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万倉シュウ

  • @wood_and_makura
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  • 2024年11月23日

    著者の気まぐれライティング

    「好きなものを書くのが一番」と創作界隈でよく耳にします。架空の読者にどう思われるかを気にして、大衆向けの物語を書いても、二番煎じもいいところで味が薄いと。ならば、自分が好きなものを突き詰めて書いたほうが、同じ感性の人間の心に深く刻まれると。  その通りだと思う一方で、だからと言って設定を盛り盛りにしてもわかりにくいのではないかと危惧しています。 「異能バトルが好き」 「バディものが好き」 「ざまあ系が好き」  好きなものを好きなだけ詰め込んでも、逆に雑多な味になってしまうのではないでしょうか。設定盛り盛りでも面白い物語はたくさんあります。ですが、それは著者の技術によるものなのではないでしょうか。  凄腕シェフは数多の食材・調味料を組み合わせて神の如き味わいを生み出します。ですが、一般人が真似しても味のまとまりがなく、食材を無駄にするだけ。それは、こと創作についても同じことが言えるのではないかと私は思っております。  はじめに物語の方向性を決めるのは良いと思います。どういったものを書きたいのか考えることも。ただ、設定とは書きたい「展開」に付随させたほうがまとまりが出るような気がしています。  私は最近、大まかな話の流れを決めてから、書きたい「展開」を考えるようにしています。そして、「展開」に合う「設定」を考えるのです。どうしても「設定」から考え始めますと、それに合う「展開」や「キャラ」を考えてしまい、味が薄くなってしまうのです。  料理のたとえに戻りますと、「食材」という「設定」ありきで料理に入るのではなく、「味」という「展開」ありきで料理を始めるのです。好きな「味」に必要最低限の「食材」「調味料」を使うことで、シンプルな旨味を得られるのではないでしょうか。  とは言え、「展開」ありきで考えるのもまた別のベクトルで難しいものです。「展開」に統一感がないと物語全体のまとまりが無くなってしまうのです。和洋折衷とは言いますが、みそ汁にパンと麻婆豆腐では、単品で美味しくても、わざわざ組み合わせる意味がないでしょう。「シェフの気まぐれランチ」なんてものは、凄腕シェフだからこそ「絶品」になるのであって、一般人が真似しても「よくわからないもの」にしかならないのではないでしょうか。  自作に関して言えば、どういう物語なのか端的に一言で言い表せるようにしたいところです。
  • 2024年11月15日

    最近の執筆事情

    どうもおひさしぶりです。名前を度々変えていますが、今は万倉シュウです。 長らく執筆から離れていましたが、ここ最近また熱が入りまして、文章に触れるようになりました。 とは言え、ブランクがあるのは確かでして……。以前のように筆を進めることができず四苦八苦、以前の楽しさを思い出して四喜八喜といったところでしょうか。やはり自分は小説というものが心底好きなのだと再認識しました。 果たして新作が皆様の目に触れる日は来るのか、他人事のように楽しみにしています。
  • 2021年11月5日

    今日は良い天気でした。

    今日は良い天気でした。洗濯日和とはこのことです。湿度も低く、午前中のうちに洗濯物が乾きましたので、午後は日向ぼっこしながらゆったりと過ごせました。夕方になるとさすがに肌寒く、うとうとしていた頭がすっと冷えるようでした。窓を閉め、上着を着ると幾分暖かくなり、またしても眠くなってしまうのが悩みどころでした。 ――とまあ、だらだらと過ごしてしまいましたが、こんな日も悪くないかなと思いました。義務のように執筆活動を進めてもストレスになるだけですので、趣味の一環としてやっていますので、自由気ままに気の向くままに書いてゆこうと思います。
  • 2021年11月4日

    「ペトロとロミオ」完結いたしました。

    「ペトロとロミオ」完結いたしました。ここまで続けてこられたのもひとえに応援してくださった読者の皆様のおかげです。重ね重ね感謝申し上げます。 この作品を書き始めたのは……と、高名な作家のような態度を気取ったところで鼻につくだけですので、茶番はこの辺りに留めておきます。それでも感謝の気持ちは紛れもなく本物で、応援コメントが励みになったことも真実です。「他人の評価なんてどうでもいい」と思いながらも、コメントやレビューが恐ろしくも喜ばしく感じられるのは、心のどこかで他人の意見を欲しているからでしょう。 こうして近況に想いを綴っていることもその良い証拠です。このノートから自分の作品に手を伸ばしてほしいという願望の表れなのでしょう。 というわけで、「ペトロとロミオ」をお読みになられた方には改めて感謝の意を示します。ありがとうございました。まだお読みになられていない方には、ぜひ読んでいただきたく存じます。よろしくお願いいたします。 以上、近況のご報告でした。 「ペトロとロミオ」 https://t.co/WG03XlQxGv?amp=1
  • 2021年11月3日

    物語を考えることが好きです。

    物語を考えることが好きです。最も忠実に内容を表現できる方法が小説であるため、こうしてWeb小説の執筆を行っていると言っても過言ではありません。逆に、昔から絵を描くことが好きであれば表現方法として漫画を選んだかもしれませんし、映画が好きであれば映画監督を目指していたかもしれません。いえ、映画監督については過言でした。 漫画を描くのは好きです。公開できるほど立派なものではないため、仲の良い友人にのみ読んでもらっている状況です。いえ、小説も小説で稚拙なのですが。まるで小説は立派に書けていると言わんばかりの文脈でした。謙虚にならないとなりませんね。 物語を考える上で登場人物に焦点を当てると、先に登場人物を考えると以前お伝えしましたように、私はイラストを描くのも好きです。漫画はその延長です。表現方法として適切だったため選びました。 結果、漫画のプロットも溜まってきました。好きなものが溜まっている状況は嬉しい反面、どうしたものかと悩みの種にもなります。伝えたいことはただひとつ、「一週間くらい創作活動に打ち込める時間が欲しい」それだけです。 時間があればあるほど娯楽へと逃げてしまう予感もありますが。
  • 2021年11月2日

