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  • @zin_araya
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  • 6月6日

    まだ何も言えない

     天地がひっくり返るだとか、空が落ちてくるなんてよくたとえられすぎて薄っぺらくなってしまったことば。  空の重みは一体どのくらいだろうか、山を木々をぺたんこにしたあと、この肉体をぺしゃりとつぶしていくのだろうか。そして均一にひきのばされた地球だけが残るのだろうか。いやいや、そういう話ではない。  いざ、天地がひっくり返ったかと思うような(なんて薄っぺらな!)出来事のあと、落ちてきた空はとても清々しくて背中から翼でも生えたような、あたりを満たす空気全てに自分が溶けていくような、そういう感覚だった。  中学時代から乗り継いできた自転車でどこまでも、あの青い空の向こう側にさえ、今ならたどりつけるのではないか、という、奇天烈な夢想と、同時に、この手の届く範囲以外に自分の身を置ける場所はないのだという鮮烈な事実が、まぶしく交差して、思い切り吸い込んだ空気を肺でたっぷり可愛がってやり、自分の色に染めあげてから、ゆっくりと吐き出すくらいで割と満足してしまうのは、きっとミトコンドリアと共生しているからだ。  何があったかというと、どうしても違和感を覚えていたとある思想を持つ集団から距離をとることができた。まるでかかっていた圧力にがまんならずに、バチコーンと大きな地響きとともに反発して大地がせりあがるようにして。  おそらく一時的、まだ全てが解決したわけではないから、これからも、たびたびそれは経ち現われて、道の真ん中を塞ぐ大きな壁のようにそそり立ってくるだろうとは思う。けれどもう、残像だ。その壁に触れることもない。意思を持った心の前に、立ち消える運命にある、あってほしい。けれど、揺れ戻されるように、過去が吸引してくる。  それになにより、自分の意思で自分の人生を決定することができるという心地よい翼を手にいれた代償もある。飛んでいく場所も、羽やすみも、すべての選択に降りかかってくるものは全部、自分にはねかえってくる。もう誰かや何か、大きな世界のせいにできない。  選択の仕方を学んでこなかったネズミのまま、くるくるとあたりを駆けまわっている。所詮、その程度だ。  けれど、どんなに浅はかでも、どんなに愚かであろうとも、自分で考え自分の与えられたこの肉体《道具》を使い切ってこそ、初めて自分ではないか。何かを選んだら、それが正解かどうかを気にするより、それを選び取るために、考えた自分の存在を少しくらいは誇って、選択を正解にする覚悟で生きていくしかない、生きていきたい。  それくらいしか、いまはまだ何も言えない。
  • 2024年5月28日

    メモ・妄想を力に変えてくれ

     この間、カクヨムで読んだSSのネタがまだ頭を離れない。  ウェブ小説サイトのアカウントを持っている主人公が自分のアカウント上で自分が書いたわけではない小説がなぜか公開され、それが面白いと評判になり、出版社からのオファー、続きを待つ読者と、主人公ひとりが置いておかれてしまう、という状態で終わってしまう小説だ。  自分のなかでその「自分ではない誰かが書いた小説が自分の名で公開される」という展開が、生活の最中に、変奏曲のようにバリエーションを変え――時に舞台が大正時代になったり近未来になったり主人公も女性や老人や熊になったりしながら――、ときおり、ふっと、だが何度も何度も繰り返したちのぼってくるのだが、どうしたらいい?  時に、自由意志と本能のはざまで揺れる男が現れ、自分の憧れを体現してしたものを見つけてしまったがゆえに現実(いまここにある生)が色あせてしまい生きることができなくなった女が現れ、鉛のような重たい空気を肺のなかに押し込めたまま現代日本を生きる高校生がいまも押し込められてはいるがここに存在しているひとりの自分を見つけ、熊は子を殺され殺された相手を愛するのだ、何をしているんじゃこりゃ。  ――とまあ、困ったことになっているのだが、これはいまに始まったことではない。もっと小さいころから始まっていた何かのビョーキだと思うので、幻覚だか妄想だかが立ち消えになるまで、ほっとくしかない。  