2026年9月28日 10:24 編集済
数字という宗教への応援コメント
非常に面白い着眼点だと思います。ただ、この世の目の前、「いま、ここ」に存在しない概念を示すようなものに関しては、全て同等のことが言えるのではないかと、私は思うのです。私は数学は宗教より言語のイメージが強いです。数学は自然と対話し、自然の内実を知るための言語であり、人間が扱う言語の中で唯一例外的に、語り手による主観的なイメージが含有されないもの。その客観性に優れた性質も、作者さんが論述内で示されていた『その場に付随する情報を無視し、数学的性質を前面に押し出す』性質が最も顕著に現れたことに起因するのではとも思います。言語はその性質が数学ほど顕著ではない(ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』の内容を思い出しました。言語は無意識的にその場の情報を踏まえて扱われることが示されていますね)とはいえ、個々の小さな違いを無視して一般的な概念に落とし込む行為であることに変わりありません。私と作者様は共に『人間』ですが(人間ですよね?)、見目や心の機敏、抱えるバックグラウンドなんて全く違うわけです。『人間』という言葉にどれほど個の違いが押し縮められているか、お分かりいただけるのではないでしょうか。作者様が仰る『宗教的で、提示された内容を疑いもせず飲み込む』ということは、要するに『定義を受け入れる』ということなのだと思います。確かに与えられたものごとをそのままそっくり鵜呑みにする、という行為に関して、歯痒さを感じるのは事実です。私も満足な豚より不満足なソクラテスでありたいですから。ただ、定義がなければ、なにも考えることはできません。定義を前提として、その先の思考に進めるのです。宗教的に数学を信奉することは、その先に聳え立つ自然界に大手を張って挑んでいく、自然をそれこそ『宗教として』片付けぬための第一歩なのです。ただ、定義を疑うということそのものはとても大切です。実際、最新の整数論の分野では1自体や足すという行為そのもの、つまりここで例に挙げられていたような内容を今一度考え直す研究もなされているようですよ!数学という概念について考え直す良い機会となりました。ありがとうございました!
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数字という宗教への応援コメント
非常に面白い着眼点だと思います。
ただ、この世の目の前、「いま、ここ」に存在しない概念を示すようなものに関しては、全て同等のことが言えるのではないかと、私は思うのです。
私は数学は宗教より言語のイメージが強いです。数学は自然と対話し、自然の内実を知るための言語であり、人間が扱う言語の中で唯一例外的に、語り手による主観的なイメージが含有されないもの。その客観性に優れた性質も、作者さんが論述内で示されていた『その場に付随する情報を無視し、数学的性質を前面に押し出す』性質が最も顕著に現れたことに起因するのではとも思います。
言語はその性質が数学ほど顕著ではない(ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』の内容を思い出しました。言語は無意識的にその場の情報を踏まえて扱われることが示されていますね)とはいえ、個々の小さな違いを無視して一般的な概念に落とし込む行為であることに変わりありません。私と作者様は共に『人間』ですが(人間ですよね?)、見目や心の機敏、抱えるバックグラウンドなんて全く違うわけです。『人間』という言葉にどれほど個の違いが押し縮められているか、お分かりいただけるのではないでしょうか。
作者様が仰る『宗教的で、提示された内容を疑いもせず飲み込む』ということは、要するに『定義を受け入れる』ということなのだと思います。
確かに与えられたものごとをそのままそっくり鵜呑みにする、という行為に関して、歯痒さを感じるのは事実です。私も満足な豚より不満足なソクラテスでありたいですから。
ただ、定義がなければ、なにも考えることはできません。定義を前提として、その先の思考に進めるのです。宗教的に数学を信奉することは、その先に聳え立つ自然界に大手を張って挑んでいく、自然をそれこそ『宗教として』片付けぬための第一歩なのです。
ただ、定義を疑うということそのものはとても大切です。実際、最新の整数論の分野では1自体や足すという行為そのもの、つまりここで例に挙げられていたような内容を今一度考え直す研究もなされているようですよ!
数学という概念について考え直す良い機会となりました。ありがとうございました!