天地がひっくり返るだとか、空が落ちてくるなんてよくたとえられすぎて薄っぺらくなってしまったことば。
空の重みは一体どのくらいだろうか、山を木々をぺたんこにしたあと、この肉体をぺしゃりとつぶしていくのだろうか。そして均一にひきのばされた地球だけが残るのだろうか。いやいや、そういう話ではない。
いざ、天地がひっくり返ったかと思うような(なんて薄っぺらな!)出来事のあと、落ちてきた空はとても清々しくて背中から翼でも生えたような、あたりを満たす空気全てに自分が溶けていくような、そういう感覚だった。
中学時代から乗り継いできた自転車でどこまでも、あの青い空の向こう側にさえ、今ならたどりつけるのではないか、という、奇天烈な夢想と、同時に、この手の届く範囲以外に自分の身を置ける場所はないのだという鮮烈な事実が、まぶしく交差して、思い切り吸い込んだ空気を肺でたっぷり可愛がってやり、自分の色に染めあげてから、ゆっくりと吐き出すくらいで割と満足してしまうのは、きっとミトコンドリアと共生しているからだ。
何があったかというと、どうしても違和感を覚えていたとある思想を持つ集団から距離をとることができた。まるでかかっていた圧力にがまんならずに、バチコーンと大きな地響きとともに反発して大地がせりあがるようにして。
おそらく一時的、まだ全てが解決したわけではないから、これからも、たびたびそれは経ち現われて、道の真ん中を塞ぐ大きな壁のようにそそり立ってくるだろうとは思う。けれどもう、残像だ。その壁に触れることもない。意思を持った心の前に、立ち消える運命にある、あってほしい。けれど、揺れ戻されるように、過去が吸引してくる。
それになにより、自分の意思で自分の人生を決定することができるという心地よい翼を手にいれた代償もある。飛んでいく場所も、羽やすみも、すべての選択に降りかかってくるものは全部、自分にはねかえってくる。もう誰かや何か、大きな世界のせいにできない。
選択の仕方を学んでこなかったネズミのまま、くるくるとあたりを駆けまわっている。所詮、その程度だ。
けれど、どんなに浅はかでも、どんなに愚かであろうとも、自分で考え自分の与えられたこの肉体《道具》を使い切ってこそ、初めて自分ではないか。何かを選んだら、それが正解かどうかを気にするより、それを選び取るために、考えた自分の存在を少しくらいは誇って、選択を正解にする覚悟で生きていくしかない、生きていきたい。
それくらいしか、いまはまだ何も言えない。