一番最初の被害者は『南総里見八犬傳』だった。みんな大好き曲亭馬琴大先生の生み出した日本が誇る大長篇稗史ロマン! ぼくが八犬傳にであえたのは中島梓というのちにお腐り申し上げることになったとき大変お世話になった小説家が子どもにもわかるように現代語訳で書いた「八犬伝」が学校の図書室にあったせいだ。当時のぼくは犬くんと家族になりたかったのだが、わんこなんて飼えませんと反対されており、ストレスから図書室の「犬」とつくものすべてを読み漁るなどしていたかわいそうな小学生だった。そこに現れたのが中島先生。しかしまあ、あれだけの大長篇を一冊でまとめることなどいくら栗本薫の絶大な筆力あっても無理だろう。途中までで終わっており、そのあとの展開はダイジェストのように巻末にまとまっていて、ぼくは巻末にまとまっているネタバレページを薄い目でさっと見たふりをしたあと、続きを探しはじめた。  街の図書館にはなかった。だが隣町の駅前の図書館にはある。岩波文庫版『南総里見八犬傳』が。中学生になったぼくは、にこにこしながら自転車を片道一時間半漕ぎ続け、息絶え絶えでもにこにこしながら、なんとかその本を手にしたのだが、開いてみて「あっ」と驚いた。内容がよくわからん。読めないのだ。活字になっているので読みやすいとはいえ、江戸時代のことばである。もう、無理だった。(あと印刷された字がちいさいので大変だった。そりゃあの文章量だからなぁ、大長篇)  だが、ぼくは中島八犬伝の続きを読みたいのだ。気合でやるしかない。読めない漢字は調べれば意味がわかる。よし、読もう。――とはならなかった。  意味がわからない言葉や単語やいいまわしや感じはすべて「想像」で補った。ヒントはたくさんある。読める部分の文章が助けてくれる。挿絵だってついていた。ありがたい、ありたがい。  それで一年後読み終えた南総里見八犬傳だが、これがおそらくぼくが人生で初めて読んだJUNE小説だ。  八犬伝の文章はまともに日本語を勉強しない(したこともない)自分にとっては難しく、いまでもすべてを読みとることはできないのだが、これだけはいえる。ぼくの知っている南総里見八犬傳は南総里見八犬傳ではないと。自分の想像で補おうとして、まったく別の物語をつくりあげてしまっており、それをひとりでニタニタしていたのだ。ああ、なんて気持ちの悪いガキなんだ。 「想像力」があるのは一般的には「良い」とされることらしい。だが、想像にもよい想像と悪い想像があると思うのだ。  よい想像はきちんと文脈、向き合っているもの、ひとの立場や状態をきちんと理解し、世の中のことわりをちゃんと理解したうえで思考にそれをもちいて、現実的に考え抜く「想像」だ。もしいい意味で想像力を持っていれば、転んで怪我をしている子どもがいたらその子の痛みを想像し自分にひきよせることができる。これは人間が生きるうえで大切な能力だ。なくしてはならないし、衰えさせてはならない。  だが悪い想像力はとにかく地に足がついていない。文章を読んでいても、心があっちこっちに四散し、あれやこれやとどうでもいいことばかり考える。肝心の「文章にかかれていることを適切に読む」ことよりも「文章にかかれていないことを勝手に頭のなかでひねくりかえし、くちゃくちゃと咀嚼して、はい、ごっくん」してしまう。  毛野が女装しており実は男であったと馬琴先生はいいたいのだが、ぼくという読者、否、毒者には伝わらない。  悪しき想像力を稼働させた結果、勝手にガッ〇ャ〇ンの某キャラのような両性設定になってしまい、小文吾と婚約するも男の状態になった毛野は小文吾を拒む、しかし毛野のなかの女が小文吾を求め――と自己矛盾と父親への憧れを抱えたまま、毛野は恋情を断ち切るように小文吾から姿を消し、復讐の刃を血でそめていく――と、ここまではギリギリ大丈夫(いやそうでもない)のだが、このあとが、あの、ダイジョウブデスカと聞きたくなるような、よくあるJUNEのいやテンプレBLのようなわけのわからないモノになっていたり、あとほら、浜路のくだりだとか、別人になりかわっていたり、二重人格でしたオチに変わっていたり、犬村大爆発だとか、突然超新星が始まったり、信乃と壮助が『影〇たちの鎮〇歌』を始めたり(二番もあるんだぜ!