022:天正三年 六月下旬:島民




種子島の景色が、少しずつ変わっていた。


白い道がある。

荷車が走っている。

港では山田箱が積み下ろされ、船が出入りする。

畑では作物が育ち、漁師たちは獲れた魚を港へ運ぶ。


その変化を一番近くで感じていたのは、城の者でも、商人でもなかった。


長屋で暮らす人々だった。




朝。


長屋の一角から、子供の声が響いた。


「母ちゃん、こいも持っていってよか?」


「だめ。そいは父ちゃんの昼飯じゃ」


「えー」


「自分の分を食べやんせ」


「はーい」


小さな手が、自分の握り飯へ伸びる。

中身は、麦混じりの飯と、漬けた菜っ葉。


決して豪勢ではない。

それでも、以前とは違った。


食べるものがある。

今日の分だけではない。

明日の分も、少しなら考えられる。


父親は港で働いている。

母親は、長屋の作業場で山田箱を作る。

子供たちは、できる範囲で手伝う。

そして夜になれば、家族で同じ屋根の下へ帰ってくる。


「行ってくっど!」


「気をつけやんせ」


「うん!」


子供が駆けていく。

母親は、その背中を見送った。


以前なら、朝から食べるものの心配をしていた。

今日は何を食べるか。明日はどうするか。

米が足りなければ、何で腹を満たせばいいのか。

そんなことばかり考えていた。


だが、今は――。


「……帰りに、卵でも買うてこようかね」


ふと、そんなことを考えた。


ほんの小さなことだった。

けれど、その小ささが嬉しかった。




長屋の作業場では、何人もの女たちが働いていた。


箱の蓋を作る者。縄をなう者。金具を取り付ける者。板を削る者。


「そこ、もう少し薄うできんかね?」


「薄うしたら、割るっど」


「なら、端だけ厚うする?」


「そいならよか」


最初の頃は、次郎に教えられた通りに作るだけだった。

だが、毎日同じ仕事をしていれば、少しずつ分かってくる。

どこを削れば早くなるのか。

どこを厚くすれば壊れにくいのか。

どの縄なら扱いやすいのか。


「山田様に聞いてみる?」


「いや、まず作ってみろ」


「壊れたら?」


「そんとき考えればよか」


そう言って笑う。


しくじりを恐れる顔ではない。

自分たちで試すことを覚え始めた顔だった。


次郎が後から見に来たとき、作業場には、以前とは違う光景が広がっていた。


「ここ、変えたんですか?」


「はい」


「どうして?」


「こっちのほうが、早かです」


「なるほど」


次郎は、手に取って確かめる。

確かに、理にかなっている。


「いいですね」


たったそれだけの言葉だった。

だが、作った女は嬉しそうに笑った。


「次は、もっと良うしてみもす」


「お願いします」


自分が教えたものが、自分の手を離れていく。

そのことが、次郎には妙に嬉しかった。




少し離れたところでは、男たちが材木を運んでいた。


「重かぞ!」


「分かっちょる!」


「せーの!」


以前なら、人の肩だけが頼りだった。

今は荷車がある。

材木を載せ、縄で縛って、引く。


ごろ……、ごろ……。


「……楽じゃな」


「前なら、こいを何人で担いだか?」


「十人は要ったじゃろ」


「そげんか?」


「もっとかもしれん」


男たちは笑った。


もちろん、荷車が何でも運べるわけではない。

坂はきついし、道が悪ければ車輪も止まる。

それでも以前より、少ない人数で多くの荷を運べるようになった。


一人が荷車を引いている間に、別の者が材木を削る。

港では荷を積み込む者がいて、蔵では箱を並べる者がいる。


細かな仕事が、少しずつ増えていた。




ある日。


長屋の男の一人が、籠いっぱいの野菜を抱えて畑から戻ってきた。


「今日は、こいを湊へ持っていく」


「全部売っとか?」


「余った分だけじゃ」


以前なら、港まで野菜を運ぶだけで大仕事だった。

遠くて、道が悪くて、荷が重い。

売りに行けば、それだけで一日が潰れる。

だから、採れたものの多くは自分たちで食べ、余った分は近くで安く手放すのが普通だった。


今は、荷車がある。


籠をいくつも荷台へ積み、港へ運ぶ。


「こいは、今朝採ったとか?」


「そうじゃ」


「なら、少し多めにもらおうか」


売れた。

思っていたより、ずっと早く。


男は、空になった籠を見て笑った。


帰り道、男は港の店の前で、しばらく足を止めていた。

それから、懐の銭を数え、小さな包みを一つ買った。


家へ戻ると、子供が飛びついてくる。


「父ちゃん、そい何?」


「口を開けてみい」


男は、包みから茶色い粒をひとつまみ取り出して、子供の舌の上に落とした。


子供の目が、まん丸になった。


「……あまか!」


「砂糖じゃ」


「さとう?」


「この島で作っちょる、甘かもんじゃ。山田様が作り方を教えてくださった」


子供は、もう一度口を開けて見せた。

女房が、呆れたように笑う。


「高かったでしょうに」


「少しだけじゃ。……一遍、食わせてやりたかったでな」


以前なら、砂糖は唐から来る、殿様の口にしか入らないものだった。

今は、この島で作られている。

長屋の子供の舌にも、ほんのひとつまみなら届く。


