第10話 人間初の亡命者
夜明け前。ファントム王国の南西国境。
『グルル……』
見張りをしていたグレイウルフが、ピクリと鼻を動かした。
血の臭い。泥の臭い。そして――人間の臭い。
森の外へと続く街道。
そこに、一人の少女が倒れていた。
『……』
年は十五、六歳ほど。
淡い金髪の少女は、かつては豪華だったであろうドレスを泥まみれにし、あちこち破れた裾から覗く裸足の膝には生傷と血がにじんでいる。細い手首には、痛々しい赤い縄痕……
少女は震えながら、おずおずと顔を上げた。
「ここ……」
『…………』
「ファントム……王国……?」
グレイウルフは首を傾げる。
少女は縋るように震える声を絞り出した。
「お願い……助けて……」
その瞬間、遠くから、何頭もの馬の足音が地響きのように迫ってきた。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
「侯爵令嬢を確保しろ!」
少女の顔色が、一瞬で真っ青に染まる。
「いや……嫌……!」
這いつくばるように後ずさる少女の前に、グレイウルフが低い唸り声を上げながら一歩進み出る。
『グルルルル……』
「なんだ、この野良犬め!」
「退け!」
現れたのは十数名の騎兵たち。その胸にはアルベリア王国の紋章が刻まれている。
先頭を走る騎士が、ギラリと抜身の剣に手をかけた。
「その娘は我が国の貴族だ!」
『グルル……』
「こちらへ引き渡せ!」
『…………』
「聞こえているのか!」
グレイウルフの背後で、少女がか細く叫んだ。
「帰りたくない……」
『……』
「お願い、連れていかないで……!」
グレイウルフがチラリと少女を見る。
そして……
『ウォォォォォォォン!』
森を揺るがす警戒の遠吠えが響き渡った。
「なっ、まずい!」
「警戒信号だ! 早く確保しろ!」
一人の騎士が馬を躍らせて突っ込んできた。
だがその瞬間、地面を這う黒い影が伸び、馬の足元をピタリと捕縛した。
「なっ!?」
そして、静まり返る森の奥から、重々しい足音が響く。
『グオオオオオッ!』
「「「…………っ!」」」
ゴルガが、堂々と登場した。
「ご、剛角王……!」
『グオ!』
さらに上空では『ギャァァァ!』と鳥型モンスターの群れが旋回し、木々の間から無数の狼、熊、昆虫型の魔獣たちが次々と姿を現す。
「撤退するか……!?」
「だが令嬢がまだっ!」
そのとき、緊迫した空気を切り裂くように、呑気な声が降ってきた。
「――朝から、うるさいな」
全員の動きがピタリと止まる。
森の影から、黒いローブと銀の角を生やした男が、あくびを噛み殺しながら歩いてきた。その頭には、黒い王冠が乗っている。
「…………」
ファントム王国の王、ファントムロード。
「何してんの?」
俺は眠そうに目をこすった。
◇◇◇
「……えっと」
状況を整理しよう。
少女:一人。
追手の騎士:十七人。
ゴルガ:ご機嫌ななめ。
狼たち:臨戦態勢。
俺:とにかく眠い。
「で、誰?」
俺は震える少女を覗き込んだ。
少女は恐る恐る俺を見上げる。
「わ、私は……リゼット・アルヴェインです……」
「リゼット」
「はい……」
「どうしてここに?」
「逃げて……きました……」
そこへ、追手の騎士長が馬を進めて割って入ってきた。
「ファントムロード陛下!」
「陛下やめて」
「…………」
「それで?」
「その娘はアルヴェイン侯爵家の令嬢、我が国の臣民です。よって、その身柄を速やかに返還していただきたい」
「…………」
俺はリゼットに視線を落とした。
「帰りたい?」
「嫌です!」
即答だった。
「お嬢様! 侯爵閣下がお待ちです!」
「嫌! 帰りません!」
「婚姻はすでに決定しております!」
「嫌だって言った!」
「これは家のためです!」
「嫌!」
俺は耳をほじりながら、騎士長を見た。
「帰りたくないって言ってるけど?」
沈黙。
「陛下……いや、レイス殿。これは我が国の内政問題です」
「そうなの?」
「はい」
俺はリゼットを見る。
「でも、今、うちにいるよ?」
そう告げた瞬間、騎士の顔が固まる。
「国境を越えた以上、ここは俺たちのところだろ? なら、ここのルールで決めればよくない?」
騎士長が必死の形相で声を絞り出す。
「我々にも事情があるのです。レイス殿、どうか話を聞いてください」
「聞くよ。まず本人から」
そう言うと、騎士はポカンとした表情を浮かべる。
「……はい?」
「だから、本人に話を聞くってば」
俺はリゼットに向き直る。
「何がそんなに嫌なの?」
「…………」
俯く少女の手が震えている。
