4


 私に休みの日はない。

残された少ない時間の中で、休んでいられる日など一日たりともありはしないからだ。

だから土曜日の今日も学校の指定服たる制服を身に纏って、こうして玄関を出た。


「あら、橘花ちゃん。おはよう」


 時を同じくして、玄関から出てきたのは隣に住む奏多くんのお姉さん。


「おはよう美影ちゃん。アルバイト?」


 美影ちゃんはどちらかと言えば引きこもり体質だ。

そんな人が休日に外出するのだから、要件はそれくらいしかないと思う。

女の子は何かと入用が多いのだ。


あれ、入用って言葉の使い方あってるっけ?

今度、奏多くんに聞いておこう。


「まぁ、そんなところかな。あれ、奏多はとっくの昔に出ていったけど?」


 美影ちゃんは不思議なことを言う。


「うん?」


だから私は首を傾げた。何のことか分かっていない様に。


「奏多とのデートじゃないの?」


 すると、美影ちゃんも首を傾げながら言った。


「へ?」


 わざと間抜けな声を出してみた。

まだまだ演技力には難があると思う。

もっと上手に演じられるようにならないと……。

奏多くんを騙し通せる位に。


「あれ?」


 美影ちゃんの困惑は収まらず、表情が曇っていく。


「奏多くん、デートに行ったの?」


 本当は全て知っている。


「……たぶん。本人から直接聞いたわけじゃないけど……」


 何も知らない美影ちゃんは私に気を使ってくれているんだと思う。


「そう、なんだ………」


知らないフリをするしか私にはできない。

学生鞄の紐をぎゅっと握り、ため息をついてみせた。美影ちゃんには悲しみのため息に見えただろう。

私からすれば安堵のため息だ。


「あの、橘花ちゃん……」

「あ、ごめん! 私部活だから! じゃあね!」


 これ以上は美影ちゃんを辛くさせるだけだ。

言葉を遮ってでもこの場を離れるべきだ。


「あ、うん……頑張ってね」


私は小走りで階段へ向かった。


「何やってんのよ……奏多」


 美影ちゃんの奏多くんを責めるような言葉は、微かに私の耳にも届いた。

それでも振り返らずに階段を駆け下りる。


 私は走った。


いつもの通学路を。

桜の並ぶ府道沿いを。

用水路に架かる橋の上を。

何度も奏多くんと歩いたこの道を。


床屋の角を曲がり、学校までの一本道をまた走る。

これから何度も通るはずだった通学路。

何度だって奏多くんと並んで歩きたかった通学路。

悔しさを噛みしめながら、息が切れるのを堪えながら、ただひたすらに走った。

あのピアノが置かれた音楽室を目指して。


未来を失った私に、奏多くんの未来を縛ることはできない。

してはならない。

現実からの逃避をしたいわけではない。横断歩道の赤信号が私の進路を遮断した。


「はぁ……はぁ……」


 息が切れて苦しい。心臓が痛くて涙が浮かぶ。

両脚は今にも攣りそうだ。

もどかしさを堪えて、道端の小石を蹴り飛ばした。

思ったほど飛ばず、2、3回くらい転がっただけだった。


「……くっ」


 唇を痛いほど噛んだ。

いっそ血でも流れてくれればいいと思った。


「こんな所で石蹴りは止めなさい。車に当たりでもしたら危ないわ」


 聞き覚えのある冷たい声だ。


「……梓さん」


「随分と苦しそうな顔をしているけれど、大丈夫なの?」


 私は急いで額の汗を拭って、乱れた呼吸を整える。


「だ、大丈夫です……」

「……そう」


 梓さんは真っ直ぐと赤信号を見つめた。

その横顔には何の感情も宿っていないように見える。私も梓さんと同じように赤信号を見つめていた。

一向に変わる気配が無い。


「……」

「……」


 沈黙の気まずい時間が流れる。

その間に何台もの車を見送った。

一体いつになったら信号が変わるのだろうか。


「ねぇ。ちょっと聞きたいんだけど」


 永遠とも思えるような時間は、梓さんよって閉じられた。

実際には5分も経っていないけど。


「なんですか」

「……瑠璃と冴羽って本当に付き合っているの?」


 梓さんがそこを気にするのは、初めから分かっていたこと。


「そうみたいですね。いつからかは知りませんけど」


 なるべく淡々を答えておく。


「それはあなたの本心なの?」


 質問の意味が分からない。

何故そこに私の心が関係あると考えたのだろうか。


「瑠璃さんと冴羽先輩の二人の問題です。私には関係ありません」


 梓さんに言ったはずの言葉が、自分にチクリと突き刺さった気がした。


「……そう。それがあなたの選択なのね」


 バレてる……?

瑠璃さんが漏らした?それとも勘が良いだけ?


「……」

「瑠璃だけが嘘を吐いてないってわけね……」


 背筋に嫌な汗が流れた気がした。

全てが無駄に終わってしまうような不安が襲ってくる。


「どういう——」

「ちなみにここは押しボタン信号よ」


 問いただそうと梓さんの方を見た瞬間、私の目の前には梓さんの姿があった。

そのまま右隣の電柱の黄色い箱の赤いボタンを押す。


すぐに黄色の点滅になって、赤信号に変わった。

さっきまで通り過ぎていた車たちが一斉に停まっていく。


「本当にあなたって馬鹿なのね」


 梓さんは私の耳元で囁いたあと、青信号に変わった横断歩道を堂々と歩いて行った。

私が呆然と立ち尽くしていると、また歩行者信号は赤に変わってしまった。

停まっていた車たちが目の前を走り去っていく。

その風が私の前髪を揺らしている。


焦りと恐怖が私を赤信号の前に縛り付けていた。


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