「また、買うてくっど」


「うん!」


以前なら、『また』なんて言葉を口にする余裕すらなかった。


今は『また』がある。




別の家では、女が新しい鍬を眺めていた。


「こいは、前のより使いやすかね」


夫が頷く。


「柄が、少し長か」


「腰が楽じゃ」


「なら、買うてよかったな」


新しい農具を買う。

ただ、それだけのことだった。


だが、道具が良くなれば、畑を耕す時間が短くなる。

余った時間で、別の仕事ができる。

獲れる量も増えるかもしれない。


そんな小さな変化が、百姓の暮らしにも入り始めていた。


また別の家では、魚を買っていた。


「今日は、鯖が安かど」


「なら、二尾」


「もう一尾どげんな?」


「うちは四人じゃっで」


笑いながら、魚を受け取る。


以前なら、魚は自分で獲るか、近所から分けてもらうものだった。

今は港に人が集まり、魚が集まる。

売る者がいて、買う者がいる。

それだけで、膳の上に並ぶものが増えていく。




子供たちの間にも、変化があった。


以前は、朝から晩まで仕事を手伝う子供が多かった。

今も手伝いはする。

だが、全部ではない。


「こい、父ちゃんに持っていく」


「何ね?」


「水!」


「こぼすなよ」


「分かっちょる!」


小さな子供たちが走っていく。


働く大人。手伝う子供。遊ぶ幼子。

その境目が、少しずつ変わってきていた。


子供が学問所へ通う時代ではない。

読み書きのできる者も少ない。


それでも、明日の飯が心配で、子供まで一日中働かなければならない。

そんな暮らしからは、ほんの少しだけ離れ始めていた。


次郎は、それを見ても、すぐに読み書きを教えようとは思わなかった。


まずは、食べること。働いて、眠ること。

家族が一緒に暮らせること。

その土台がなければ、先のことを考える余裕は生まれない。




荷車が増えるにつれ、別の仕事も生まれた。


最初は、荷だけだった。


「湊まで頼めるか?」


「荷は?」


「いや、おいを」


「おはんを?」


「急ぎなんじゃ」


荷車の荷台に、人が乗る。


最初は、空になった荷車に乗せてやる程度だった。

ところが、それを見た別の者が頼む。


「明日の朝、湊へ行く。乗せてもらえんか」


「よかど」


「帰りは?」


「夕方なら戻る」


そうして、荷車を差配する者が現れ始めた。


港に荷車を待たせておく。

決まった時刻に出す。

急ぎの客がいれば、別の荷車を回す。


誰に言われたわけでもなく、自然に、その仕切りを始める者がいた。


「……いつの間にか、荷車の仕切り役までできましたね」


次郎が呟くと、川上が笑った。


「仕事が増えれば、それをまとめる者も要りもす」


「なるほど」


「それに――」


川上は、荷車の荷台に置かれた小さな包みを指差した。


「さっき、あの荷車に、書状を託けていった者がおりもした」


「書状?」


次郎は、少し考えた。


「……それなら、書状だけを運ぶ人を作ったほうがいいんじゃないですか」


「飛脚でごわすな」


「そうです」


種子島は、南北に細長い。

島の南の端から城まで走れば、それなりの道のりになる。


「一人で走り通すんじゃなくて、途中で交代すればいいんです」


次郎は、絵図の上に指を置いた。


「ここまで走ったら、次の人に渡す。次の人が、また次へ」


「……人から人へ、書状を繋いでいく」


「書状だけなら、荷車より速いでしょう」


「そいなら、急ぎの知らせにも使えもすな」


試しに、何人かを集めて走らせてみることになった。


最初の飛脚が走り、途中で次の男へ書状を渡す。

次の男が走り、さらに次へ。

人から人へ、書状が渡っていく。


やがて――。


「届きもした!」


城の門前に、最後の男が駆け込んだ。


思っていたより、ずっと早い。


「こいは便利じゃ」


川上が唸る。


「……最初は、荷を運ぶ荷車だったんですけどね」


次郎は苦笑した。




夕方。


長屋へ戻ると、子供たちが一人の男を取り囲んでいた。


「書状?」


「誰から?」


「南の村の、兄貴からじゃ!」


男は、飛脚から受け取った書状を、両手で持って眺めていた。


眺めているだけだった。


「……おいは、字が読めん」


男は、ばつが悪そうに頭を掻いた。


「隣の爺様を呼んでこい。あの人は、寺で少し習うちょったはずじゃ」


やがて、腰の曲がった年寄りがやってきて、目を細めながら書状を読み上げた。


「……『皆、息災なり。そちらも達者か』」


短い便りだった。

故郷の村に残してきた、兄からのものだった。


男は、しばらく黙っていた。


「……元気じゃってよ」


女房が笑った。


「よかったね」


「うん」


子供も覗き込む。


「なんて書いてあると?」


「お前が達者かって」


「おい?」


「そうじゃ」


「じゃあ、達者って返事して!」


「……そうじゃな。爺様、返事も書いてくれんか」


「銭はいらんよ。そのかわり、今度鯖を一尾な」


年寄りが笑い、男も笑った。


ほんの短い書状だった。

けれど、その一枚が、島の向こう側から届いた。