「言いたくなければ、言わなくてもいい……でも助けてほしいなら、何から逃げてるかくらい教えて?」
せめて理由くらいは知っておきたい。
そう告げると、リゼットは唇を噛み締めながら答える。
「……婚約です。父が私を五十八歳の伯爵に嫁がせると」
「…………」
なんだか、すごい答えが返ってきた。
俺は少女の年齢を尋ねる。
「一応、年齢聞いていい?」
「十六です」
「…………」
俺が騎士たちに視線を向けると、騎士たちが気まずそうに目を逸らした。。
「それだけではありません」
リゼットがドレスの袖をまくりあげる。
そこには、痛々しい青あざが幾重にも刻まれていた。
「断ったら部屋から出してもらえなくなりました……」
手首には、縄の痕。
「食事も二日に一回に減らされ、逃げようとしたら捕まって、次は地下牢に入れると……」
逃げた時にできた傷なのだろう。
足の痣が痛々しい。
リゼットはさらに告げる。
「そして、昨日、結婚式の日が決まって……だから逃げました」
泣きながら答える少女。
これはマズいと思った騎士が慌てて声を荒げる。
「し、しかし、貴族の婚姻は政治です! 個人の意思だけで決められるものではありません! 侯爵令嬢には家門に対する責任が……!」
「知らない」
「……は?」
俺の答えに、騎士は唖然とした表情を浮かべる。
「俺は貴族じゃないし、家門に対する責任も知らない。ただ……」
俺はリゼットを見る。
「この子、嫌だって言ってるよ? なら帰さなくていいんじゃない?」
その瞬間、空気が凍り付いた。
「そ、それは……」
騎士の顔が青い。真っ青だ。
「……亡命を正式に認めるということですか?」
「亡命?」
「他国の臣民を意思のみで保護することです」
「……そうなの?」
「そうです! そうなれば国際問題に発展します!」
「それは、面倒だな……」
「面倒で済みません!」
俺は頭を掻きながら、リゼットに視線を向ける。
「じゃあ帰る?」
「嫌です!」
「だよな……じゃあ無理」
「なぜ!」
「本人が嫌だって言ってるから」
「そ、それだけの理由で国交を……!」
「十分じゃない?」
俺は本気で分からない。
「契約もそうだけど、嫌がってる奴を無理やり連れていく方が変じゃない?」
騎士長は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
その後ろで、若い騎士のひとりが気まずそうにうつむいたのが見えた。
◇◇◇
「――++レイス殿」
騎士長は深呼吸をひとつし、覚悟を決めたような目を向けた。
「最後に確認します」
「うん」
「アルヴェイン侯爵家は、王国でも有数の名門。当主は国王陛下にも影響力を持つ方です」
「そう」
「この娘を庇えば、先日の友好条約そのものが揺らぐ可能性があります」
「…………」
せっかく結んだばかりの条約が面倒なことになるのは嫌だ。
だが、俺はリゼットに目をやった。
「…………」
彼女はブルブルと震えながら、ゴルガの毛並みを必死に握りしめている。
あまりにも怯えていて、正直、見ていられない。
「……はぁ」
俺は大きくため息をついた。
「じゃあ、王様に伝えて」
「何と伝えるのです?」
「この子は返さないって」
「……!」
「少なくとも、本人が帰りたいって言うまでここに置く」
「ですが、それはっ!」
「――どうしても連れ戻したいなら本人を説得して。俺じゃなくてこの子を……それだけ」
騎士長はギリッと歯噛みし、やがて悔しそうに拳を握り締めた。
「……承知しました」
そして、深く一礼する。
「この決定、本国へ包み隠さず報告いたします」
「よろしく」
騎士たちが引き揚げていく。
その最後尾で、あの若い騎士が一度だけ振り返り、リゼットに向けて小さく頭を下げる。リゼットは驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。
◇◇◇
騎士たちの姿が見えなくなる。
「終わった?」
『グオ!』
「よし」
俺はリゼットに向き合い、優しい口調で言う。
「それじゃあ、病院に行こう」
「え?」
「怪我、ちゃんと治さないと跡が残る」
「あ……」
「プルル呼ぶ?」
そう言って指を鳴らすと、背後から「プルー!」と愛らしい声が聞こえてきた。
「いつからいたの?」
『プル!』
「そう」
プルルがトコトコと駆け寄り、リゼットの傷だらけの手足にそっと触れる。
次の瞬間、眩い緑の光が包み込み――リゼットは丸く目を見開いた。
「痛く……ない」
『プル!』
「あ、ありがとうございます……!」
リゼットが涙ぐみながらプルルのお礼を言うと、プルルは嬉しそうに体を揺らした。
