黒炎の崩壊破

Tomsug

その技、正式登録されました

始まりは、ほんの軽い結膜炎だった。


朝から右目の充血とかゆみを訴えたキアラのために、フロティア森公家にはすぐ治療師が呼ばれた。診察の結果、幸い症状は軽く、薬を使いながら数日はなるべく強い光を避けて過ごせば問題ないという。


治療師はキアラの右目を白い布で覆い、「数日はこちらをつけてお過ごしください」と告げた。


「……眼帯」


「はい。目を刺激から守るためのものです」


キアラは鏡を見た。


十二歳。フロティア森公家の一人娘。普段は大人しく、一人で静かに過ごすのが好きそうに見える少女である。


あくまで、見えるだけだった。


「……ククク」


治療師が帰ったあと、キアラは鏡の前でもう一度、自分の姿を確認した。片目を覆う白い布。ただそれだけのはずなのに、鏡の中の自分を見つめるうち、口元がゆっくり持ち上がっていく。


「ついに、この『力』が覚醒する時が来たのね……」


来てしまった。


十二歳の厨二病魂に、火がついた。


その日の午後には、白い眼帯の上から黒い布が重ねられ、肩には黒いマントが掛けられていた。


カーテンを半分閉じた薄暗い自室で、キアラは窓辺に立ち、物憂げに遠くを見つめている。そこへ、ノックより先に扉が開いた。


「キアラ〜! パパとお茶しよ〜!」


父、ルカ・フロティア。


王弟にしてフロティア森公。頭の回転が非常に速い天才肌で、新技術と未知の文化に目がなく、必要な時には周囲の状況まで冷静に見渡せる男である。


ただし、一人娘に関してのみ、その知性は著しく役に立たない。


キアラはゆっくり振り返り、右目の眼帯にそっと手を当てた。


「……お父様。今の私に、近づかないで」


「ん?」


「この眼に宿った『黒き焔』が暴走すれば……お父様すら、焼き尽くしてしまうかもしれないから」


言い終えると、キアラはふっと切ない笑みを浮かべ、再び窓の外を見た。


数秒の沈黙。


「うわぁぁぁ可愛い!! 今のもう一回言って! 待って、書くから! 黒き焔だよね!? 右目!? 焼き尽くす!?」


「お父様!?」


ルカは懐から何か書くものを探し始め、「もう一回! 今度はちょっとこっち向いて!」と大興奮である。


キアラが真っ赤になって「やだってば!」と拒否していると、部屋の外から深いため息が聞こえた。


「あなた」


妻のアリアだった。


人間国の辺境伯家で育った、ルカの数少ない完全なストッパーである。ルカの動きが止まった。


「……はい」


「やめなさい」


「でも今のすごく良かったよ!?」


ぱしっ、と後頭部を軽く叩かれ、ようやくルカは黙った。アリアはそのまま娘を見る。


「キアラも。目を休ませるんでしょう?」


「……これは封印のために必要なの」


「はいはい」


アリアは慣れていた。


娘にも。


夫にも。


それから二日後。


キアラの目は順調に回復していた。


ただし、厨二病は順調に悪化していた。


その日、フロティア領では新しい魔導機械の実証実験が行われることになっていた。


浮空樹(フロティア)由来の素材と、ドワーフ側の技術を組み合わせた大型作業機械。重量物の運搬や耕作への利用を想定した新型機で、開発の中心にいるのは、もちろんルカである。