はさすがにしていないけれどもっと痛々しいことはした)、鉄砲が時空を駆け(もうごめんごめんって)、諸葛亮の怨霊が憑りつき(すんませんすんません、だってあの終盤は絶対に演義からのネタやんけ←こら言い訳しない)、玉梓が伏姫と百合してティ〇ト〇ーかな、オポッサム状態!  いや、だから、その、よく国語の授業でやるでしょう、この文章から作者のいいたいことはなんですかっていう問題。あれ、本当に、本当に、大切なお勉強なのですよ……。  文章から読み取る力がなければ、自分勝手な読み方をしてしまう。自分勝手が暴走して、まったく別の物語になってしまうことだってあるんです。物語ならまだいいかもしれない(よくない!)が、これが重要な書類や大切なひとの発言だったりしたらどうだろう。ほら、そこ、ディスコミュニケーションとか言って笑ってないで、真面目に考えてみてくださいよ。  良き想像力を働かせるためには、どうしたらいいのか。悪しき想像力――妄想力、かな?――を滅殺(!)するためにはどうしたらいいものか。常々考えては面倒になって放棄して、でも考えなくてはならないことだから多少は考えたり考えるふりをしてだらだらと年を重ねてきましたが、経験と知識と観察力が大切で、自分にちゃんと足が生えているか、生えているならちゃんと地面の上に立っているか、どの地面の土壌はどうだ、豊かにできるようたくさん肥えたものを食べているか、その程度しか、考えつかないわけでござんす。  でも、悪しき想像力にも良い面がないわけでもないのです、といわないといけない気がするので、百害あって0.1利しかなしの0.1利の話もメモに付け加えておかなくてはいけない気にやられている。よし、書こう。  悪しき想像力、妄想、幻覚、それが何かの起爆剤になる絶大なパワーを秘めているということです。あくまでパワーなので良い方向に使えば良いが、悪いほうに転がれば……いいたくない、二番もあるんだぜ(誤魔化し)!  このメモを残している人間がいい方向に使えた試しがないヤバヤバな業を背負いし首無しソルジャーなのですが、どうしたらいい方向にそれを持っていけるかというと、ひっ迫感と戦うしかないということだと思う。何かに駆り立てられて、生き急いでしまいたい気分になっても、じっと我慢して、ひとつひとつ、自分の妄想を点検してみる、だとか。ああ、地味ィ。  悪しき想像力に犯されたビョーキ者は妄想しないと死んでしまうわけです。だけど死ぬぎりぎりのところで踏ん張って、自分の想像(妄想)したものをそのまま外に出さないように頑張るしかない。そのまま出しても「ハァ?」で終わってしまうだろう。いや、そもそも誰にも見向きもされず、優しいひとならテキトーに相槌うって話を流す。聞いてもらえないのだ。  もし、それを外に出して誰かに知ってもらいたい、誰かに伝えたいと思ったなら、誰かに伝わるように外に出さなくてはならない。  そして、ひとというのは自分の関心のあることしか耳にいれないものだ。きみだって、ぼくだってそうだ。本屋に行って何冊本を買う? 買った本よりスルーした本の数のほうが多い。そういうものだ。  だから、最初はいかにして話を聞いてもらえる状態にするか、だ。そして、途中で「あ~きた!」と放り投げられては泣いてしまうから、最後まで飽きさせずに聞かせつづけること。聞き手や読者ってもんは話し手や作家ってやつが自分でつくるもんなのさ。つまり、その工夫をしなくては、悪しき想像力の悪しき部分しか見えないし、きったねぇ独りよがりの痛い中二病の未熟なボケナスという地位に自分を貶めてしまうのだよ。経験者は語るのだった。  そして、その工夫をこしらえるためには、まず敵を知ればウンタラカンタラというだろう。聞かせる相手は敵ではないが相手のことをしること、世間のことを知ること、社会のことを知ること、他人のことを知ること、世の中のことを知ること、自然摂理を知ること、常識ってやつを知ること、生身の体でちゃんとリアルに現実にぶつかって得ていかなくてはならない。ぼくはいまもできていないが。  伝える相手の姿をきちんととらえることができれば、どうしたら興味を持ってもらえるのか話を最後まで聞いてもらえるのか、作戦が立てやすくなるはずだ。というかトンチンカンな作戦を立てずに済む確率がぐっと増える。と、それができていない人間が言い出しているのでございます。  ただ、飲み込まれてはならないぜ。生々しい話で申し訳ないが成人向けを書き始めたらやけに喜ばれてもっともっとの声にこたえるあまり自分を見失ったことがある。