Case 02: Compatibility — 理想の生活

「来週の月曜だって。二十六日」


 美咲が言うと、亮介はテレビのバラエティ番組から目を離して、ああ、と頷いた。


「大丈夫。その日は早く帰れる」

「ほんとに? この前もそう言ってなかった?」

「今度は大丈夫。予定もちゃんと入れとくから」


 亮介がスマートフォンに予定を入れるのを、美咲は隣から見ていた。六月十八日、日曜日。二人とも風呂を済ませ、あとは寝るだけだった。

 ソファに上げた美咲の足を、亮介が持ち上げて膝の上にのせた。昔からのお決まり。彼に足首を撫でられるのは好きだった。


「一応、前の日も空けておいてね」

「日曜? りょーかい」


 生活管理の画面には、さっき尋ねたときの表示が残っていた。


【今周期の直近最適日は六月二十六日です。お二人の予定も空いています】


 周期だけでなく、健診も買い物も、人と会う予定も、日々の相談だって、このアプリを開けばだいたい済んだ。初めのうちは何をするにも承認を求められていたが、面倒になってまとめて任せた。亮介も同じものを使っているので、互いに空いている日を探す手間までなくなった。


「じゃあ、今日は?」


 美咲は足先で亮介の腿を押した。


「今日?」

「嫌?」

「嫌じゃないけど、明日早いんだよな」


 時計を見たあと、亮介は美咲を引き寄せて口づけた。


「来週、楽しみにしてます」

「何その予約みたいな言い方」

「ご予約ありがとうございます」


 美咲が胸を叩くと、亮介は笑って、もう一度キスをした。

 子供を作ろうと決めたばかりの頃は、こんなふうに日を選ばなかった。避妊をやめるのも最初は落ち着かなかった。ただ、使わないでするたび、二人の将来が形になっていくようで嬉しかった。そのうち使わないほうが好きになってしまったのは誤算だったが。


 今は予定を空けてもらうところから始まる。子供は欲しいし、決めた日に早く帰ってきてくれるのも嬉しい。それでも、自分が誘わなかったら、来週まで何も起こらないのだと思った。彼が私を愛してくれているのは知っている。確信もある。けれども、明日の仕事を忘れるほど欲しがってほしかった。


 それを言うのは恥ずかしくて、美咲は亮介の肩に頭を預けた。番組では芸人たちが言い合っていた。亮介が笑うたびに、その肩が揺れた。


 ◇


「で、結局、泊まったの?」

「泊まったよ。帰れるわけないじゃん、あの時間から」


 水曜日、会社の休憩室で、奈緒は弁当の蓋を閉めながら言った。


「でも、途中で帰ろうと思えば帰れたんでしょ」

「まあね。でも向こうが帰したくないって」

「はいはい」


 美咲が笑うと、奈緒も笑った。別に自慢をしているつもりはないらしい。いつもの昼休み、当たり前の顔をして昨日の夜の話を教えてくれた。


 同僚の奈緒には決まった恋人はいない。それでも定期的に会う相手は何人かいて、誰と何を食べてきたかという話の続きに、泊まったかどうかが出てくる。要はセックスしたかどうかだ。美咲は聞くたびに呆れるが、もう少し聞きたいとも思った。