    短編の定義とは何なのでしょうか。

    短編の定義とは何なのでしょうか。一万文字以内なら短編なのでしょうか。四百字詰め原稿用紙二十枚未満なら短編なのでしょうか。同じ分量でも一話完結でなければ短編とは呼べないのでしょうか。 定義など千差万別であり、定義者の解釈によるところが大きいでしょう。ある規定では短編と区分されていたものが、別の規定では中編と区分されていることもあるでしょう。あくまでも区分けですので、厳密な規定などなく、気にすることでもないのかもしれません。 小説コンテスト等に応募する際に不明瞭である場合には、応募要項に規定が記載されておりますので、そちらをご参照いただければと思います。私は大会の運営側でなければ主催者でもなく、寧ろ「短編とは何か」という、疑問を抱く一質問者に過ぎないため、このようなことを明言する立場にはないのですが。 気にし過ぎなのでしょう。自分が短編だと思えばそれは短編になるのです。一般的な尺度というものは大多数の意見を参考にしたものに過ぎませんので、「〇〇文字超えているから短編ではない」という論調には首をかしげざるを得ません。 とは言え、十万文字を超えた作品を短編と言われると困惑してしまいますが。さすがに文庫本一冊分に近い分量を短編と呼ぶには、中編に申し訳が立たないように思います。結局、私の解釈によるところなのですが。私の中で明確な定義が決まっていないことが、釈然としない一番の原因なのでしょう。では、私にとって短編とは何なのでしょうか。はじめに戻ります。私は疑問を追い続ける旅人なのです。
  • 2021年11月1日

    小説を書いていると他の小説を無性に読みたくなります。

    小説を書いていると他の小説を無性に読みたくなります。「参考にしたい」「自分の稚拙さを痛感したい」、という願望による衝動であり、読後は想定どおり執筆の意欲が下がります。「どうせ自分が書いたものなんか……」と考えるようになるからです。 それがわかっているのに読むのは、それでも一縷の希望を持っているからです。「もしかしたら自分のほうが面白いのではないか」と、嫌いな人間の情報を集めたがる習性のように他人の粗を探して、自分の感覚が正しいと、自分のほうが優れていると感じたがっているのです。承認欲求が強いのでしょう。 もっと純粋に小説を楽しむにはどうすればよいのか。答えは簡単、執筆活動をやめればいいのです。もしかすると小説を読みたがるのは、小休憩に入りたがっている脳からのSOSなのかもしれません。 好きな作家の小説が発表されれば、これらの衝動とは関係なく楽しみますが。いやはや人間の気分というのは度し難いものですな、と自分のことながら思います。
  • 2021年10月31日

    どの小説から書こうか悩みます。

    どの小説から書こうか悩みます。私は非常に飽きやすい性格なので、複数プロットを書き溜めています。その中で書く気の起こったものから着手しているのですが、今回はまだプロットを書き終えていないというのもあり、まだその段階に移行していません。 それでも、現段階で悩むということはプロットを書き終えてからも悩むのでしょう。確定した暗澹たる未来に溜め息が零れます。優柔不断な我が身が恨めしいです。多くの時間をかけて選んだとしても、何話から書いているうちにもう一方を書きたくなり、身が入らなくなることは目に見えているのです。見えている地雷のようなものです。 ですが、私はそれを命懸けで掴み取りに行かねばなりません。何故かと言われれば、そこにプロットがあるからです。それこそが私の性というものなのです。
  • 2021年10月30日

    短編のつもりが中編になりそうです。

    短編のつもりが中編になりそうです。五年以上前にプロローグだけ書いたものを発見し、自分の物語ながらワクワクしたので、このまま短編として書き進めようと思いましたが、しかし短編にするとダイジェスト的な進み方になり、事務的というか味気ない仕上がりになってしまうおそれがあったため、流れを再確認し、プロットを書き起こした結果、中編程度の分量になることが推測できました。 現在、他に書いているプロットがあるため、先にそちらのケリをつけてから、この中編を書いたほうがよいのでしょうが、分量的にこちらを優先したほうが気持ち的にすっきりするような気がしています。今書いているほうがまだまだ中間地点に差し掛かったあたりなので、早く終えられるほうを先にやりたいという怠惰者の性質なのです。どのみちどちらも書くつもりなので、どちらでも良いのですが。あるいは、プロットで満足してどちらも書かないのかもしれませんが。気まぐれなのです、私は。
  • 2021年10月29日

    同じ小説を何度も読み返してしまいます。

    同じ小説を何度も読み返してしまいます。悪いことではないように聞こえるでしょうが、自分で書いた小説に限る話なので、どうしようもなち自画自賛人間なのです、私は。 例えばお気に入りの展開がある場合や台詞回しがある場合などにそういうことが起きます。元々好きなアニメや漫画を何度も見直してしまう癖があったので、自分が好きなものをアウトプットした小説ならば、当然の帰結かと思われます。 そして、昔の自分のほうが語彙力あるな、とか思うわけです。絶望です。初心に帰るためにも必要不可欠なのかもしれません。
  • 2021年10月28日