「今日は絶対面白いよ!」


朝から上機嫌な夫を見て、アリアは胡散臭そうに目を細めた。


「暴走しないでしょうね」


「しないしない。今回は大丈夫」


「前も聞いたわ、その言葉」


「今回は本当に」


「だから信用できないのよね」


少し離れたところでは、黒い眼帯と黒マント姿のキアラが腕を組んでいた。


「……機械など、人の手で作られた仮初めの力にすぎないわ」


「キアラ今日も最高だね!」


「あなたは煽らないの」


アリアの手が再びルカの後頭部へ飛んだ。


ちなみに、その黒マントの下には、父の書斎から拝借した一本のブレスレットも忍ばせてあった。


まだ未完成の試作装置である。


では、なぜ持ってきたのか。


見た目が、なんとなくそれらしかったから。


そんなものである。


実験場には技術者や騎士だけでなく、多くの領民も見学に集まっていた。


やがて巨大な機体がゆっくりと動き出し、あちこちから歓声が上がる。滑り出しは順調で、ルカも満足そうに機体を眺めていた。


ところが、機体内部から突然、鈍い音が響いた。


続いて嫌な振動が走り、制御盤の魔石が一斉に明滅する。


「ん?」


ルカの顔から笑みが消えた。


次の瞬間、機械が大きく跳ねるように加速した。


「止めろ!」


技術者が叫ぶ。しかし、機械は制御を受け付けず、煙を吹きながらまっすぐ領民たちのいる方向へ走り始めた。


騎士たちが前へ出る。アリアはすぐさま人々を避難させ、ルカは制御盤へ向かって走った。


その時だった。


「下がっていなさい、凡俗ども」


声は、上から降ってきた。


全員が見上げる。


実験場脇にある低い建物。その屋根の上で、黒いマントが風をはらんでいた。


「……我が封印を解く時が来たようね」


「キアラ!?」


ルカの声が裏返った。


大仰な台詞とは裏腹に、キアラの視線は暴走する機体と、逃げる領民たちとの距離を正確に追っていた。


次の瞬間、キアラは屋根から飛んだ。


「キアラァァァ!!」


今度はアリアの叫びが響く。


本人は華麗に着地したつもりだった。実際には勢いを殺しきれず二歩ほどよろけたが、すぐに何事もなかったような顔で立ち直る。


十二歳の厨二病に、細かい現実は通用しない。


機械はまだ領民のいる方向へ進んでいる。騎士たちも食い止めようとしているが、このままでは間に合わない。


キアラは黒マントの内側から一本のブレスレットを取り出した。それを見た瞬間、ルカの顔色が変わる。


「ちょっと待って、それ僕の書斎にあったやつ!?」


「借りたわ」


「それ未完成なんだけど!」


「知ってる」


「知ってて持ってきたの!?」


キアラは答えなかった。


父の書斎で何度も見ていたので、これが魔導機械へ強制停止信号を送るための試作装置だとは知っていた。停止信号そのものは完成しているが、出力調整と安全機構はまだ未完成である。


それでも、今ここで機械を止められる可能性があるのは、この装置だけだった。


キアラは右目を覆っていた黒い眼帯へ手をかけた。


「キアラ! それは外さない方が――」


アリアの声が届くより早く、眼帯が宙を舞った。


「響け、我が血のレクイエム!」


もう誰も止められなかった。


いろいろな意味で。


「――『黒炎の崩壊破(バースト・エンド)』!!」


キアラがブレスレットのスイッチを押す。


強制停止用の魔導信号が放たれた。


だが、一瞬。


何も起きない。


キアラの額に汗がにじんだ、その時だった。


ガガガガッ! と大きな音を立て、暴走していた機体が激しく揺れる。そのまま数歩分ほど進み――ぴたりと止まった。


実験場に静寂が落ちた。


煙だけが、ゆっくりと空へ昇っている。


「……止まった」


誰かの呟きをきっかけに、領民たちから一斉に歓声が上がった。


キアラはゆっくり腕を下ろし、不敵に笑う。


「ふう……力を使いすぎたわ。どうやら、魔力が枯渇したようね……」


そう言い残して、ふらりと身体を揺らした。


そして、その場に倒れた。


「キアラ!!」


アリアとルカが同時に駆け寄り、医務担当まで慌てて飛んでくる。


数分後、診察した治療師は静かに告げた。


「……ただの息切れですね。運動不足でしょう」


キアラは目を閉じた。


聞こえなかったことにした。


その日の夕方。


フロティア森公家の屋敷には、アリアの叱責が響いていた。


「キアラ! 危ない真似をして、もし怪我でもしたらどうするの!」


「でも――」


「でもじゃありません。未完成の道具を勝手に持ち出して、屋根から飛び降りて、治療中なのに眼帯まで外して!」


反論する隙を与えない勢いに、キアラはしゅんと肩を落とした。


「……はい」


「領民を助けようとしたことは立派よ。でも、自分まで怪我をしたら意味がないでしょう?」


「……はい」


そこまで言ったところで、アリアの目からぽろりと涙が落ちた。


「本当に……無事でよかった……」


抱きしめられたキアラは少し気まずそうに視線をさまよわせたが、母の腕を振りほどくことはしなかった。


しばらくして部屋を出たアリアを、廊下でルカが待っていた。


「……怒ったの?」


「あなたもです」


「僕も?」


「未完成品を、十二歳の娘が簡単に持ち出せる場所に置いていたでしょう」


「あ」


「あとで話があります」


「はい……」


しゅんとした夫を横目に、アリアは一度だけキアラの部屋を振り返った。


「……でもね」


「ん?」


「あの子が屋根から飛び降りた時の身のこなし、昔の私にそっくりだったわ」


その声は、ほんの少し嬉しそうだった。


ルカの顔がぱっと輝く。


「でしょ!? 僕も思った!」


「あなたは今、反省してて」


「はい」


その二日後。


キアラはまだ黒い布を重ねた眼帯をつけたまま、自室のベッドで本を読んでいた。


勢いよく扉が開く。


「キアラ! できた!」


ルカが満面の笑みで一枚の書類を差し出した。


「……何が?」


「これ!」


受け取ったキアラが、書類の名称欄を見る。


《魔導機械緊急停止機構――黒炎の崩壊破》


キアラの目が止まった。


「……これ、本当に?」


「もちろん! 正式に技術登録したよ」


もう一度、書類を見る。


黒炎の崩壊破。


正式名称。


技術登録済み。


この先、この機構が使われ続ける限り、その名も残る。


「……そう」


キアラはできるだけ平静を装って書類を返した。


「まあ……妥当な名称ね」


「だよね!」


「別に……悪くないと思う」


「やった!」


ルカは満面の笑みを浮かべている。


キアラはふいっと顔を背けた。その口元が少しだけにやけていたことを、父はしっかり見ていた。


その夜。


キアラは机の引き出しから、一冊の黒い帳面を取り出した。表紙には銀の文字で、こう記されている。


――『黒焔黙録』。


新しい頁を開き、キアラは静かにペンを走らせた。


《第八章――暴走機兵と、封印されし黒炎の崩壊破》


そこで一度ペン先を止め、少し考えてから、その下に小さく追記する。


《なお、この技は正式登録された》


その一文をしばらく眺めたあと、キアラはそっと周囲を確認した。


誰もいない。


「……ふふ」


ちょっとだけ笑った。

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