「それ、前に言ってた人?」

「うん。身体の相性はいいんだよね。付き合ったら面倒そうだけど」

「何が面倒なの」

「予定とか全然決めないんだ。昨日も夕方になってから連絡来たし」

「でも行っちゃうんでしょ?」

「会いたかったからね。私も」


 奈緒は少し笑った。


「こっちもそのつもりで行ってるのに、帰したくないとか言われると嬉しいんだよね。昨日は私から、まだいようかなって言った」

「さっきと言ってること違わない?」

「どっちも言ったの」


 美咲は自分の弁当へ目を落とした。


「いいなあ」

「美咲だって、旦那さんと仲いいじゃん」

「仲はいいよ。でも最近、日にち決めてばっかりで」

「忙しいの?」

「子供欲しいから。できやすい日にって、二人で決めたんだけど。その日以外に誘うと、『来週じゃなかった?』って」


 亮介の口ぶりを真似ると、奈緒が笑った。美咲も笑ってしまったが、それで話を終わらせたくはなかった。


「じゃあ、予定決めるのやめたら?」

「それでまたできなかったら、やっぱ決めとけばよかったって思うもん」

「ああ、そっか」


 奈緒は困ったように頷いた。


「私、そのへんはわかんないな。今、子供欲しくないし」

「私も、こんなふうになると思わなかった」


 亮介と付き合い始めたのは、大学のフットサルサークルに入った年だった。亮介が初めての恋人で、そのまま結婚した。身体の関係を持ったのは、過去も今も亮介だけだ。


「別に、毎日したいってわけじゃないんだけど」

「うん」

「たまには、今日じゃなきゃ嫌だって言ってほしい」


 口にしてから、美咲は恥ずかしくなった。

 奈緒は「そっか」とだけ言った。美咲は弁当の蓋を閉めた。


「今日、ジム行く?」


 奈緒に聞かれ、美咲はスマートフォンの予定を開いた。昨日届いていた運動の提案に、まだ返事をしていなかった。


「行く。最近さぼってるから」

「私も。先週の分、取り返したい」

「一回で?」

「気持ちとして」


 ◇


 定時を少し過ぎて会社を出て、奈緒とジムへ向かった。更衣室で着替えながら美咲は指輪を外し、化粧ポーチの内ポケットにしまった。器具を握ると当たるので運動するときはいつもそうしていた。


 奈緒は目当てのクラスに出るためスタジオへ行き、美咲は器具を使う前にマットで脚を伸ばした。昼間ずっと座っていたせいで、背中まで固まっている。


「こんばんは。今日も仕事帰り?」


 声のほうを見ると、寺島が隣のマットに腰を下ろしていた。


「そうです。寺島さんは、もう終わったんですか」

「今週オフなんで。今日はちょっと動くだけ」

「休みなのに来るんだ」

「家にいても暇だし」


 寺島李希人、二十三歳。初めて名前を教えてもらったとき、美咲は聞き返した。りきと、ともう一度言われ、珍しい名前ですねと答えた。六月に入ってから、ここで何度か話すようになった。

 プロのサッカー選手だと聞いたときには、「え、どこのチームですか」と声が大きくなってしまった。寺島が答えたのは、亮介が試合を見ているリーグのチームだった。美咲も名前は知っていたが、目の前の彼をテレビで見た覚えはなかった。


 自分も大学でフットサルをしていたと言うと、寺島は、今もやらないのかと聞いてきた。もう二十六なのでと答えて笑われた。二十三の寺島に、三年後も俺はやってると思う、と言われれば、美咲も笑うしかなかった。


