に出して答えた。
「出していません」
「代金も、客からは受け取っていない」
「……はい」
店長の手がテーブルの上へ戻った。コップを持ち上げたが、口へ運ぶ前に置き直す。水面が揺れている間、誰も話さなかった。
「金は、どこから来たんですか」
久世が尋ねると、店長は顔を上げた。
「本部からです。でも、何の金なのかは知りません。そこまでは聞いていないんです」
「売上ではない金を、店の売上にしていたことは分かっていたんですね」
「分かってました。でも、私が考えたことじゃありません」
最後の言葉だけ、声が強くなった。店長は久世と同僚の顔を交互に見たが、二人とも頷いてはくれなかった。肩が落ち、視線が自分の手元へ戻る。
久世は資料を脇へ寄せた。
「では、その指示を出した相手について、詳しく聞かせてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます