第18話 足跡
二日後。
Kは札幌のマウンドにいた。
北海道ホワイトベアーズ戦。
あのサヨナラ本塁打を打たれた相手の本拠地だった。
Kが一球目を投げる前から、スタンドの一部がざわついていた。
ブーイングと拍手が、半分ずつ混ざっている。
真壁はベンチの端で、Kの投球を見ていた。
踏み出す位置。
腕が出る高さ。
グラブを引く速さ。
昔、選手の変化を一度だけ見落としたことがある。
踏み出す歩幅が、ほんの少し狭くなっていた。
気づいた時には、その投手の肩は上がらなくなっていた。
先発の二日前に、代打で一打席に立った。
それが投球に何か残していないか。
確かめたいのは、そこだった。
登板の合間に打席に立つ投手を、真壁は預かったことがない。
一回、直球は一五三キロ。
二回、スプリットで空振り三振。
三回、ソロ本塁打を一本打たれた。
真壁は、打たれた球の前後も見た。
投げ終わりは、変わっていなかった。
甘く入った一球だった。
それだけだ。
四回、五回と、Kは三人ずつで終えた。
六回、九十二球。
1対1のまま、Kは降板した。
フェニックスは八回に二点を勝ち越し、3対1で勝った。
Kに勝ちはつかなかった。
試合後、真壁は竹田に聞いた。
「受けてて、何か違ったか」
「何も」
竹田はミットの紐を緩めながら答えた。
「いつものKでした」
真壁は、少しだけ肩の力を抜いた。
今はまだ、大丈夫だ。
*
大阪バイソンズの映像室では、同じ打席が繰り返し流れていた。
九月の、千葉オーシャンズ戦。
八回裏、代打K。
映像は、途中から足元だけに切り抜かれていた。
左打席に立つ、Kの右足。
倉橋が足を上げる。
同時にKの右足が、内へ戻る。
踏み込む。
打球は、画面の外へ消えた。
「もう一度」
投手コーチが言った。
同じ場面が戻る。
隣で、左腕の野々宮が身を乗り出した。
今季、左打者の前に何度も送り出されてきた変則のリリーフだった。
投手コーチは、画面を止めたまま言った。
「試しに、間を変えてみろ」
野々宮はうなずいた。
画面の中で、Kの右足は戻りかけたまま止まっていた。
*
オーシャンズ戦から一週間後、本拠地でのバイソンズ戦。
八回裏を迎えて、1対6だった。
伊丹はベンチの端で、スコアボードを見ていた。
五点。
残りは二回。
簡単に返せる点差ではない。
「監督」
相沢が隣に来た。
「Kを、一打席いいですか」
「この状況でか」
「この状況だから、です」
伊丹は相沢を見た。
「倉橋から打った打席は、もう向こうに渡ってます」
「だろうな」
「研究された後の打席を、一度見ておきたい」
伊丹は腕を組んだ。
真壁が、少し離れたところからこちらを見ている。
Kには、二日後に次の先発が控えていた。
「一打席だけだ」
「はい」
二死、走者なし。
九番、岩瀬の打順だった。
「K」
伊丹が言った。
今度は、ベンチはざわつかなかった。
スタンドだけが、先に沸いた。
*
竹田はベンチに腰を下ろし、マスクを膝に置いた。
Kが左打席へ向かう。
バイソンズのベンチから、投手コーチが出てきた。
球審に何かを告げる。
『ピッチャー、野々宮』
左腕が、ブルペンから小走りで出てきた。
五点差の八回、二死、走者なし。
打者一人のために、わざわざ左を出してきた。
「……おいおい」
隣で大島が言った。
野々宮が投球練習を終える。
Kが打席に入った。
右足が、わずかに開く。
野々宮がセットに入った。
持つ。
まだ投げない。
竹田は、Kの足を見ていた。
右足が、内へ戻った。
野々宮は、まだ動いていない。
戻した足のまま、Kが待つ。
ようやく、野々宮の腕が動いた。
外角の直球。
Kは見送った。
「ストライク!」
ノーボール、一ストライク。
竹田は眉を寄せた。
二球目。
野々宮がセットに入る。
今度は、持たなかった。
足をほとんど上げずに、すぐ投げてきた。
Kの右足が、戻りきる前だった。
外のスライダー。
バットが追いかける。
当たりの弱いファウルが、三塁側へ転がった。
ノーボール、二ストライク。
スタンドから、ため息が漏れた。
三球目。
野々宮が持つ。
長い。
Kの右足が戻る。
野々宮は、そこでプレートを外した。
Kも打席を外す。
バットを一度、握り直した。
竹田は、そこで気づいた。
「足が、投げる前に戻ってる」
「何?」
大島が聞き返した。
「あいつ、投手が動いたら足を戻すんです。向こう、そこに合わせて持つ長さを変えてる」
大島は打席を見た。
竹田は、自分がサインを出す側にいるときのことを考えた。
足で間を取る打者がいたら。
自分でも、同じことをする。
持って、外して、また持つ。
正面から投げて打たれるより、そっちの方がずっと楽だからだ。
Kが、もう一度入る。
野々宮がセットに入った。
さっきより、さらに長く持つ。
Kの右足が戻った。
まだ投げない。
Kの身体が、わずかに前へ出かけた。
そこで、野々宮の腕が動いた。
内角のスライダー。
Kは踏み込めなかった。
バットだけが出た。
空振り。
「ストライク! バッターアウト!」
三塁側から、歓声が上がった。
野々宮は、捕手の瀬戸とグラブを合わせることもなく、ベンチへ戻っていった。
Kは打席に残っていた。
ほんの一瞬だけ、野々宮の背中を見る。
それから、ベンチへ歩き出した。
*
Kが戻ってくる。
「左、わざわざ出してきたぞ」
大島が言った。
「五点差で」
伊丹はグラウンドを見たまま答えた。
「今日の一打席も、向こうのデータになったな」
相沢は、手元のノートに何かを書いていた。
「見たかったのは、これです」
「で、どうする」
「今日は何もしません」
相沢はノートを閉じた。
「本人が、これをどう受け取るか。それを見ます」
伊丹は短く息を吐いた。
「悠長だな」
「打者を直すのは、急ぐと壊れますから」
Kはベンチの奥に座り、タオルを膝に置いた。
首を振ることも、うなずくこともしなかった。
竹田はKを見た。
声をかけようとして、やめた。
九回表、秋山が無失点で抑えた。
九回裏、フェニックスは三人で終わった。
1対6。
試合後のロッカーで、竹田はKの椅子を見た。
誰も座っていなかった。
Kは、誰よりも早くロッカーを出ていた。
いつもなら、映像室に寄っていく。
その日は、まっすぐ駐車場の方へ向かったと、通路にいたスタッフが言った。
*
翌朝、相沢はいつもより一時間早く球場に入った。
昨夜のノートを、室内練習場で見返すつもりだった。
扉を開けると、打球音がした。
まだ誰も来ていない時間だった。
Kが一人で、ティーの前に立っていた。
相沢は声をかけずに近づいた。
Kが構える。
右足が開き、戻り、踏み込む。
打つ。
また構える。
足元の人工芝が、そこだけ深く擦れていた。
前足を置く位置に、跡がいくつも重なっている。
少しずつ、ずれている。
相沢は、Kの近くに行こうとして、やめた。
昨夜、何も言わなかったのは自分だった。
本人がどう受け止めるか、先に見る。
その答えが、これだった。
教わったであろう入り方を、一晩で、自分の手で組み替えにいっている。
負けた打席を、そのままにしておけない選手なのだ。
相沢にも、そういう朝があった。
間を変えられるたびに、足が止まった年だった。
コーチに形を直されて、一度は打てた。
相手が変えてくると、また打てなくなった。
最後に残ったのは、自分で見つけたものだけだった。
答えなら、いくつか知っている。
言えば、今日は打てるかもしれない。
相沢が呟く。
「……やりすぎだ」
Kが振り向いた。
手の中のバットは、まだ下ろしていなかった。
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