「それで、住むところだけど、どこか空いてる家ある?」
『グオ!』
ゴルガが地図を指差す。
「人間用居住区?」
『グオ!』
「そんなのいつの間に作ったの?」
『グオ!』
確かに最近、商人や職人、行き場を失った人間がポツポツと住み始めているエリアがある。
「じゃあ、そこを使って」
「…………」
リゼットは信じられないものを見る目で俺を見上げる。
「……本当に、ここにいていいんですか?」
「いいよ」
「何も求めないんですか?」
「何を?」
「私は侯爵家の人間で……」
「そういうの、いらない」
俺は肩をすくめる。
「ここだと、その肩書は何の役にも立たないし、とりあえず、ご飯食べて、寝て、落ち着いてから何するか考えればいい」
「…………」
「働きたいなら働けばいいし、休みたいなら休めばいい。そして、帰りたくなったら帰ればいい」
その瞬間、リゼットの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
なぜ泣いたのかわからず、俺は焦る。
「え、なんで泣くの? 俺なんかした?」
『キュ』
俺はミツキと顔を見合わせる。
『キュ……』
「その顔やめて」
リゼットは袖で涙を拭いながら、力強く首を横に振る。
「違います……こんなふうに、自分の人生を自分で決めていいって言ってくれた人……初めてだから……」
俺は頭を掻く。
「自分のことなんだから、自分で決めるのは当たり前だろ」
前世の感覚からすればごく普通の言葉だが、彼女にとっては救いの言葉だったようだ。
◇◇◇
その頃、アルベリア王国の王都にあるアルヴェイン侯爵邸では……
「なっ、なんだとっ……!?」
侯爵の怒鳴り声が屋敷を揺るがした。
「リゼットを返さないだと!?」
「はい。ファントムロードは、本人が帰還を望まぬ限り保護すると……」
「ふざけるな!」
侯爵は物を床に叩きつける。
「リゼットは私のものだ! 娘が父親の命令に従うのは当然! まして婚約は我が家の利益のためだ! 亡霊ごときが勝手なことをっ!」
騎士団長の顔がわずかに曇る。
「しかし、閣下。相手はファントムロードです。敵対すれば……」
「だから何だ! 私は王宮へ行く! 国王陛下に命じて、あの化け物から娘を力ずくで取り戻してやる!」
そう声を荒げると、侯爵は、国王との面会を求め、宮殿へと向かった。
◇◇◇
「返還要求?」
国王は侯爵が出してきた書類を見て呟く。
「娘は誘拐されたも同然です! この国の王として今すぐ我が娘をあの亡霊から取り戻して頂きたい!」
リゼットが誘拐されたと聞き、外交官のセレスティアの眉が動く。
「誘拐ですか? 報告では自ら国境を越えたとありましたが……」
「子供の戯言です!」
「十六歳の言葉が子供の戯言ですか?」
「未成年なのだから当たり前です! そもそも、他国が我が国の貴族を勝手に保護するなど、あってはならないことです!」
外交官のセレスティアは、怒りに任せ暴走する侯爵を一瞥し、国王に進言する。
「陛下。ファントムロードは最初からそういうお方です。貴族だから、平民だからという物差しを持っておりません」
国王が目を細める。
「……ふむ。つまり、彼にとっては、侯爵令嬢もただの一人の人間にすぎんということか」
「…………」
侯爵令状をただの人間扱いされたことに、侯爵は怒り狂う。
「陛下! 今の侮辱発言は看過できません! 訂正してください!」
セレスティアはため息を吐きながら告げる。
「違います。むしろ、その逆で、ファントムロードは彼女を侯爵家の所有物ではなく、一人の人間として扱っているのです」
セレスティアの発言に宮殿内が静まり返り、大臣のひとりが青ざめた顔で声を震わせた。
「し、しかし、前例がありません。もしこれを認めてしまえば、農奴も奴隷も、不満を持つ者すべてがあの国へ逃げ出してしまいます!」
国王は静かに眼鏡のブリッジを押さえる。
「……ならば、民が逃げたくならぬよう、まともに扱えばよいのではないか?」
王の言葉に、その場にいる全員が固まる。
そんな中、セレスティアは小さく笑い呟いた。
「陛下。ファントムロードと同じ考え方となっています」
国王は額を押さえながら言う。
「それは褒められているのか? まあいい」
国王は少し目を瞑り、侯爵に視線を向けた。
「……返還要求は出さない」
「陛下!?」
「かの国との友好条約を一侯爵家の婚姻で破綻させる気はない」
「しかし!」
「だが、それでは、侯爵があまりにも不憫だ。なので、正式な使節団を送り本人の意思を確認する。その上で、本人に帰還意思があるなら帰国させる」