    趣味の一環です。

    趣味の一環です。小説は。倒置法である理由はありません。 趣味であるからこそいつまでも続けられ、だからこそしばらく離れる時もあります。好きなこと、楽しいことだからと言って、いついかなる時も続けられるものが趣味というわけではないのです。スノボーが趣味だからといって、年がら年中スキー場に通う人間は少ないでしょう。 ――という言い訳です。読みたい本があれば、やりたいゲームもある、私はそんな人間なのです。一言で言えば、今日は一文字も執筆していないということです。投稿前の小説を見直したりしましたが、それをカウントすると永遠に言い訳できてしまうので、明日から再開できるように、あつ森に熱中してしまった自分を戒めたいところです。
  • 2021年10月27日

    ふと時間がないことに気が付きます。

    ふと時間がないことに気が付きます。集中していると時間が過ぎるのはあっという間で、しかし翌日を間近に控えている中で執筆活動を延長するという選択は、健康的生活を目指している私にとって苦渋の決断でしかなく、結局いいところで中断して翌日に持ち越すのです。ですが、翌日には前日のようなパフォーマンスを発揮することができず、後悔することが間々あります。学習しないのです、私は。 時間がないことに気付いた瞬間に思いつく限りのメモを残し、翌日にベスト環境を用意しておくことが最善策かもしれません。しかし、メモを書いているうちに執筆活動を続けてしまい、徹夜してしまうという愚行に走った経験もあるため、丁度よい塩梅を探すことから始めようと思います。そんな時間もないかもしれませんが。忙しい忙しい詐欺に執心して忙しいのです。負のループなのです。何とかして抜け出したいところです。
  • 2021年10月26日

    今日は調子が良いです。

    今日は調子が良いです。私ではなくPCのことです。今こそ執筆活動に励むべきなのでしょうが、こともあろうにイラストを描くのに時間を使ってしまいました。執筆活動は座るのに疲れて横になった時に、ちょこちょこっと書いただけ。比重が酷く偏っています。 とは言え、書きかけの短編を書き終えられたので重畳でしょう。わざわざ『重畳』という言葉を選んだのは、毎度この単語を見る度に意味を調べている自分に気が付いたからです。使い方を知れば、忘れることはなくなるだろうという安直な理由です。こうした積み重ねによって、語彙力は培われてゆくのだと信じています。今のところ『重畳』の意味を憶えられておりますので、私の調子もすこぶる良いようです。
  • 2021年10月25日

    焦ると物事がうまくいかなくなります。

    焦ると物事がうまくいかなくなります。執筆活動においても、それ以外のことにおいても同様です。焦らずゆっくり気長にやっていれば、然程時間もかからず解決できたことが、結果を焦ったばかりに時間を浪費することになったりするのです。 最近のことで言えば、私のPCが良い例です。起動直後、数分ほどフリーズしてしまい、強制終了したほうが早いと考え再起動したところ、修復作業が始まり、結果、一時間以上かかってしまいました。ハードディスクが破損していなかっただけ良かったですが、「あの時待っていれば」と過去の愚行を嘆くばかりです。ですが、その日の作業を断念し、余った時間を気分転換に使うことができましたので、体調的には良くなりました。怪我の功名というものかもしれません。 何事も前向きに考えたほうが良いのでしょう。「そのうち好転する」と楽観的な姿勢をとっていれば、実現するものなのかもしれません。
  • 2021年10月24日

    移植のつもりがリメイクになりました。

    移植のつもりがリメイクになりました。昔書いた詳説を眠らせるのも勿体ないのでカクヨムに投稿しようとしたところ、軽く加筆修正するつもりが、イチからのリメイクになってしまいました。 三千字程度の短編だったため、一時間もあれば余裕で終わる作業だったはずが、一緒に保存していたリメイク案を見つけてしまい、そちらに則って書き直した結果、原型が無くなり、分量も三倍に膨れ上がりました。予定外です。まだまだ日が高いと思っていたら、照明が必要な時間になってしまいました。 六年前に書いた代物なので、文章に至らない部分があることは重々承知しておりましたが、全て書き直すとは自分でも想定しておりませんでした。物語の原案は閃く度にメモに留めており、いつか書き上げたいと思っておりましたから、願ってもないチャンスなのかもしれませんが、いやはやチャンスというものは不意に訪れるものなのですね。書きかけの短編小説も見つかりましたので、こちらも完結させ、満足感に浸りたいところです。
  • 2021年10月23日

    話を加筆したくなります。

    話を加筆したくなります。物語が完結した時、あるいは一話を掻き終えた時、見直しがてら話を加筆したくなる衝動に駆られます。誤字脱字のみを修正する予定が、「ああ、この展開のほうがいいな」「この言葉のほうがカッコいいな」とか付け足しているうちに文字数が多くなり、結果文章が読みづらくなります。読みやすくするための修正なのに本末転倒です。 常に最高の状態を更新し続けたいという、柄にもない向上心が余計なことをさせるのでしょう。そんな私には自重という言葉が相応しいでしょう。あるいは、ノリに乗っていた時の自分のほうが筆が上だと突きつけるべきでしょう。冗長な物語は大体つまらないものですから。無論、私の作品に限る話ですが。 こうなったら加筆ならぬ減筆するしかありません。文章が必要最低限のコンパクトなものになるのなら、寧ろこちらのほうが良いように思えました。文章をまとめられるだけの語彙力と発想力が私にあれば、の話ですが。執筆トレーニングの一環として取り組むのも悪くないかもしれません。
  • 2021年10月22日

