さて、山籠もりの修行で丈も語っていましたが、武術・武道・格闘技・拳法の違いについて本作品の定義を記しておこうと思います。
この違いについては、人によって見解が分かれるとは思いますが、本作品では以下のように定義しています。
●武術
生き残るための術。必然的にそれは武器を扱う術になるので、武器術≒武術であると言ってもよいと思っています。
武術の技というのは、基本的に素手で行うこと以上に武器(何か特定の武器だけではなくあらゆる武器)に応用できるように作られています。
つまり、素手の格闘術については、武術にとってはオマケのようなもので、無手で闘うというのは最後の手段であるとさえ言えます。
基本的に武器術を想定しているので、急所に攻撃を受けることは死を意味するため、正中線をカバーする半身の構えが主流です。ここが打って打たれることを想定している競技格闘技との大きな違いになります。
●武道
武道というものが生まれたのは意外に最近です。室町時代くらいから武術を通じて精神修養するという考えも見られるようになりますが、それはむしろ強さを求めるには精神修養も大切という視点から生まれたものであり、現在のように、人格の完成や教育を目的とした「武道」が生まれたのは、明治時代に入ってからです。剣術が剣道に、柔術が柔道になっていくという感じです。
柔道は形骸化していた柔術を総合して作り上げられたという経緯があり、型稽古だけでなく組み合う練習を主体にすることで、当時の柔術を圧倒する実力があったということです。剣道についても防具をつけて竹刀で打ち合うことで身に付く強さは確かにあるでしょう。
目的をあくまで精神修養や人格形成とするため、武術の持っていた何としても生き延びるという泥臭い部分は捨てられ、排除されていった技術も多くありました。
●格闘技
ある一定のルールに基づいて無手の勝負を行うものを格闘技と呼びます。武器を使う格闘技は、私の知る限りありません。柔道や空手は、武道という側面もありますが、競技化した部分だけを取れば、格闘技と言えるでしょう。
ボクシングやレスリング、ブラジリアン柔術やMMAも格闘技ですね。
中には、MMAにはほとんどの禁止技がないから他の競技格闘とは違うんじゃないの?と思われる方もおられるかもしれませんが、実際には武術が想定する実戦とは大きく違います。
まず、闘いの場所と時間、開始の合図などが決まっています。
1対1の闘いだと決まっています。
武器の使用は禁止です。服装も決まっています。
やはり禁止技もあります。(目つき、噛み付き、金的など)
他にもあると思いますが、上記の前提が崩れると、闘い方は大きく変わるでしょう。もちろん、それは大衆が見るようなものではなく、ローマのコロッセオのような残虐ショーになりかねませんので、競技化できるわけもありません。
しかし、競技化は非常に良い点もあります。競技化したことで、ボクシングは他の追随を許さない高度な打ち合いが、柔道やブラジリアン柔術では高度な組技、寝技の応酬が、空手やテコンドーでは高度な足技が進化していきました。
これは、殺し合いの術のままでは生まれなかった進化とも言えます。
●拳法
拳法というと、漫画などのイメージで、中国拳法のイメージを持たれる方がいるかもしれませんが、中国では一般的に武術《ウーシュ》と呼ばれます。
拳法という言葉自体はあるのですが、それは武術の中の無手の運用法という程度の意味合いで、剣法、槍法などに対しての拳法ということになります。
ちなみに、先の武術の定義同様に、中国武術も武器術が前提となっています。
なので、本作品では中国拳法という表記は基本的には使いません。表記するのは中国武術であり、その中に少林拳、八極拳、太極拳、形意拳などがあるという形になります。
そして、本作品で拳法と表記するのは正林寺拳法(少林寺拳法がモデル)と日本拳法の2つになるかと思いますが、面倒なことに、この拳法についても意味合いが少し違います。
少林寺拳法では、拳の修練を通じて己を修め、宇宙の法則(真理)や人としての正しい生き方(法)を体得する。だからこそ「拳術(単なる技術)」でも「拳道(終わりなき自己探求の道)」でもなく、「法(真理)に直結する拳」という意味で『拳法』でなければならないとしています。
一方、日本拳法では「日本古来の柔術に内在していた、真の打撃・格闘システム」として再興するという自負を込め、沖縄の唐手(空手)でも中国の武術でもない「日本」の「拳法(徒手格闘の法術)」と命名したとされています。
以上、マニアックな小話でした。
注:添付画像は、AIを用いて作成した山籠もり修行中の如月親子です。細かい点など作中の描写と合わない部分もあるかもしれませんが、大目に見てやってください。