「あの娘に帰還の意思などありません!」
「本人に確認もせず、なぜ分かる?」
「私があの娘の父親だからです! 娘の気持ちなど手に取るように……」
国王が侯爵に冷たい視線を向ける。
「ならばなぜ……娘はお前から逃げた? 娘の気持ちがわかるのだろう? 言ってみろ」
「そ、それは……」
政略結婚させたいからだなんて、そんなこと、言えるわけがない。
「まさかと思うが、このワシが何も知らぬと思っているのか……」
「…………」
結果、国王は侯爵の身勝手な返還要求を退け、正式な使節団を派遣して「本人の意思を確認する」という妥協案を下したのだった。
◇◇◇
三日後。
俺ことレイスは自治区の畑でミツキと共に芋を掘っていた。
「お、でかい」
『キュ!』
畑で芋を掘りながらミツキと戯れる。
なんて平和なんだ。
俺が微かな幸せを噛み締めていると……
「レイス殿ぉぉぉ!」
そう声を上げながら、走ってくるバルガスの姿が見えた。
「……今度は何?」
「大変です! 王国から書状が! アルベリア王国が正式にリゼット嬢の亡命意思確認を認めました!」
「……何それ」
「つまり!」
バルガスは興奮気味に言う。
「本人が帰国を拒否すれば、アルベリア王国は原則として身柄返還を求めないということです!」
「へえ、よかったじゃん」
「これは、歴史的事件ですよ!」
「そうなの?」
「そうです! ただ、もう一度、使節団を送るのでリゼット嬢の意思を確認する場を設けて欲しいと……」
俺は芋を掘りながら言う。
「――いいんじゃない? リゼットに確認しておいてよ」
俺がそう言うと、バルガスは天を仰いだ。
◇◇◇
数日後。
ファントム王国を訪れたセレスティアによる正式な意思確認の場。
「――アルベリア王国への帰還を希望しますか?」
外交官であるセレスティアの問いかけに、リゼットはわずかに震える。
だが、その隣にはミツキがちょこんと座り、プルルが応援するように手を振り、少し離れた場所ではゴルガがドンと腕を組んで見守っている。
そして目の前には、あくびを噛み殺している俺がいる。
「好きに答えていいよ」
俺がそう言うと、リゼットは深く息を吸い込み、はっきりと顔を上げ答えた。
「帰りません」
はっきり。
「私はここで……自分の人生を、自分の足で歩みたいです」
セレスティアは美しく微笑み、うなずいた。
「承知いたしました」
こうして締結された亡命受理の署名。
それは、世界で初めてモンスターの国が、人間の亡命者を正式に受け入れた歴史的瞬間だった。
◇◇◇
翌日の新聞一面。
『侯爵令嬢、ファントム王国へ亡命』
『アルベリア王国、本人意思を尊重』
『史上初――国境を越えた自由選択』
『ファントム王「帰りたくないなら帰さない」』
「……また俺が目立ってるんだけど」
『キュ!』
「いや、確かに言ったけどさ」
問題はその下の一文だ。
『ファントム王国、迫害から逃れる者を受け入れる可能性』
「…………」
嫌な予感がする。
そして、その予感は的中した。
その記事を読んだ世界中の「逃げ場を失った者たち」が、次々と国境に押し寄せるようになったのだ。
国境には、荷物を抱えた多くの人間の姿があった。
「バルガス……これ何?」
「亡命希望者です」
「……何人?」
「今日だけで百四十三人です」
「…………」
農民、使用人、元奴隷、借金で売られそうになった者、迫害された亜人たち。
彼らは俺に気付くや否や一斉にひざまずき、頭を垂れた。
「お願いします!」
「ここに住ませてください!」
「働きます! 何でもします!」
「追い返さないでください!」
「…………」
俺は頭を抱えると、資材を持ち、人間用住宅区に向かおうとするゴルガに視線を向けた。
『グオ!』
「いや、その顔やめて。また国広げようとか考えてるだろ」
『グオオオオオオオッ!』
「やめて」
こうして、捨てられたモンスターたちのために作られたはずの場所は、いつの間にか世界ですべての逃げ場を失った者たちの楽園へと変貌を遂げていくのだった。
そして、ファントム王国、最初の人間の亡命者であるリゼット・アルヴェインは後に、人間社会とモンスター社会の二つを繋ぐ重要な人物となっていく。
だが、それはもう少し先の話……
今の俺にとって最大の問題は……
「ゴルガ!」
『グオ!』
「勝手に人間用住宅区の拡張工事始めるな!」
『グオオオオオ!』
「三千戸もいらないからぁぁぁぁ!」
また国が大きくなりそうなことだった。
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