    PCが止まると途端に集中力が切れます

    PCが止まると途端に集中力が切れます。言い訳以外の何物でもないのですが、比較的動作が軽いはずである小説投稿サイトでフリーズするPCで何ができるというのでしょうか。反語です。何もできやしません。起動に十分ほどかかります。地獄です。 物語を考える際、私は登場人物から先に考える癖があるのですが、Excelで表形式にして登場人物の特徴等を決めているとよく止まります。何もできなくなります。創作活動が頭の中でストップして、アウトプットできなくなります。 新しいPCを購入すればいいのでしょう。はい、しました。届くまでに日がかかるため、それまでは現行のPCで乗り越えなくてはなりません。もっと早く買えば良かったと後悔しました。後悔先に立たず。前向きに生きてゆこうと思います。 今は頭の中で大まかな流れを決めて、PCではメモする程度に抑えようと思います。あとは、執筆済み作品の見直しでしょうか。集中力が続いてる時に限ってPCが止まる傾向があるため、PCからの「休め」というお達しかもしれません。今週はもう店じまいにしたほうが良さそうです。集中力が切れる、というのはそういうことなのでしょう。いえ、言い訳がこんなにも出てくるということは、今は気分転換をしたいだけなのでしょう。機械は人間にとって都合の良い道具でしかないという何よりの証拠であり、人間がどうしようもなく身勝手であるという証明でもあります。
  • 2021年10月21日

    あと一押しが思い浮かびません。

    あと一押しが思い浮かびません。良い感じに物語が紡がれていると、余計に詰めの甘さが目立ってきます。盛り上がりと盛り上がりの間の勢いがどうしても落ち込んでしまうのです。アイディアが思い浮かばないため、その場しのぎとして繋ぎの物語を入れるのですが、やはり仮でしかなく、一刻も早く修正したい衝動に駆られます。 そういった繋ぎすらも煩わしく感じる場合には、物語に空白が生まれます。思い浮かぶまで、そこは無の領域となるのです。更新のタイミングが刻々と迫る中、悩みに悩み、結局睡眠に逃げてしまう人間の性は何と恐ろしいことでしょう。私個人の性なのでしょうが。 今日も夢の世界へと逃げ込み、何か良いアイディアが思い浮かばないか、と受動的な気持ちを抱いている時点で良い方向には絶対に行かないでしょう。気持ちが負けているのです。あと一押しを貰いたいなら、自分が動かなければなりませんね。私は挑みます。夜更かしの向こう側まで――
  • 2021年10月20日

    完結が見えてくると楽しくなってきます。

    完結が見えてくると楽しくなってきます。短編長編拘らず、完結目前になると読者同様に作者もワクワクしてくるものです。話の粗さが目立っていたとしても、修正作業が残っていたとしても、ひとまずの区切りをつけられるので、一時の快楽に心が満たされます。語弊のある表現ですが。 大団円を迎えるとそれは顕著になります。一時期は報われないバッドエンドが大好きでしたが、やはり主人公が報われ、世界全体が幸せになる物語は読後感が良く、何度でも読み返したくなります。ゲームでもそれは同様で、終盤の展開だけを繰り返すプレイしたくなります。個人的にはFF9が大団円の物語として一番最初に思いつきます。寧ろ、それ以上の大団円を想像できないくらいに清々しい気分になったことを憶えています。幼少期にプレイしたわけではないため、思い出補正というわけでもないのがより印象を強くしています。 私は物語を書く時に読後感の良い大団円を目指しています。道中に胸糞悪い展開があったとしたら、それはかつて好んでいたバッドエンドの片鱗だと思われます。「大団円は好きだけどバッドエンドも好き」という矛盾に孕んだ嗜好を小説に落とし込むと、そうなります。大体の作品がそうなっていると思います。 だからこそ、大団円となる完結間近になると楽しくなってくるのです。幸せな気分と言ったほうが適切でしょう。そういう意味では、私は執筆活動が何よりも好きで幸せに感じるのでしょう。
  • 2021年10月19日

    話が冗長になります。

    話が冗長になります。登場人物の気持ちに沿って書いていると、物語と言うよりは会話や心理描写がくどくなります。丁寧と言えば聞こえは良いですが、実際には簡潔に説明できないだけなのです。 現実生活でも、よく何を伝えたいのかわからない人がいますが、私はそういう頭の中でまとまっていないうちに言葉でアウトプットしようとする人間の創作者版です。小説内で何を伝えたいのかわからない状況に陥っております、 伝えたいことをスパッと書ければ読者的にも読みやすいのでしょうが、人間の心というものは最適化されているんけではありませんので、フィクションの中でリアルを求めるのであれば、心理描写も当然まとまらず、要領を得ないものになるでしょう。悩みの少ない自意識の高い人間であれば、心理描写も短く表現できるのでしょうが、そういった人物がドラマチックなストーリーの主要人物になることは少ないと思われます。少なくとも青少年の苦悩と挫折、成長を軸とした青春小説であれば、主人公は年相応の悩みを持つ青年になりますから、自信なんて微塵ももっていないでしょう。 もしかすると、私のキャラ造形がよろしくないのかもしれません。そうなると、今すべきことはイラストの練習でしょうか。神絵師を目指してクリエイター用PCを購入するところから始めます。 こういうところが要領を得ない、冗長な話なのです。
  • 2021年10月18日

