021:天正三年 六月中旬:温泉
硝石の作業場。シラコンの道。港の改修。
荷を運ぶ台車と荷車。船。畜産。
ここ最近、次郎が手を入れてきたものは、どれも人が働き、物を動かすためのものだった。
仕事が増えれば、人が動く。
物が作られれば、それを運ぶ者がいる。
魚を獲り、米や野菜を育て、それを売る。
種子島の中で、少しずつ物と金が巡り始めていた。
そんなある日の昼下がり。
次郎は、畑から戻ってきた百姓たちを見て、ふと足を止めた。
着物には土がこびりつき、手のひらも黒く汚れている。
汗で濡れた顔を拭えば、そこにも土埃が残った。
朝から畑に出て、土を耕し、作物を育てる。
仕事が終われば、そのまま家へ戻る。
珍しい光景ではない。
むしろ、この時代では当たり前の暮らしだった。
だが、次郎には気になった。
屋敷の奉公人たちも同じだ。
畑仕事を終えた者が、そのまま飯を食う。
その手には、まだ土が残っている。
次郎は、無意識に眉を寄せた。
飲み水を清める。器を清潔にする。井戸を整える。
それだけでは足りない。
暮らしそのものを清潔にするなら――身体を洗う場所がいる。
「……温泉でも、あればな」
そう呟いたところで、次郎は首を振った。
種子島は、火山の島ではない。
屋久島のような花崗岩の塊でもない。
海の底に積もった砂と泥が、長い年月をかけて押し固められ、持ち上がってできた島だ。
足元に、熱いマグマはない。
「……いや、待てよ」
次郎は、足を止めた。
地面の下は、深く潜るほど温かくなる。
火山がなくても、百メートル掘り下げるごとに、三度ほど。
雨が地面に染み込み、岩の割れ目を伝って、深く、深く潜っていく。
深いところで温められた水が、別の割れ目を通って、また地表へ戻ってくる。
そういう湯なら、火山のない土地にも湧く。
熱湯とはいかないが、ぬるい湯くらいなら。
薩摩と種子島を行き来し、島の事情にも詳しい川上なら、何か知っているかもしれない。
次郎は、近くにいた川上へ声を掛けた。
「川上殿」
「はい」
「この島に、温かい水が湧く場所ってありませんか?」
「湯のことでごわすか?」
「ええ。井戸や泉なのに、妙にぬるいところです」
川上は、少し考えてから頷いた。
「薩摩ほど熱か湯は聞きもはんが……ぬるか水が出るっちゅう話なら、いくつか」
「本当ですか」
「ただ、場所を正しゅう案内できるほど、詳しゅうはありもはん」
「それなら、知っている人に聞けばいいですね」
「土地の者に、聞いてみもんそ」
「お願いします」
地面の下には、目に見えない水の流れがある。
その水がどこから来て、どこを通り、なぜ温かくなるのか。
地球科学者としての好奇心が、静かに目を覚ましていた。
「あそこは、冬でも水が凍らん」
「雨の後でも、あの泉だけはぬるか」
「寒か朝に、湯気の立つ沢がある」
そんな話が、少しずつ集まってきた。
次郎は、土地の者から聞いた場所を、絵図へ書き込んでいく。
地形。水の流れ。湧き出す量。周りの岩と土。
そして、水の温かさ。
温かさは、硝石の作業場で使っている寒暖の目盛りを持ち出して測った。
細いガラス管の中で、水の線がじわりと上がる。
「ここは……井戸水より、だいぶ高いな」
点が一つ、また一つと増えていく。
やがて、次郎はあることに気づいた。
「……並んでる」
ぬるい水の湧く場所が、絵図の上で、一本の線の上に並んでいた。
地層の割れ目。
大地がずれた跡――断層だ。
深いところまで続く割れ目があるから、そこを伝って、温められた水が上がってくる。
島の人々が、長い間の暮らしの中で知っていた『ぬるい水』。
自分が持つ地球科学の知識。
二つを重ねると、地図の上の点が、一つの筋を持ち始めた。
経験だけでは説明できなかったものが、知識を重ねることで形になっていく。
逆に、机の上の知識だけでは分からないことを、土地の者の経験が教えてくれる。
「おもしろい……」
次郎は、絵図を眺めながら小さく笑った。
数日後。
その線の上で、いちばん温かい水が、いちばん多く湧いている場所へ、次郎は足を運んだ。
岩場の一角から、じわじわと水が湧いている。
手を入れる。
「……温かい」
冷たい井戸水とは、明らかに違う。
ただ、肩まで浸かるには、少しぬるい。
「このままだと、夏はいいけど、冬は風邪をひくな」
次郎は、周りを見回した。
湧いた湯を、シラコンで固めた湯船に溜める。
その脇に竈を据え、大きな釜で湯を沸かして、足し湯にする。