そして――返事を書く理由が生まれる。


遠くの家族を思い出す。

そんな余裕が、少しずつ生まれていた。


長屋の片隅で、子供が地面に指で何かを書いていた。

年寄りが書状に書いた字を、真似しているらしい。


次郎は、それを遠くから見て、何も言わずに通り過ぎた。


――土台ができれば、人は勝手に、その先を欲しがる。




港では、島の外から来る商人の姿も増えていた。


「種子島では、何でも売れるらしか」


「なら、次は多めに持ってこよう」


「鉄も足らんそうじゃ」


「塩は?」


「売れる」


そんな話をしながら、商人たちは荷を積み替えていく。


布。鉄。塩。道具。食べ物。

以前よりも、島へ入ってくる品が増えていた。


島の人々も、それを買う。

少しずつ、選べるものが増えている。


商人たちは、売れることを知る。

だから、また来る。

次に来るときは、島の者が欲しがるものを、覚えて持ってくるだろう。




ある日。

長屋の女が、布を広げていた。


「そい、どこで買うたと?」


隣の女が尋ねる。


「湊に来た商人から」


「前の麻とは違うね。柔らかか」


「木綿ちゅうらしか。少し高かったけどね」


「子の着物に?」


「そう」


二人で、布を撫でる。


「次は、あたいも買おうかね」


「よかと思うよ」


そんな会話が交わされる。


どれも、大きな変化ではない。

けれど、暮らしの中に、少しずつ新しいものが増えている。

そして、誰かがそれを買えば、別の誰かがそれを作り、運び、売る。


「去年とは、違うね」


女が呟いた。


「うん」


「なんだか……忙しゅうなった」


「でも、悪うなかね」


二人は笑った。




その頃。


薩摩国、鹿児島の内城。


島津歳久は、一通の報せに目を通していた。

種子島に置いた目付からのものだ。


人が増えた。荷車が増えた。商人が増えた。港が動いている。

そして――数字が変わっていた。


「……不思議な島になりましたな」


歳久が呟くと、上座の義久が、わずかに顔を上げた。


「……何がじゃ」


「民が、以前より物を買うております」


「……」


「物が売れれば、商人はまた持ってまいります。商人が来れば、湊に仕事が増える。仕事が増えれば、働く者の手に銭が残る」


「……」


「そして、また物が売れます」


義久の顔には、『当たり前じゃろう』と書いてあった。


歳久は、気にしない。

むしろ、楽しそうだった。


「一つひとつは小さなことです。ですが、すべてが繋がっております。年貢を軽くしたことで、民の手に銭が残った。その銭で物を買う。商人が売る。商人が、また仕入れる。その荷を運ぶために、船が動く」


義久は、少し眉を寄せた。


「……歳久」


「はい」


「お前は、山田のところで何を学んできた」


歳久は、わずかに笑った。


「まだ、分からぬことばかりにございます」


「……そうか」


「ですが、数字なら分かります」


歳久は、書付を一枚差し出した。


種子島の港を通った荷の数。商いの額。

それが、前の年の同じ頃と並べて記されている。


義久の目が、ある数字で止まった。


「……こいは」


「前の年の同じ頃と比べた、商いの額にございます」


義久は、もう一度、同じところを見た。


「……三倍?」


歳久は答えなかった。

義久自身が、数字を読み直している。


小さな島だ。

これまで、決して豊かな土地とは言えなかった。

その数字が、まるで別の島のように変わっている。


義久は、しばらく黙っていた。


山田次郎という男が、何をしているのか。

そのすべてが分かるわけではない。

むしろ、分からないことのほうが多い。


だが、数字は嘘をつかない。


島が変わり、人が動き、商人が集まり、仕事が増えている。

それが、そのまま数字に表れていた。


義久は、静かに書付を置いた。


「……歳久」


「はい」


「また、山田のところへ行くつもりか」


歳久の顔が、ほんの少し明るくなった。


「……はい」


「そうか」


義久は、わずかに口の端を上げた。

それ以上は、何も言わなかった。


歳久の考えていることが、すべて分かるわけではない。

だが、結果は出ている。

ならば、任せておけばいい。




夜。


長屋の灯りが、ぽつぽつと灯っていた。


誰かが夕餉を作っている。

誰かが、明日の仕事の支度をしている。

誰かが、今日買った布を畳んでいる。


子供たちは眠りにつき、隣の家から、小さな笑い声が聞こえる。


今日も働いて、食べた。

明日も、また働こう。


以前は、それだけのことが難しかった。

だが、今は違う。


次郎は、長屋の灯りを眺めていた。


夜の風が、長屋の間を抜けていく。

港には、まだ人の気配がある。


「……忙しくなったな」


その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。


種子島は、まだ豊かな島とは言えない。


けれど――昨日より今日、今日より明日。


ほんの少しずつ。


人々の暮らしは、前へ進み始めていた。

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