    近況を綴ろうと思います。

    近況を綴ろうと思います。今更ながら近況を綴っていないような気がしたため、執筆作業について書き連ねます。 久しぶりに過去の作品に触れ、続編の思想が沸き起こったため(本当はカクヨムコンに字数が足りていなかったため急遽増やそうとしているだけですが)、続々と話数を重ねています。しかし、読み返してみると、前作と文体や話のコンパクトさが異なっており、別人レベルの文章になっていることに驚きました。当時の私のほうが語彙力や文章構成力が高かったのではないかと考えるほどです。 さて、そうなると全て削除したくなるのが私の性なのですが、方向性は間違っていないと思っておりますので、続きの部分から修正作業を進めてゆきます。粛々と、辛辣に、書き直したほうが早いと思えるレベルの修正を行います。最早意地です。 何故そんなことをするのか。答えは明瞭、書きたいことが定まっているからです。技術が追いついていないのです。それが私の近況であり課題でもあります。
  • 2021年10月17日

    キーボードの一部キーだけ印字が薄れてゆきます。

    キーボードの一部キーだけ印字が薄れてゆきます。叩けば叩くほど薄くなるのは当然ですが、叩く頻度が多くないキーでも上記のことが起こります。 例えば、ブラインドタッチの基本形で待機している時、私は中指だけしっかりとキーに置く癖があります。故に「D」「K」キーの印字が薄れてきて、「K」については一瞬「I」に見えるという問題まで引き起こしているのです。とは言え、キーボードを直視する機会などあまりないのですが。 他にもスペースキーの左側だけテカテカとしているのを見ると、自分が左手でスペースキーを押す癖があるとわかります。エンターキーを右手で押す関係上、スペースキーが左手に割り当てられるのも無理からぬ話ではありますが。 自分のPCであればキーボードが多少テカテカしていたところで気になりませんが、他人のキーボードがその状態だと非常に不衛生に見えてしまいます。仕方ないと理解していても、そのキーボードを使えるかと問われれば、首肯することは難しいと思います。それしかないと言われれば使えますが。 ノートPCだとキーボードが多少馬鹿になったり、このように一部キーの印字が薄くなった程度では買い換えられないため(外付けキーボードをつけるとノートPCの良さを殺しているようなものなので)、デスクトップPCに買い替えるのも手だと考える今日この頃であります。 作業環境についての近況でした。
  • 2021年10月16日

    蛇足が過ぎます。

    蛇足が過ぎます。完結済み作品の続編を閃いた時、作者的には前作に匹敵するか、それ以上の面白さを自負しているのですが、読者からすると蛇足だと捉えられることがあります。 こと私個人に関しても、続編の構想をプロットにまとめ、数ヶ月ぶりに読み直すと、あまりの駄作、蛇足ぶりに恥ずかしさすら覚えます。「こんなものを面白いと思っていたのか」と正気すら疑います。 深夜の謎テンションというわけではありませんが、一時の衝動で書き上げたものほど、情熱が失われた頃に読み返すと読むに耐えないものです。それは、衝動即ち激情がスパイスとして小説の面白さに上乗せされているからでしょう。無意識のうちに自分の作品にだけ加点されているのです。人間は理性と感情を併せ持った生き物ですから、自画自賛するものなのでしょう。 とは言え、無関係の読者に作者の激情を押しつけることはできませんので、続編にせよ新作にせよ蛇足にならないように、いろんな角度から物語を見つめて筆を進めたい所存です。
  • 2021年10月15日

    執筆活動から離れたい気分になります。

    執筆活動から離れたい気分になります。時折ですが、気分転換したくなるのです。 そんな時には「自分はあまり小説を書くのが好きじゃないんだな」と思い、諦めて別の趣味に没頭するのですが、ある瞬間にまた「あ、小説書きたいな」と思うのです。 気まぐれと言えばそれまででしょうが、極論を言ってしまえば、小説で生計を立てているわけではないため、執筆活動をする必要性は皆無なのです。強制力が働いていないのに「書きたい」という欲望が生まれるのは、私が小説だけでなく創作活動というものが好きだということでしょう。消費者で在り続けるのを是とせず、創作者で在り続けたいと願っているのです。 無論、消費者で在り続けることは悪ではありません。それでも、確固たる意思で小説を短編長編含めて十年以上書き続けているというのは、既に趣味の領域を超えて「日常」と化しているのだと感じています。私からすれば、執筆活動が混在している日常こそが「普通」なのだということです。 日常生活の一部なのであれば、離れたい気分になるというのも頷けます。日常生活に刺激を求めて、普段とは異なる行動を起こしたがるのが人間の常ですから。それも含めての「日常」なのかもしれませんが。だとすると矛盾してますね。 こういった物思いに耽るのもなかなか楽しいものがあります。執筆活動から離れて、執筆活動の楽しさを知るということでしょう。陳腐でありながら、新鮮な気持ちを感じるのは私から自分で思っている以上に満たされた気持ちになっているからなのでしょう。
  • 2021年10月14日

    面白い小説とは何でしょうか。

    面白い小説とは何でしょうか。伏線が見事に回収され、カタルシスを得ることでしょうか。それとも、少年マンガ的な燃える展開でしょうか。はたまた、ミステリのような読み応えのある物語でしょうか。 私にとっての面白さとは予想を裏切られることを指します。先の読める展開は読んでいて飽きが来てしまうものですが、先が読めなければ常にワクワク感で胸が躍ります。無知の知とはよく言ったもので、知ることこそが私にとっての面白さであり、幸せであり、追求しているものであると気付いたのです。知的好奇心が強いのでしょう。 故に、伝奇小説やミステリ小説のような日常風景の中に溶け込んだフィクションに心惹かれます。読めば読むほど知らないことを教えてくれるからです。そのような小説を書きたいと願う一方で、しかし自身の知識の浅さに絶望する毎日を送っています。知識の入力と出力とでは、難易度が桁違いということでしょう。教職員の方は尊敬に値します。 人に自分自身が考える面白さを伝えられれば、それは傑作小説となり得るのでしょう。個人的な『面白い』を他人と共有できることが小説の優れたところであり、同時に難しいところでもあるのかもしれません。
  • 2021年10月13日