元がぬるい湯なら、冷たい井戸水を沸かすよりも、ずっと少ない薪で済む。
とはいえ、最初から大きな湯殿を作るつもりはなかった。
身体を洗う洗い場。
湯に浸かって身体を温める湯船。
そして、使った湯を流す溝。
温泉だからといって、汚していいわけではない。
湯船に入る前に身体を洗う。
泥や汚れを持ち込まない。
洗い場の水と湯船の湯は、別々に流す。
決まった日に掃除をする。
次郎は、そのあたりの差配を、島の役人たちに任せるよう話をつけた。
「銭は取らないようにしましょう」
「銭を、取らんと?」
役人が目を丸くする。
「はい。働いている人が、仕事のあとに身体を洗って休める場所です。そこで銭を取ったら、一番来てほしい人が来られなくなります」
「……なるほど」
こうして湯は、島の誰もが使える場所として整えられることになった。
昼のうちは女と子供、夕方から夜にかけては男。
基本はそう分けた。
ただ、仕事や家の事情で決まった時に入れない者もいる。
その場合は無理に縛らず、事情に合わせて使えるようにした。
「……ふう」
畑仕事を終えた男が、肩まで湯に浸かった。
「こりゃ、よか……」
隣の男も、ゆっくりと息を吐く。
「身体の泥が落ちるだけでも、だいぶ違うな」
「明日の腰の具合が、違いもんそ」
男たちの笑い声が、湯気の中に溶けていく。
昼には、女や子供たちの声が響いた。
その中に、綾の姿もあった。
屋敷の下女たちと連れ立って、次郎の作った椿の液体石鹸を、得意げに皆へ分けている。
「こうして泡立てて、髪も洗うのですよ」
「まあ……よか香り」
「山田様が作られたのです」
なぜか綾が胸を張る。
その日の夕方、屋敷に戻った綾は、ほんのり上気した頬で次郎に言った。
「山田様。湯は、よいものですね」
「気に入ってもらえましたか」
「はい。……あれは、毎日でも行きとうございます」
「毎日行けるように作ったんです」
綾は、嬉しそうに笑った。
温泉は、贅沢なものだと思っていた。
だが、こうして見ると少し違う。
身体を清める。
疲れを取る。
そして、また明日も働く。
「……働く場所だけ作っても、駄目なんだな」
夕暮れ。
湯気が、ゆらゆらと空へ昇っていく。
その向こうには、白い道が伸びている。
さらに先には港があり、荷を積んだ船が静かに揺れていた。
その数日後。
次郎は、屋敷の一室で、大小二枚のレンズを眺めていた。
川上に頼んで手に入れた、南蛮渡りのガラス玉。
それを、金剛砂で何日もかけて磨き上げたものだ。
簡単な筒の両端に、そのレンズを取り付けてある。
大きな対物レンズと、小さな接眼レンズ。
「……やっぱり、これだけでも見えるな」
目元へ持ち上げ、覗き込む。
遠くの景色が、肉眼より少し大きく見えた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
ただ、問題も多い。
視野が狭い。周りが歪む。焦点も合わせにくい。
次郎は、筒を少し動かしながら苦笑した。
「まだまだだな」
それでも、使えないわけではない。
肉眼では小さくしか見えないものが、少し近くなる。
「これなら、もう少し改良できそうだ」
レンズを外し、筒を眺める。
時尭様と織部様に――。
いつか自分が種子島を離れるときには、これを渡していこう。
鉄砲や船だけではない。
遠くを見る道具も、あの二人ならきっと面白がってくれる。
「……もう少し、ちゃんとしたものにしておくか」
次郎は、レンズを文机に置いた。
さらに数日後。
次郎は、川上と向かい合っていた。
「川上殿」
「はい」
「さつまいもって、知ってます?」
「……さつまいも?」
川上が首を傾げる。
「聞いたことはなかですな」
「ですよね……」
次郎は、心の中で苦笑した。
薩摩の芋、と書いて、さつまいも。
その名が付くのは、ずっと後の世の話だ。
今の薩摩の人間が知らないのは、当たり前だった。
最近見た畑の様子を思い出す。
米。麦。雑穀。野菜。
限られた土地。
種子島は、島だ。
米が毎年、十分に獲れるとは限らない。
「……主食が、もう一つ要るんですよね」
「主食、でごわすか?」
「はい」
米が不作になれば、それだけで島は苦しくなる。
ならば、米のほかにも、島で育つ主食があればいい。
痩せた土地でも育ち、手間が少なく、たくさん獲れる作物。
記憶の片隅から、一つの名前が浮かんだ。
南の土地。
飢饉を救った作物。
人の食べ物にも、家畜の餌にもなる。
そして、薩摩の国――。
