第29話 もう一回
森川一人には、物心がついた頃から桐明翔がいた。
家は数軒しか離れていなかった。
保育園へ行くにも、小学校へ行くにも、気づけば隣にいた。
何をするにも競争になった。
どちらが先に公園まで着くか。
どちらが遠くまで石を投げられるか。
鉄棒。縄跳び。自転車。水泳。
ほとんどは一人が勝った。
「もう一回」
負けた翔が言った。
そして、たいてい次も一人が勝った。
一人は昔から、身体を動かすことだけは得意だった。
ところが、一つだけ違った。
野球だった。
翔が投げたボールを、一人は打てなかった。
自分が投げれば、翔は簡単に打った。
「もう一回」
「まだやんの?」
「もう一回」
何度やっても同じだった。
翌日もやった。
一週間後もやった。
一年後もやった。
足なら勝てる。
泳いでも勝てる。
でも、そんなものはどうでもよかった。
翔が一番得意なもので勝ちたかった。
それだけだった。
いつからだったのか、一人自身にも分からない。
翔に勝つために始めたはずの野球を、一人は毎日のようにやるようになった。
翔の投げ方を真似した。
何度も見て、腕の振りを真似た。
足の上げ方を真似た。
身体の使い方を真似た。
似ていると言われることもあった。
だが、同じ球は投げられなかった。
翔の方がうまかった。
ずっと。
*
一人は、母の森川みさきと二人で暮らしていた。
裕福な家ではなかった。
父親はいなかった。
みさきが父親について話すこともなかった。
それでも、一人が自分の家を何かの足りない家だと思ったことはなかった。
母がいた。
それでよかった。
「かっちゃん、ご飯」
「今行く」
「今って何分後?」
「今」
「じゃあ早く来なさい」
みさきはよく笑った。
一人はあまり喋らなかった。
それでも、母には必要なことくらいは話した。
学校のこと。
野球のこと。
そして、翔のこと。
「今日も翔くんに負けたの?」
「……負けてない」
「勝ったの?」
「まだ」
みさきは笑った。
「それ、負けたって言うんじゃないの?」
「次勝つ」
その言葉だけは、一度も変わらなかった。
*
中学を卒業すると、一人は翔と同じ高校へ進んだ。
野球の名門校ではなかった。
少なくとも、全国から選手が集まってくるような学校ではない。
だが、その年に翔が入った。
一年生でエースになった。
県大会を勝った。
夏には甲子園まで行った。
学校の名前と一緒に、桐明翔という名前が全国へ流れた。
一人はベンチにいた。
身体能力なら、誰にも負けなかった。
だが野球は違った。
守備も、打撃も、投球も、まだ高校のレギュラーには届かなかった。
使われたのは足だった。
甲子園でも一度だけ代走で出た。
一塁に立った。
腰を落とし、両手をだらりと下げて、投手を見る。
だが、盗塁の機会は来なかった。
一人の甲子園は、それで終わった。
翔は違った。
投げた。
抑えた。
打った。
勝った。
学校は準々決勝まで進んだ。
桐明翔は全国に知られる選手になった。
それでも一人は思っていた。
今はあいつが先にいる。
それだけだ。
いつか勝つ。
まだ一度も、野球では勝っていない。
でも、次がある。
そう思っていた。
*
次は来なかった。
甲子園が終わって間もなく、一人はみさきと翔と出かけていた。
甲子園のお疲れ様会。
みさきの発案で、三人で焼肉を食べに行く。
三人は歩道を歩いていた。
一人は、車道側を歩いていたみさきの肘を引いて、建物の側へ寄せた。
みさきが笑う。
「あら、大人の男になってきたのねえ」
翔が言う。
「お母さん、一人の隠れファンがいるんですよ」
「あら、そうなの」
「黙れ」
その瞬間。
轟音と揺れ。
事故は起きた。
建設現場での事故だった。
みさきは死んだ。
一人と翔は負傷した。
一人は骨を一本折った。
病院のベッドで、医師から、時間はかかるが後遺症は残らないだろうと言われた。
一人にはどうでもよかった。
治るのなら治ればいい。
母は、治らない。
*
数日後、翔が病室へ来た。
事故の傷は、一人より軽かった。
見た目だけなら、もう普通に歩けていた。
「大丈夫か」
翔が言った。
「そっちは」
「俺はもう平気」
「じゃあ練習できるな」
翔は答えなかった。
一人は顔を上げた。
「何」
「検査したんだよ。事故のあと」
「だから?」
「心臓、悪いらしい」
一人はしばらく翔を見ていた。
「いつ治る」
「……治すとかじゃねえんだって」
「どういうこと」
「生まれつきみたいなもんらしい。今まで気づかなかっただけで」
「普通にしてられんの」
「してられる。歩くのも、走るのも平気。日常は何もないって」
「じゃあ問題ないだろ」
「全力で続けるのが無理なんだって」
「いつまた野球できる」
翔は黙った。
一人の声が強くなった。
「いつだよ」
「もう、無理だって言われた」
「は?」
「競技は無理だって」
「何言ってんだ」
「俺が言ってんじゃねえよ」
「治せばいいだろ」
「だから――」
「治せよ!」
病室に声が響いた。
一人がこんな声を出すことは滅多になかった。
二人とも、泣いていた。
「学校は」
「移る」
「なんで」
「治療」
「勝手に決めんな」
「俺が決めたんじゃねえ」
「まだお前に勝ってねえ」
翔が顔を上げた。
「知らねえよ」
「もう一回やれ」
「できねえんだよ!」
翔も叫んだ。
「俺だってやりてえよ!」
一人は黙った。
翔は下を向いた。
二人とも、それ以上何も言えなかった。
帰り際、翔は振り返らなかった。
一人は、呼び止めなかった。
野球では、一度も勝てなかった。
もう一回と言えば、いつでも次があった。
それが終わった。
一人には、翔が勝ったまま逃げたようにしか思えなかった。
そんなことを翔に言えるはずもなかった。
*
入院中、親戚の夫婦が来た。
一人を引き取るという。
叔父は言いにくそうに、高校を続けさせる余裕まではないと話した。
「悪いな」
「別に」
一人はそれだけ答えた。
学校がどうなるかなど、もうどうでもよかった。
*
退院すると、一人は叔父夫婦の家へ移った。
折り合いはよくなかった。
叔父夫婦に悪意があったわけではない。
余裕のない家に、突然、高校生が増えた。
その高校生は、一日中ろくに喋らない。
食事を出されれば食べる。
聞かれれば、必要なことだけ答える。
叔父夫婦も、次第に話しかけなくなった。
二週間ほど経ったころ、叔父に呼ばれた。
「一人。ちょっといいか」
「何」
叔父は向かいに座った。
「お前のことなんだけどな」
一人は黙っていた。
「正直に言う。うちで、この先ずっとお前の面倒を見るのは難しい」
「……そう」
どうでもよかった。
「別の人がお前を引き取ることになった」
「誰」
「東条一成さんだ」
「誰、それ」
叔父が一瞬ためらった。
「東条グループの会長だ」
「東条?」
「ああ」
「なんで」
「それがな……」
叔父は一度息を吐いた。
「お前の父親だそうだ」
一人は動かなかった。
「……は?」
「俺たちも知らなかった」
「何言ってんの」
「確認は取れてる」
「母さんは」
「みさきからは何も聞いてない」
「じゃあ何で今出てくんだよ」
「一人」
「今まで何してたんだよ」
怒りが噴き出した。
だが、誰に怒ればいいのか分からなかった。
叔父ではない。
死んだ母でもない。
会ったことすらない父親。
しかも、その男は東条グループの会長だという。
「……来てる」
叔父が言った。
「何が」
「東条さんだ。外で待ってる」
*
家の外に黒い車が停まっていた。
そのそばに男が立っていた。
東条一成。
一人はテレビか新聞で顔を見たことがあったのかもしれない。
だが、そんなことは覚えていなかった。
一成は一人を見ると、静かに言った。
「森川一人君だね」
「俺の父親なんだって?」
「ああ」
一人は男を睨んだ。
母を捨てた男。
十五年間、一度も現れなかった男。
母が死んでも出てこなかった男。
そんな男が目の前に立っていた。
「母さんを捨てたのか」
一成は答えなかった。
「なんで今さら来たんだよ」
一成は、それにも答えなかった。
その沈黙だけで腹が立った。
やがて一成は言った。
「君と一緒に暮らすことはできない」
「……は?」
「生活の心配はしなくていい。必要な費用はこちらで用意する」
一人はしばらく何も言わなかった。
やがて吐き捨てた。
「誰がお前なんかと住むか」
一成の表情は変わらなかった。
「そうか」
それも腹が立った。
母が死んだあとに現れて、父親だと言って、しかし一緒には暮らさない。
金だけは出す。
一人にはそうとしか見えなかった。
*
一週間後、一成の指示を受けたという男が迎えに来た。
男は笑顔だった。
腹が立った。
一人の荷物は多くなかった。
叔父夫婦の家を出る時も、特に何も感じなかった。
車で連れていかれた先には、大きな門があった。
その向こうに屋敷があった。
一人はしばらく建物を見上げた。
「ここ?」
「はい」
中には使用人がいた。
部屋はいくつあるのか分からなかった。
自分だけには広すぎた。
さらに案内された先に、室内練習場があった。
ネット。
マウンド。
打撃ケージ。
ボール。
バット。
一人は初めて足を止めた。
男は笑顔で言った。
「こちらも自由に使ってよいとのことです」
「誰が」
「東条会長です」
一人は返事をしなかった。
*
変な生活が始まった。
朝起きなくても誰も怒らない。
学校へ行く必要もない。
食事は出てくる。
掃除も洗濯も誰かがやる。
一成は来なかった。
一人は昼まで寝ることが増えた。
テレビをつけたまま、何時間もソファにいた。
何かをしたいとも思わなかった。
怒りは消えていなかった。
ただ、その矛先がなかった。
母は死んだ。
翔はいなくなった。
叔父夫婦を責める気もなかった。
東条一成を殴りに行くほど、よく知っているわけでもない。
何日も何もせずに過ぎた。
それでも、ときどき練習場へ行った。
ボールを握った。
投げた。
バットを振った。
何のためなのかは考えなかった。
試合はない。
チームもない。
翔もいない。
それでも、ボールは投げた。
バットも振った。
*
十六歳の誕生日だった。
使用人に来客を告げられた。
「誰」
「広瀬和巳様です」
一人は顔を上げた。
「……広瀬?」
玄関へ行くと、本当にいた。
日米通算百九十七勝。
日本から海を渡り、メジャーでも投げた投手。
肘を壊して引退したばかりのスター。
野球をやってきた一人が知らないはずがなかった。
「森川一人君?」
広瀬が言った。
「……はい」
「今日一日、一人君と野球することになった」
一人はすぐに分かった。
「東条?」
「ん?」
「頼まれたの、東条に」
「ああ」
「金もらってる?」
広瀬が笑った。
「もらってるよ」
一人の顔が険しくなった。
「帰る?」
「帰らないよ」
「親父が金払ってんだろ」
「だから来たんだよ」
「……」
一人は黙った。
広瀬は勝手に練習場へ入っていった。
「とりあえず投げてみて」
一人は不機嫌なままボールを持った。
それでも投げた。
広瀬は何球か黙って受けた。
「もう一球」
一人が投げる。
「もう一球」
投げる。
「その投げ方、誰かに教わったの?」
「誰にも」
「じゃあ誰かの真似?」
一人は少し間を置いた。
「幼なじみ」
「投手?」
「うん」
「うまい?」
「うん」
「君よりも?」
「ちょっとだけ」
広瀬が笑った。
その日は長かった。
投げた。
休んだ。
また投げた。
広瀬は一人に身体の使い方を教えた。
なぜそうするのかも話した。
プロで打たれた話をした。
メジャーで通用しなかった球の話もした。
一人は聞いた。
「向こうの打者、何が違うの」
「いろいろ」
「一番は」
「長くなるよ」
「いい、聞かせて」
いつの間にか、一人の方から質問していた。
広瀬が帰る頃には、外は暗くなっていた。
「じゃあね」
一人は何も言わなかった。
広瀬が見えなくなるまで見送った。
その夜、一人はまた練習場へ行った。
昼間に聞いた投げ方を試した。
もう一球。
もう一球。
*
数日後。
広瀬がまた来た。
一人は玄関で顔を見て言った。
「また東条?」
「違う」
「金は」
「今日はもらってない」
「じゃあ何で」
広瀬は少し考えた。
「気になった」
「何が」
「一人君が」
一人は眉を寄せた。
「暇なの?」
「失礼だな」
広瀬は笑いながら靴を脱いだ。
それから、広瀬は何度も来るようになった。
毎日ではなかった。
来る日は決まっていなかった。
それでも一人は、いつしか広瀬が来ることを当然のように思うようになった。
広瀬も、本格的に教えるようになった。
投手の身体の使い方。
打者の見方。
同じ球でも、なぜ打たれる時と打たれない時があるのか。
ただ速いだけでは抑えられないこと。
そして、スプリット。
「握ってみて」
一人は広瀬からボールを受け取った。
「こう?」
「指広げすぎ。俺より指長いから、そこまでいらない」
一人が投げた。
ボールはほとんど落ちなかった。
「違うね」
「もう一回」
また投げた。
「違う」
「もう一回」
何度目かで、広瀬が笑った。
「それしか言わないな」
「できてないから」
「今日は終わり」
「もう一回」
「終わり」
「一回だけ」
「ダメ」
翌日、一人は誰もいない練習場で投げた。
次に広瀬が来た時、前より落ちた。
広瀬は何も言わず、もう一球投げさせた。
そしてうなずいた。
「いいね」
一人はもう一球投げた。
*
別の球も見せられた。
横へ大きく動く球だった。
広瀬は何通りかの握りを持っていた。
だが、本人は首を振った。
「これは俺もダメだった」
「投げられないの」
「投げられる。でも、使えるところまでいかなかった」
「何で」
「何かが足りない」
「何かって?」
「分かったら苦労してないよ」
一人はボールを握った。
「投げていい?」
「いいよ」
一人が投げた。
広瀬は笑った。
「一人もダメだな」
「もう一回」
「はいはい」
その球は、すぐにはものにならなかった。
*