    当初の予定から物語が大きく変わることが多々あります。

    当初の予定から物語が大きく変わることが多々あります。寧ろ、大きく変わることしかありません。物語を詰めるほどそれは顕著で、もう少し先で展開しようと思っていた内容を一足先に済ませてしまった時に、関係する随所で修正が入ります。そうすると、はじめに書いていた大まかなプロットは意味を為さず、ゼロから書き直したほうが早い状況にすらなります。 徐々により良い、より自然な展開に繋げようとしているだけですので、悪いことではありませんが、しかしこうも変わってくると、何も考えずにプロットに沿って書いてしまった場合に、物語に齟齬が生じるようになります。そういったことを一度体験すると、どうしても神経質になって執筆作業自体が辛いものと化してしまうのです。 本来好きなことであるはずなのにおかしな話でしょうか。いえ、私個人の順応性が低いだけでしょう。新しい環境に身を投じるのが苦手なのですから当然と言えば当然と言えます。まず人間性から高めなければなりませんね。
  • 2021年10月12日

    ふとした瞬間に展開が降ってきます。

    ふとした瞬間に展開が降ってきます。 お風呂に入っている時や料理を作っている時、皿を洗っている時であったり運転している時といった、作業を淡々と行っている時、即ち何も考えていない時に面白いアイディアが湧き起こります。逆に言うと、根を詰めて執筆しているとつまらない駄文ばかり書いてしまい、修正しては書き直すを繰り返して空回りすることが多いです。 やはり脳が疲労していると突拍子のない、けれど興味深い物語は思い浮かばないのでしょう。心躍る夢物語は健全な生活や十分な睡眠が必要不可欠ということです。 それでは今日もおやすみなさい。
  • 2021年10月11日

    人物イメージが固まりません。

    人物イメージが固まりません。 先に落書き等で人物の外見を決めておかないと、いざ物語を紡ごうとした際に頭に映像が浮かんできません。キャラありきの物語を書いていると言っても過言ではないのです。 長髪なのか短髪なのか、目の色はどうなのか、背丈はどれくらいで、声の低さはどれくらい……と必要最低限の情報だけ決めようとすると詳細にまで拘ってしまい、結局落書きで人物像を定める羽目になります。もっと簡略化した文章で読者の想像力に任せてしまえば話は早いのですが、しかし私はそれを良しとしません。作者と読者の間でなるべくイメージに齟齬が起きないようにしたいのです。 「どうせ齟齬なんて起きるのだから説明を省略しよう」と開き直るのではなく、「どれだけ練り上げても齟齬が起きるのだから、なるべく伝わるように書こう」と意気込み、冗長化の道を辿ることになります。いつもこうです。懲りもせず同じことを繰り返すのです。 繰り返すわりに詳細な人物像を忘れてしまうのですから、世話ないですね。
  • 2021年10月10日

    プロットすらうまくいかない時があります。

    プロットすらうまくいかない時があります。 絶望です。プロットに肉付けをして小説を書き上げるスタイルをとっているのですが、大抵の場合、プロットの時点では神がかり的に面白く、肉付けするほど冗長になってつまらなくなってゆくにも拘らず、現在考えているプロットはそれ自体が救済のしようがないほどつまらないものとなっているのです。 絶望です。正確には途中まで面白かったのです。五話目くらいを考えた時にとてもつまらなく感じたのです。作者ですら感じたのですから、とてもではありませんが読者にはお見せできません。 プロットの時点で、主要な展開と展開の間の『つなぎ』の要素が色濃く出てしまったのが原因でしょう。正直、書き直そうと思っております。それぐらいつまらなく、読者の立場ならフォローを解除してしまうほどでした。 最早運です。コンディションとタイミングが噛み合わないと、面白い物語が紡げません。些末な要因でも悪い影響を大きく受けてしまうので、『そういう時もある』『今日はうまくいかない日だな』と諦めて、しっかり急速に時間を回すべきだと感じました。 したがって、本日はもう寝ます。明日の星座占いが一位であることを切に願います。一位だった昨日は非常に良く筆が乗っていたので、月のお姫様へと祈りを捧げます。
  • 2021年10月9日

    登場人物の行動に疑問を抱くときがあります。

    登場人物の行動に疑問を抱くときがあります。 物語の流れに沿う形で行動させると、どうしても登場人物の性格や動機から外れた言動になりがちです。それは自分の小説でもそうですし、家庭用ゲームのシナリオを見ていても「ん?」と思うことがあります。持ってゆきたい結末ありきの物語だと、道中の登場人物が理解できない言動を取るのでしょう。致し方ないことだと思う一方で、登場人物の人格に破綻を来さないように素晴らしい結末に導いてくれる物語を切望するのもまた、消費者として致し方ないことなのでしょう。 私も小説を書く上で登場人物の心境を重視しておりますが、そうすると目的の流れから遠回りしてようやく求めていたポイントに到達するので、物語が冗長になりがちです。そこを必要最低限にまとめられるのが、熟練のプロ作家なのでしょう。私はそういった素晴らしい物語に惹かれますし、惚れ惚れとします。 いつか自分も読者を魅了できるように、筆を磨いてゆきたいところです。そのためには、物語に沿いながらも登場人物の心境に寄り添った物語を紡ぐことが必須なのでしょう。
  • 2021年10月8日