「金曜も来ます?」

「会社の飲み会なんです」

「あ、そっか」

「何ですか」

「来るなら俺も来ようかなと思って」


 美咲は伸ばしていた膝を曲げた。冗談を返せればよかったが、寺島がこちらを見たままなので、笑うのが先になった。


「私に合わせても、トレーニングにならないですよ」

「話しに来るだけだからいいです」

「私、会社の友達と来ることもありますよ。今日も一緒で」

「さっきの人?」

「そうです。今、スタジオにいる」


 寺島はスタジオのほうを見てから、美咲へ視線を戻した。


「そうだ、彼氏はいるんですか?」


 結婚しています、と言うだけでよかった。寺島がどういう顔をするか、見たくなかった。


「彼氏はいないです」


 寺島は、へえ、と言った。嘘だとは思わなかったらしい。それ以上聞かれず、美咲も付け足さなかった。


 スタジオから戻ってきた奈緒が、もう帰る、と声をかけた。いつもなら一緒に帰るところを、美咲はあと少しと言って残った。


 寺島が別の器具へ移ってからも、トレーニングに集中できなかった。こちらを見るかもしれないと思うと、早く帰るのが惜しかった。


 結局、更衣室へ向かうまでにもう一度話せた。


「金曜、楽しんで」

「会社の飲み会ですよ」

「それでも。次会ったとき、話聞かせてください」


 帰りの電車でSNSを開くと、知らない女性の投稿が流れてきた。


『出張先で元彼と飲んで、そのまま一緒にホテルに戻っちゃった。翌朝は普通に仕事したし、帰ったら夫も普通におかえりって。私だけまだ落ち着かない』


 返信欄には、羨ましいという人も、旦那さんがかわいそうだと怒る人もいた。投稿者は、もう会う予定はない、と返していた。その下に、そういう問題じゃない、と返信がついている。

 美咲はそこまで読んで閉じた。指輪を戻していなかったことを思い出し、ポーチから出した。


 ◇


木曜の夜、SNSに流れてきた性格診断のランキングを、美咲は亮介に見せた。


「見て、私のMBTIって浮気しやすさランキング一位だって」

「美咲はすぐバレるでしょ。顔に出るし」

「ちょっと、そこは信じてるって言ってよね」


 亮介は笑いながら、画面を拡大した。


「俺のやつは?」

「下のほう」

「じゃあ信じてもらっていいですか」

「順位関係ある?」


 画面を下へ送ると、今度は芸能人の不倫についての投稿が続いていた。離婚しなかった夫婦の記事に、『うちも一回あったけどまだ一緒。毎回このニュースになると気まずいからテレビ変える』と誰かが書いていた。


「明日、何時に帰る?」


 美咲が尋ねると、亮介は少し考えた。


「慎吾のだからなあ。遅くなると思う」


 大学時代の友人の松岡慎吾が集める飲み会は、始まる時間しか決まっていないことが多かった。


「彩も来るって」

「え、珍しいね」

「慎吾が声かけたらしい」

「じゃあ、なおさら遅いじゃん」


 昔のサークル仲間の彩は、酔うと帰りたがらず、誰にでもくっついた。美咲も頬にキスされたことがある。会えば楽しい相手だったが、飲み方は大学の頃からあまり変わっていなかった。


「ちゃんと帰ってきてよ」

「帰るって。美咲も飲み会でしょ」

「私は会社のやつだから。終わったら帰る」


 翌朝、支度をしながら、美咲はいつもの指輪に一度指を通した。そのまま少し迷い、ポーチへ戻した。

 今日ジムへ行く予定はない。

 飲み会があるだけだ、と自分に言いながら、外したまま会社へ行った。


 ◇


 金曜の会では、奈緒が美咲の隣に座った。乾杯のビールを飲み終えた。


「今日、帰り急ぐ?」

「ううん。亮介も飲みに行ってる」

「二次会、行こうよ。私、一人だと断って帰っちゃいそう」

「奈緒が?」

「会社の人とカラオケ、気使うじゃん」


 美咲は笑って「いいよ」と答えた。家で亮介の帰りを待つより、ここで飲んでいたかった。



 会社の飲み会が終わったのは、九時より少し前だった。店を出ても頬が熱く、外の空気が気持ちよかった。

 店の入口で二次会の人数を数える先輩に、美咲は少し待ってくださいと答えた。会がお開きになる間際に届いた写真の通知が気になっていた。


 送ってきたのは、亮介たちの飲み会に参加しているサークル仲間だった。〈彩ちゃん絶好調〉という文字の下で、彩が亮介の首に腕を回し、頬にキスしようと顔を寄せていた。亮介は横を向いて笑っていて、嫌がっているようには見えなかった。


