陽が降る日に〈6〉
漸く私は家に帰って、ベッドに雪崩れ込む。小学進学と同時に始めた一人暮らしは困難の連続。判らない洗濯機の使い方、毎日作るパスタ、汚い部屋。どれをとっても辟易とするような生活環境だった。
今日は食べる気になれないな、と私はそのままこの一日を眠りとおすことを決める。頭の周りで天使が「明日の用意は!?」とか「食べないと体調が…!」とか言っているが、悪魔が出ることなく私はこのまま動かざるものになる。
私がもう一度この世に帰ってきたのは、電話のコールの音のせい。折角夢の世界への身支度を済ませていたというのに。私は初め、コール音に対して無視をしていたものの、根気強く鳴り続ける騒音に私はしびれを切らした。
「もしもし」僕は明らかに不機嫌そうに言う。
「あら、何かあったの?酷い声をしている」茉莉だった。
「ああ、寝かけてただけ」
「そうなの、それじゃ、少し話してもよろしい?」
僕は黙って肯いて、それから少し沈黙が下りて、茉莉が目の前にいないことに気付き、「うん」と捻り出す。
「タニダ君は明日の準備した?」
「まだしていないな」
「しないとだめよ、もう遅いのに」天使がこちらを勝ち誇った顔で見ている。
「それがどうしたの」
「シラバスを見たのだけれど、明日は退屈な日になりそうね」
「退屈?」
「ええ、教科書が配られて、その教授の自己紹介をして…。考えただけで退屈だわ」
「まあ、楽だからいいじゃない」
「『楽』より『楽しみ』たいの」
それから、私は茉莉と30分ほど話した。クラスの人間のこと、今までの生い立ちのこと、そしてこの世がおかしいということ。
「そもそも、なんで大学から始まって小学で終わるのよ、普通逆でしょう?」
「俺の普通と君の普通は随分違う」
「そういえばそうね」茉莉は笑う。電話越しでも判った。
茉莉がこの世に違和感を抱いたのは、大学2回生の頃からで、このことを初めは親に相談したが、精神科に飛ばされそうになったため、慌てて冗談だと隠した。それからずうっと茉莉はこの呑み込めない違和感を抱えて、抑えて、隠してきたらしい。
そうして今日、私を見た時に茉莉は抑えていた違和感が突如活性化して、私に近づいて、関わるという今までの普通の穏便な生活を求む茉莉には考えられない暴挙に出たらしい。
「どうしてみんなはこの世の方がおかしくて、全てがあべこべだって思わないのかしら」
「この世の方が正しいと証明できるから?」
「その証明に用いるものさえ歪んでいたら?歪んだ物差しで四角を書いても、それは四角と証明できるのかもしれないけれど、実際は四角じゃないかもしれないじゃない?どうして根底が歪んでいるって思わないのかしら?」
「頭が痛くなってきたよ」
「もっと柔らかくしなさい」
茉莉は、今までこうやって衝動を抑えてきたおかげで、友達もいて、元カレも何人かいて、セックスもしたことがあった。(本人はそう言っているけれど、私にはそもそも茉莉に魅力があるからだと思う)
「何人かの元カレには、この衝動を、この発見を共有したことがあったの。でも、それが原因で別れた。いっつもね」
「まあ、そりゃそうだ」
「タニダ君はそうしないの?」
「そうって?」
「私を見捨てる」
「うーん、別に」
「そう」
そしてしばらくの沈黙が訪れ、「私、もう寝るわ、また明日」と電話を一方的に切った。この50分余りの茉莉の口は、寒い寒い赤道付近の氷のようになめらかで、よく滑って、回った。これも、活性化した衝動の爆発なのだろうか、そう思いながら私は明日の支度をしていた。
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