    使いもしない設定を考えるときがあります。

    使いもしない設定を考えるときがあります。 例えば、出番が少ないキャラの家族であったり、ふらっと立ち寄った店の非番だった店員であったり、本編に登場しないのに外見や年齢、趣味に至るまで考えてしまうのです。好きな食べ物や嫌いな食べ物を考えたところで、それを物語に活かせるほどの技術もないくせに、そちらに時間を割いてしまうのは愚行と言う他ありません。愚直とも言えましょうか。 単行本の空きページに登場人物の情報が事細かに記載されている場合があります。それを読むと「作者はよく練り込んでいるんだなぁ」と感じますが、いざ自分が書く側の立場になると「無駄なこと考えてんじゃねぇよ」と思ってしまいます。ネガティブと言うよりも自己肯定感が低いのでしょう。こんなドロドロとした感情を近況として報告しているくらいなのですから、自明の理ですね。 使える設定というのは単行本の空きページに載せるなど、人の目に留まるものを指すのでしょう。その点で言えば、名もなき素人であるところの私が書き続けた小説は、それ自体が使えないものであるため、使えない設定云々を憂うよりも他に気にすべき部分があるでしょう。そこを直すことこそが、このドロドロとした感情を抹殺するための唯一の手段に違いありません。
  • 2021年10月7日

    興が乗ると時間を忘れてしまいます。

    興が乗ると時間を忘れてしまいます。 それはきっと小説でなくとも同じことなのでしょう。アドレナリンが分泌されていると、指が止まらなくなります。脳細胞がフル回転します。ですが、そういう時に限って時間がないのです。明日に響く時間帯になっていることが間々あるのです。だからこそ、脅威的な集中力を発揮できているのかもしれません。 時間を忘れ、筆を進め続けられれば私は時を超えられるでしょう。時の流れは不可逆。時を戻るのではなく飛躍しています。一分かと思っていたら十分、十分かと思っていたら一時間と時が加速するのです。 勿体ないと思ってしまいました。同時に、授業中ウトウトしていた学生時代を思い出しました。もしかすると、私は興が乗っているのではなく、そういう夢を見ているだけなのかもしれません。胡蝶の夢とはよく言うものです。これが夢なら、目覚めた時の私は絶望を掻き抱くでしょう。 ああ、あんなに面白いものを書けていたのにな……と。もしかすると、それは妄想の産物あるいは願望の表れなのかもしれません。
  • 2021年10月6日

    戦闘シーンを入れたがります。

    戦闘シーンを入れたがります。バトルものであるならば、個人的には緩急をつけるつもりで一話あるいは一章のうち一度以上は戦闘シーンを入れています。入っていないものもあるかもしれませんが、気持ち的には常に入れたいと思っております。 ずっと会話しているばかりでは話が進展しているのかわからず、かつ地味でつまらないと感じてしまうため、なるべくテンポよく進めたいと考えてのことです。ただ、小説で戦闘シーンを書こうとすると硬い文章になりがちで、例えば自分の頭の中でイメージできているものをいざアウトプットしようとすると、「右足を軸にして左足で回し蹴りを放ち……」といった風に、正確ではありますが読みづらい文章になります。個人的にも、自分で書いた小説ですら読むのが面倒くさく感じます。 銭湯描写を簡易的かつわかりやすくすれば良いのですが、技術が伴っていないのでしょう。どうしても冗長な文章になります。銭湯描写以外についても同様です。話の進め方もどうしても冗長になりがちです。これはもう、何度も推敲するしかないのでしょう。時間をかけて挑むしかなく、近道など無いのです。 教もまた、私は戦闘シーンを入れたがり、無駄な描写を増やすでしょう。けれど、時間をかけることでそれを意味のある充実したひと時に変えてご覧に入れましょう。そんな心意気で今日から駆け抜けてゆきます。
  • 2021年10月5日

    近況という近況もありません。

    近況という近況もありません。 今さらながら、近況とは無関係な心境を綴り続けてきたわけですが、そろそろ近況を綴ろうと思った矢先、そんなものは皆無であると気付きました。現在進行形で小説を更新しておりますが、それは過去に書いた遺産の垂れ流しであり、苦悩したのは過去のこと、現在はまた別の小説を書き上げようとプロットを練っております。それが近況ではないか、と問われればイエスなのでございましょうが、はてさて、検討段階のプロットについて何を語ることがございましょうか。鋭意製作中というわけでもなく、鋭意妄想中の物語について語ることなど皆無であり、その苦悩について書き連ねたところで、それは結局妄想ノートにしかならず、自己満足の代物にしかなり得ません。近況ノート自体が自己満足の代物である以上、問題ないと言えば問題ありませんが。 その意味で言えば、近況は妄想中ということになり、それは小説を書いていない方にも当てはまることだと思いますので、ここでの近況を正確に言いますと、何もしていないのと同義ということになります。皆様が時折空想しているのと同様にどのような物語にしようか考えているだけなので、やはり他の方との差はなく、何もしていないのと変わらないと感じてしまうのです。 ……いけませんね。後ろ向きな考えはよろしくないと、今し方改心いたしました。私は現在、猛省しております。これが直近の近況になるでしょう。
  • 2021年10月4日