「美咲、そろそろ行くよ」


 奈緒に呼ばれて、うん、と答えかけたときだった。


「あれ。美咲さん」


 寺島が数人の男性と店の前を通りかかった。ジムの服装と違うだけで、少し知らない人に見えた。


「ここだったんですね」

「寺島さんも飲み会?」

「飯。もう終わったんですけど」


 連れの一人が寺島を振り返った。寺島は先へ行くように手を振ってから、美咲に向き直った。


「まだ飲むんですか」

「このあと二次会で」

「そっか。じゃあ、またジムで」


 軽く手を上げ、寺島は歩いていった。

 引き止められると思っていた。少しは。

 美咲はスマートフォンに残った写真をもう一度見た。彩はいつもああだ。亮介は明日になれば、彩がすごかったと笑って話すだろう。

 それなのに、今だけは腹を立てていたかった。


「ごめん、やっぱり私、帰るね」


 奈緒に言った。


「え、一緒に行くって言ってたじゃん」

「ごめん。やっぱりカラオケはいいかなって」

「えー、美咲が行くから私も行くつもりだったのに」

「ほんとごめん。また今度付き合うから」

「もう。じゃあ、また月曜ね」


 先輩にも挨拶をして、美咲は寺島の歩いていったほうへ向かった。角を曲がられたら、それで帰ろうと思ったが、追いつける距離にまだ背中が見えていた。


「寺島さん」


 少し声を張ると、振り返った。


「帰るんですか」

「うん。会社のは、もういいかなって」

「じゃあ、俺と飲む?」


 すぐに頷くのも嫌で、美咲は聞き返した。


「友達は?」

「あいつらは帰る。どうします?」

「少しなら」


 寺島は連れに何か短く声をかけ、美咲のところへ戻ってきた。


「こっち、店あるんで」


 人通りの多い道を並んで歩いた。寺島は思っていたより背が高く、話すときに少し顔を寄せる。ジムでは気にならなかった距離が、今は気になった。



 通されたのは、小さな店の奥のカウンターだった。寺島はビール、美咲はハイボールを頼んだ。さっきの店では先輩の話に適当に相槌を打てていたのに、寺島が隣に座ると、何を話そうかと考えてしまう。