話を聞いてくれるのは嬉しいが、「自分の話をきいてもらう」ことがいつの間にか「相手がこれを言ったら喜んでくれるだろうなってことを言い出」し始めたら、ぼくがぼくではなくなってしまった。だから、同じような状況でもしかしたらこれを読んでいるきみも自分を失ってしまうかもしれないんだぜ。などと老害が上から目線で何か言っているみたいですが。  それから、読んでくれる、もしくは読んでくれた特定の個人――○○ちゃん××くん――に意識が向き始めたらあかんやで。自分が自分でなくなるパターンその2が発動しやすくなる。その子にあてる手紙ならそれでもいいのだが、自分が浸食され始めたなと思ったら多少は距離をとったほうがいいぞよ。だんだんと悪しき想像力の力が弱まって狭い範囲でしか物事を考えられなくなってしまうのだ。悪しき想像力減衰はおめでたいのだが、良い想像力も含めて、自分の持っている想像力の総体が減っていく現象だったからだ、まあぼくの場合は、だけど。  ぼくは「不特定少数」ということばを胸に刻んで対抗することにしている。中島梓『小説道場』のなかからひろったことばだ。結構きく。「不特定多数」だと効きすぎて二日酔いしたみたいになる。(酒は養命酒以外飲んだことないから二日酔いがわからないのだがな)そもそも『小説道場』自体が劇薬のようにめっちゃ効きすぎるので全人類におすすめしたい。BLやJUNEってなんぞって考えているひと、ぜひ読め読め、一緒に二日酔いしようぜ!(誰に向けていうてんじゃ)  とはいえ、これをあのひとに伝えたいという強烈な感情のおかげで自殺を免れたこともあるので、「特定の誰かに向けて云々したい感情」は殺すよりも存在を認めてあげたほうがいいねって思うような。いまでも「これをあのひとに!」みたいなの、ぼく持っていますし、それをどうしたら大切に抱えられるのかも、なんとなくわかってきたような、そうです、時の流れです、時のながれのよ~に~♪(誤魔化し)  で、ようやく0.1利の話。うま~く、うま~くできたら、シェヘラザードのように王様の心を変える――ひとの心を変えるだって!そんなすごいことが!――できるかもしれない、ような気も、する、んだ、な……。ああ、語尾が弱くなる弱くなる。  まあ、あくまでもいいように善なる使い方ができた場合、もしかしたら、の話で、ぼくはシェヘラザードじゃないし、むしろ王様のほうだったと思うし、いまでは通りすがりの老害です。  そろそろ文章を書くのにもあきた、あきた、あきた、秋田犬ばうばう。  読む力もなければ、お判りでしょうが文章作成能力もないのです。自分が知っていることを読むひとも知っているであろうとふんで書いてしまう悪癖のせいで二番もあるんだぜ!が判らないひとにはチンプンカンプンでしょう。  これ、悪筆の特徴ですので、わからないひとにもわかるように書く、だとか『崖の上のポニョ』作戦で、わからないひとでも本筋は楽しめてわかってしまうひとにはわかってしまう仕掛けをつくる、だとか、何か対策をとらないと本当はだめなんですよ。  あえてわからないひとには読んでほしくないものを書くときに一見さんお断りとばかりにわからないひとにはチンプンカンプンさせる文章で一見さん退散作戦もありかとは思いますが……。  というわけで、読めない、書けない、あるのは、なにか得体のしれない何かだけ。泣いちゃうね!  もうここらで、おさらばしたいと思います。深夜のラブレター現象発動! ピ、ガーッシャン、ビーーー(電子音)。
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  • 2022年10月1日

    とりさんのタオル

     カクヨム運営さまがたへ。  ときおり、楽しくカクヨムにて小説を読ませていただいております。また、先日はカクヨム甲子園2022レビュー投稿キャンペーンにてレビューをとりあげていただき、ありがとうございました。それどころか、タオルまで……。昨日、届きました。  厚手で、ふかふかで、フードつきで、とてもかわいいです。同居人である猫たちに見つかると、もみもみされてしまうので、やつらにはばれないように、こっそりと、けれど大切に使おうと思っております。
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