広瀬は野球以外のことも話した。
くだらない話もした。
一人が寝坊すれば怒った。
食事を抜けば怒った。
無茶をすれば練習を止めた。
一人も広瀬には言い返した。
「できる」
「できないよ」
「できる」
「じゃあやってみれば」
やった。
失敗した。
「ほら」
「もう一回」
いつの間にか、一人は昼まで寝なくなった。
規則正しく、食事も取った。
*
やがて広瀬は、知らない男を連れてきた。
外国人だった。
「友達」
広瀬が言った。
一人は男を見た。
「誰」
「カイル」
「カイル?」
「カイル・ミラー」
一人は固まった。
広瀬が吹き出した。
カイル・ミラー。
メジャーリーグを代表する遊撃手。
打って、走って、守る。
海の向こうのスターだった。
カイルが英語で何か言った。
一人には全部は分からなかった。
広瀬が笑った。
「打ってみろって」
「何で」
「バットも振ってるだろ?」
「俺、投手だろ」
「そんなの誰も決めてないよ」
一人はバットを持った。
カイルは黙って見ていた。
何球か打ったあと、近づいてきた。
身振りを交えて何かを言う。
「ここをもう少し待てって」
広瀬が訳した。
一人がやる。
カイルがもう一度何か言う。
一人が直す。
打球が変わった。
カイルが広瀬を見る。
二人が英語で話し始めた。
「何」
「別に」
「何て言った」
「面白いって」
「何が」
「一人が」
*
その後、一人は海外へ出るようになった。
広瀬に言われたからだった。
最初に行ったのは、海の向こうの短期リーグだった。
相手は高校生ではない。
身体のできあがった大人だった。
速い球を投げても打たれた。
広瀬に教わった通りに投げても、抑えられない日があった。
帰国すると、一人は試合の映像を広瀬に見せた。
「ここ、何が悪い」
「分かんないか」
「分かんないから聞いてる」
「じゃあ、もう一回見よう」
一人は見た。
何度も見た。
そして、また海を渡った。
十八歳になる頃には、北米の独立リーグでも投げた。
契約も、旅券も、本人確認も、森川一人だった。
ただ、球場で呼ばれる名前は違った。
背中に入ったのは、ONO。
スコアボードにも、選手名簿にも、その名前が載った。
一人は理由を深く聞かなかった。
本名で投げたいとも思わなかったからだ。
森川一人という名前には、母がいて、事故があって、東条がいた。
ONOなら、ただ野球だけをすればよかった。
十九歳になる頃には、また別の国へ行った。
場所が変われば、打者も変わった。
球場も、ボールも、野球の考え方も違った。
一人はそこで初めて、投げられることと、打者を抑えることが同じではないと知っていった。
打たれて帰る。
広瀬と映像を見る。
直す。
また行く。
少し通用する。
また別のところを打たれる。
帰って、また直す。
それを繰り返した。
カイルも、シーズンが終われば日本へ来た。
打つことを教えた。
走ることも。
守ることも。
だが、投球には口を出さなかった。
そこは広瀬の場所だった。
広瀬が投手を教えた。
カイルが野手の側から野球を教えた。
一人は、できなければ何度でもやった。
「もう一回」
広瀬は何度その言葉を聞いたか分からなくなっていた。
*
一人が二十歳になる頃だった。
その日、広瀬は来なかった。
珍しいことではなかった。
約束していても遅れることはあった。
一人は練習場で、黙って投げていた。
しばらくして、使用人が入ってきた。
「一人様」
「何」
「……お話があります」
一人はボールを持ったまま振り返った。
「広瀬様が」
一人は待った。
「交通事故に遭われました」
一人は数秒、黙っていた。
「どこの病院」
使用人は答えなかった。
「病院どこ」
「……亡くなられたそうです」
一人は動かなかった。
「何言ってんの」
返事はなかった。
「さっきまで?」
自分でも何を聞いているのか分からなかった。
使用人は俯いた。
一人はボールを握ったまま、しばらく立っていた。
前に来たのは、何日前だったか。
その日、何を話したかは、思い出せなかった。
使用人が出ていった。
練習場には、誰もいなくなった。
手の中に、ボールがあった。
広瀬に教わった握りを作る。
投げた。
スプリットは落ちた。
ネットが音を立てた。
一人は別のボールを拾った。
もう一球。
投げた。
もう一球。
また投げた。
誰も止めなかった。
もう一球。
広瀬は来なかった。
もう一球。
何球投げても、来なかった。
一人は、泣いていた。
それでも、ボールを拾った。
そして、また構えた。
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