「緊張してます?」

「してないです」

「じゃあ、その喋り方やめません?」

「寺島さんもじゃん」

「そうだね」


 寺島があっさり変えたので、美咲は笑った。


「慣れてるね」

「何が?」

「こういうの」

「俺から追いかけてないよ」


 言い返せなくなった美咲を見て、寺島も笑った。


「来てくれて嬉しかったけど」


 亮介から連絡が来ていないか、気にならないわけではなかった。それでも、バッグの中にあるスマートフォンは出さなかった。


「サッカー、ずっとやってたの?」

「小学校から。美咲さんもやってたんでしょ」

「大学のサークル。私、試合だと全然だめで。練習のほうが楽しかった」

「練習が好きって、えらくない?」

「遊びみたいなもんだったから」


 走るのだけは好きだった、と美咲は言った。


「じゃあ今度、一緒に走る?」

「プロの人と?」

「そんな速く走んないよ」


 寺島は次の約束をごく普通に口にした。美咲は「考えとく」と答えた。


「また、来る日聞くね」

「誰にでも聞いてるんじゃないの」

「聞いてないよ。だから水曜、帰らないでいてくれたの嬉しかった」


 気づかれていた。美咲がグラスに口をつけると、寺島は笑った。


「待ってた?」

「もう一回、話せたらとは思った」


 ジムではとても言えなかった。寺島は美咲の顔を見て、「俺も」と言った。

 美咲は自分から寺島へ身体を向けた。明日の予定を聞きたいのに、聞けば自分のことも話さなければならない。

 隣の席に客が来て、寺島が少し寄った。肩が触れたまま離れない。美咲もずらさなかった。


「最初、もうちょっと年上かと思ってた」

「それ、今言う?」

「二十六って聞いて、そんな変わんないじゃんって」

「三つも違うよ」

「三つでしょ」


 寺島の手が、美咲の膝に触れた。確かめるような触れ方だった。美咲がその手を見てから顔を上げると、寺島はもう笑っていなかった。


「もう一軒、行ける?」


 美咲はグラスを置いた。まだ少し残っていたが、お酒はもういらなかった。


「飲むのは、もういい」

「帰る?」


 帰ると言えば駅へ行ける。美咲は寺島の手に自分の手を重ねた。


「まだ一緒にいたい」


 会計を済ませて店を出ると、寺島が手をつないできた。指輪のない左手だった。美咲は握り返した。


「この先にホテルあるけど」


 美咲が頷くと、寺島はつないだ手を少し持ち上げた。


「いいの?」

「うん。でも、電車あるうちには帰る」

「わかった」


 ここで言えばよかった。結婚していると言えば、たぶんその手は離れた。寺島と二人でいられる時間を、自分で終わらせたくなかった。


 ◇


 部屋に入ると、寺島はドアの前で美咲を抱き寄せた。すぐにキスをされ、美咲は彼の肩につかまった。息をつくために顔を離すと、寺島がまた近づいてきた。


「ちょっと待って」


 寺島は止まった。廊下を人が歩く音がして、美咲は閉まったドアを見た。亮介は、私が今どこにいると思っているんだろう。


「帰りたくなった?」


 美咲は首を振った。肩に置いた手を寺島の首の後ろに回し、自分から口づけた。


 ◇


 服を着ると、急に部屋が明るすぎるように感じた。

 もう十一時を過ぎていた。寺島はベッドに座ったまま、美咲の帰りの電車を調べようとした。


「大丈夫。自分でわかるから」

「じゃあ駅まで送る」


 美咲は頷いた。してしまったことを後悔し始めているのに、冷たくされなかったことにはほっとしていた。


「明日は?」

「明日?」

「空いてない? 俺、まだ休みだし」


 会いたい気持ちがまだあった。会ってしまえば、今日だけのことではなくなる。それが怖かった。


「……私、結婚してるの」


 寺島はしばらく美咲を見ていた。


「え?」

「ごめん」

「いや、先に言ってよ」


 さっきまでとは違う声だった。


「彼氏いないって、言ってなかった?」

「彼氏の話だったから」


 言ってすぐ、自分でもひどい答えだと思った。


「同じでしょ」

「うん。ごめんなさい」


 寺島は立ち上がって、床に落ちたシャツを拾った。美咲に何か言いかけて、やめた。

 駅まで送るという話は、もう出なかった。


 ホテルを出てから一人で歩くあいだ、美咲はこれからはジムへ行く曜日を変えないといけないと思った。考えるべきことはほかにあるのに、それが一番具体的だった。

 電車に乗ると、会社の人たちがグループに上げた写真がたまっていた。奈緒が二次会で笑っている。自分もそちらに行けばよかった。


 亮介からの連絡はなかった。

 代わりに、さっきの写真を開いた。

 大きく表示すると、亮介の手が見えた。彩の肩に手のひらを当て、身体を離そうとしている。口元が笑っているのは、周りが笑っているからだろう。続けて届いていた写真には、隣の友人へ逃げる亮介と、その友人にも抱きつく彩が写っていた。


 ちゃんと見ていれば、と思った。でも、ちゃんと見ようとしなかったのは自分だ。寺島を追う前に見直す時間はあった。


 部屋に着いた頃には、日付が変わりかけていた。

 シャワーを浴びて、ポーチの指輪を戻した。寝室のいつもの側に横になる。眠れば朝までの時間がなくなる。それで少し楽になれると思ったのに、寺島の最後の声ばかり思い出した。