断片的な知識が、ぼんやりと繋がった。
もちろん、種子島で本当にうまく育つかは分からない。
それでも、試す値打ちはある。
「川上殿。南蛮の商人に、聞いてもらえませんか」
「何をでごわす?」
「赤い芋です」
「赤い芋……?」
「ええ。赤っぽい皮をした芋で、土の中にできる作物です。南蛮の商人なら、手に入れられるかもしれません」
川上は、少し考えた。
「……探してみもす。しかし、なぜ赤い芋を?」
「島で育つ主食が、もう一つ欲しいんです」
次郎は、畑の向こうを見た。
「もし育つなら、米が足りないときの助けになります」
「なるほど……」
川上は頷いた。
「見つかれば、試してみもんそ」
「お願いします」
次郎は、そこで一度言葉を切った。
「……それと、もう一つお願いがあります」
「何でごわす?」
「豚です」
「豚……?」
川上の眉が、ぴくりと動いた。
「ええ。食べるための豚を、南蛮の商人に探してもらえませんか」
「……豚を、食うので?」
「はい」
「……四つ足を?」
「ええ」
川上は黙った。
ほんの少し、困ったような顔をする。
「山田様……豚は、四つ足でごわすぞ?」
「知っています」
「……食べるので?」
「食べます」
川上は、しばらく次郎の顔を見つめた。
どうやら、本気らしい。
「いや……南蛮人が食うちょることは、知っちょりもすが」
「だったら、手に入る見込みはありますよね?」
「それは……まあ、探せば見つかるかもしれもはん」
「最初から皆に食べてもらおうとは、思っていません。まずは飼ってみるんです」
次郎は、苦笑した。
「増やせるなら、食べ物の選択肢になります。それに、赤い芋が育つなら、その蔓や屑芋を豚の餌にできる。豚の糞は、畑の肥やしになる」
「芋が豚を育てて、豚が畑を育てる、と」
「そうです。無駄がありません」
川上は、腕を組んだ。
まだ少し、抵抗はあるようだ。
だが、次郎が考えているのは、ただ肉を食べたいという話ではない。
「……四つ足の話は、少し覚悟して聞いてみもんそ。赤い芋と一緒に、豚も探してみもす」
「ありがとうございます」
その芋が、本当に種子島で育つのか。
どれほど獲れるのか。
豚が、島の気候に馴染むのか。
まだ、何も分からない。
それでも、新しい食べ物を探すことは、島の暮らしを支える一歩になる。
次郎は、まず試してみることにした。
そして、もう一つ。
次郎には、以前から時尭に頼んでいたことがあった。
硝石作りが軌道に乗るまで――民の年貢を、半分にしてほしい。
今の島には、砂糖がある。
港も動き始めている。
商いも増えている。
しばらく年貢を軽くしても、島の実入りそのものが減るとは限らない。
むしろ、民の手元に金が残れば、それが商いに回る。
仕事が増える。物が売れる。商人が儲かる。
商人が、また物を仕入れる。
そうして、島全体が豊かになっていく。
少し前、次郎は、城の私室で時尭にそう説明していた。
「硝石が軌道に乗るまで、民の年貢を半分にできませんか」
「……半分」
時尭は、しばらく次郎を見つめた。
次郎は、少しだけ口元を上げて言った。
「私がこれから種子島にどれだけの銭を生み出すか、時尭様なら、容易くお分かりかと思いましたが……」
時尭の眉が、ぴくりと動く。
「……次郎」
「はい」
「お前、わし以外にそげな口をきいたら、斬られるぞ」
「……すみません」
「まあよい。好きにせえ」
「ありがとうございます」
次郎は、深く頭を下げた。
それが、少し前の話だ。
そして今。
次郎は、夕暮れの島を眺めていた。
湯では、仕事を終えた人々が身体を休めている。
道では荷車が荷を運び、港では船から荷が降ろされていく。
畑には、まだ仕事を続けている者の姿もあった。
人々の手元には、少しずつ金が残り始めているだろう。
一つひとつは、小さな変化だった。
だが、それらは別々に起きているわけではない。
そして、これからは新しい作物や家畜も増えていく。
温泉の湯気が、夕暮れの空へゆっくり溶けていく。
働いて、休む。
食べて、眠る。
そして、また働く。
そんな当たり前の暮らしが、少しずつ整っていく。
技術を一つ作れば、それで終わるわけではない。
次郎は、まだその先に何が待っているのかを知らない。
ただ、この島で始めた小さな変化が、もう自分だけのものではなくなっていることだけは、少しずつ分かり始めていた。
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