 亮介が帰ったのは、二時頃だった。

 玄関の音がして、美咲は目を閉じた。亮介が廊下を歩いてくる。寝室の戸が少し開いた。


「……起きてる?」


 答えなかった。

 亮介はそれ以上声をかけず、戸を閉めた。水の流れる音がしばらく続き、やがて隣が沈んだ。酒と、いつものシャンプーの匂いがした。

 美咲は壁のほうを向いたまま、朝を待った。


 ◇


 翌朝、亮介が起きる前に家を出た。

 近所では顔見知りに会うかもしれず、駅の向こう側の喫茶店まで歩いた。注文したコーヒーは、半分も飲まないうちに冷めた。


 話さなければいけない。そう思うと、何から話すのかを考えてしまう。相手が誰かを聞かれたら。なぜ、と聞かれたら。


 亮介が嫌いになったわけじゃない。今でも好きだ。そんなことを言っても、昨日の自分が消えるわけではなかった。


 SNSを開いた。いつもの服や食べ物の写真に混じって、夫婦の話をする短い動画が流れた。


 話している女性は笑いながら、結婚十年目の旅行で喧嘩をしたと言っていた。美咲は音を消し、字幕で見た。旅行の話は途中から、昔、夫以外の人と会っていた話になった。


『夫には言ってないです。今さら私だけすっきりしてもね。そこはもう自分で持っていくしかないかなって』


 その先で旅行の写真に戻った。美咲は少し戻して、同じところをもう一度見た。

 返信欄には、墓まで持っていくと書く人も、それを動画で喋るなと怒る人もいた。批判コメントは自分に言われているようで読めなかった。下へ送り、別の投稿を探した。


 昼を過ぎると、店内の客が入れ替わった。何も食べる気はなかったが、席に居続けるためにサンドイッチを頼んだ。食べ始めると、空腹だったことがわかった。


 亮介から連絡が来た。


〈おはよう。今どこ?〉

〈外。喫茶店にいる〉

〈昨日遅くなってごめん。怒ってる?〉


 怒っていないと返すまでに、少し時間がかかった。


〈ほんとごめん。起きたらいないからびっくりした。迎え行こうか〉


 今来られたら、何か喋ってしまう。


〈大丈夫。あとで帰るから〉

〈わかった。気をつけてね〉


 美咲は画面を閉じた。

 亮介は自分が帰りの遅さを怒っていると思っている。昨夜からずっとそうだったことにできる。少し拗ねて、あとは普通に戻れば、亮介は何も知らずに済む。

 その考えが浮かんだ途端、涙が出た。

 窓側を向いて、目元だけ拭いた。誰もこちらを見ていなかった。

 寺島ともう会わなければいい。ジムは変えられる。昨夜を知っているのは二人だけだ。そう考えて楽になりかけるたびに、亮介に嘘をつき続けるのだと思い直した。


 帰ると送ったのは、夕方になってからだった。

 玄関を開けると、亮介がリビングから顔を出した。


「おかえり」

「ただいま」

「昨日、彩がすごくてさ」


 途中で、美咲の顔を見た。


「どうした?」

「何でもない」

「怒ってるじゃん」


 美咲は靴を脱いで、亮介のところへ行った。首に腕を回すと、亮介は驚きながらも抱き返した。


「ごめんって。今度は先に連絡するから」

「違うの」


 その先を言えなかった。

 顔を上げて口づけた。亮介の唇は乾いていて、よく知っている感触がした。それが嬉しくて、もう一度キスをした。


「今日、したい」


 亮介が美咲の顔を覗き込んだ。


「月曜じゃなかった?」

「今日がいい」


 亮介を好きな気持ちは本物だ。今はそれだけを確かめたかった。


「うん」


 亮介は美咲の髪を撫で、二人で寝室へ行った。

 

 ◇


 七月十五日、土曜日。


 病院から帰ると、亮介は立ち上がったまま美咲を待っていた。

 予約を取ったことは伝えてあった。何も聞かずに顔を見ている亮介に、美咲は笑おうとした。


「できた……赤ちゃん」

 

 声が震えた。亮介の顔がくしゃっとなり、抱きしめられた。

「ほんと? ほんとに?」


 美咲は頷いた。腕を回した亮介の肩越しに、ホテルのあの部屋が見えた気がした。

 すぐに目を閉じた。


「ありがとう、美咲!」


————————————————————————

【あとがき】

長過ぎたので、AI側のログと解説は次話に続きます。

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