    伏線願望が年々強くなっているように思います。

    伏線願望が年々強くなっているように思います。 長編にしろ短編にしろ、どんでん返しというものを大多数の人間が好んでいるように感じられます。それは映画の謳い文句で見かける頻度からも明白でしょう。 とは言え、伏線回収とそれによるカタルシスが主軸となってしまうと、道中の物語が陳腐なものになってしまうように感じられます。要は、どんでん返しの鍵となる部分を意図的に隠すことにより、淡白な話になってしまうのです。あるいは、「先が気になる」という欲求を超えて、一向に話が進まないモヤモヤを抱えることになるかもしれません。カタルシスを得るというのは、心の中に鬱積していた感情を放出し、快感を得ることですので、それが強いということは、それまでに大きなストレスを抱えることになるということに他なりません。大きな見せ場を見据えて、伏線を張って張って張り続けても、読者からしてみれば「まだ引き伸ばすのかよ」と苛立ちが溜まってしまうのです。ある境を超えると、ワクワクがイライラに変わるのでしょう。話の引っ張り過ぎに注意ですね。 それでも、人は伏線回収を望むものです。私もそれを望んでいる一人です。しかし、伏線回収に物語の善し悪しが左右される風潮は苦手です。評価に加味されるのは問題ありませんが、あくまでも伏線は必須ではなく物語のスパイスですので、「伏線回収が素晴らしいから名作!」があったとしても、「伏線回収やどんでん返しがないから駄作!」というのは如何なものでしょう。伏線回収に重きを置いていて、どんでん返しを受けて「してやられた!」という感情が先走った結果、名作判定を出したとしても、それ以外の部分、例えば回収した伏線以外の謎が謎のままであったり、伝えたいことが明確でなかったり、そんな単純に「伏線回収するだけの物語」というものばかりが絶賛される風潮は好ましくありません。伏線回収がなくても心に訴えかけてくる物語はありますし、熱くなれる物語もあります。無論、伏線回収が見事でありながらテーマもしっかりしている名作もあります。ただ、伏線回収に比重を置いている人が多いように感じられるのです。インターネットでの書き込みを閲覧することが多いので、そう感じるのかもしれませんが。 好き嫌いの話ですので、だからと言って「自分が間違っていた」「貴方が間違っている」ということではありません。世論に従った物語を書いたとしても、それを良く思う人もいれば悪く思う人もいる、ただそれだけなのです。ならば、自分の好きな物語を書き上げるほうがとても幸せで、カタルシスを得られるのではないでしょうか。それが世論の求める伏線回収の流れに沿っていれば、皆がカタルシスに包まれる快楽の世界、いわゆる名作をとなり得るでしょう。
  • 2021年10月3日

    初めて小説を書く時、まずは短編を書いたほうがいいとよく聞きます。

    初めて小説を書く時、まずは短編を書いたほうがいいとよく聞きます。 『よく』と言うのは主観であって、小説や自作ゲームといった創作物の始め方が綴られたサイトを私個人が『よく』拝見し、そこで目にすることが多いという話です。 小説に限らず創作物は、まず完成させることを第一目標とし、徐々に大きな目標を立ててゆくのがセオリーでありベストであるという風潮があります。創作物に限らず勉強やスポーツにも当てはまることですので、大多数の人間がそう考えているのではないでしょうか。しかし、そう思う一方で、多くの人間が大きな目標から挑み始めてしまうのもまた事実なのです。志が高いと言えば聞こえはよろしいですが、実際には無謀な挑戦と言わざる得ません。無理あるいは無策とでも言うべきでしょうか。 作法を知らず未知の領域に跳び込めば大火傷するのは目に見えています。怪我に耐え得るだけの忍耐力があれば、あるいは苦痛を至上の悦びと感じられる人間であれば、未知の向こう側で既知の領域を創り上げることができるでしょう。しかし、登山初心者がいきなりエベレストを登れないように、高過ぎる壁を前にして挫折してしまう人間が多いことは至極当然のことと言えます。 まずは低い山から『登山』という行為に慣れてゆき、徐々に標高を上げてゆくこと、それが流儀であり基本なのでしょう。それは何を行うにしても同様で、こと創作物に関しては始まりはいつだって一人であり、他人から誘われて始めることがないからこそ、はじめの一歩が肝心なのです。挫ければ、誰も手を差し伸べてくれないのです。自分が勝手に始めて、勝手に挫折しているだけなのですから。 創作という行為を続けてゆくためにはモチベーションの維持が不可欠です。それはユーザーの感想であったり、見返りとしての収入であったり、多岐にわたります。しかし、それらを得るためにはまず完結させることが最優先であり、物語が長引くほどに、完成が遠いほどに、モチベーション獲得の機会が少なくなってゆくのです。 Webという媒体を通して一話ごと投稿する形式であれば、各話ごとに感想を頂けますからそういった事態は避けられるかもしれません。しかし、それが頂けなければどうなるでしょうか。短編であれば、前作の反省を生かし、気分を切り替えてゼロから物語を紡ぎ始められますが、長編であると、どれだけ粗が見つかったとしても収束させなければなりません。自分自身納得できない物語を続けることほど苦痛なことはありません。校閲する人間がおらず、一人で書き続けるWeb小説ならではの苦悩というものです。 そんなものは放り投げて、新たな物語を紡げばよいかもしれませんが、そのような人間はまた同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか。ゼロから切り替えるならば、まず初心に立ち返り、短編から始めるべきでしょう。自身の未熟さを痛感しているならば、尚のこと短編から長編へと徐々にステップアップすることが望ましいのです。 ゆえに、ほとんど短編を書いたことがない私はタチが悪いのでしょう。偉そうに高説を垂れておりますが、長編の途中で粗に気が付き、反省し、しかし終わらせる気概もなく、別の作者として新たな境地で物語を紡ぎ出す……まるで外道。偽者の中の偽者なのです。創作者の風上にも置けません。 私には風下で皆様のゴミを拾い集める姿がお似合いなのでしょう。皆様が納得できずバラバラに引き裂いた紙片を集め、つなぎ合わせて読み漁ることが今の私には必要なのかもしれません。 皆様の破り捨てた短編集を吸収し、私はキメラの如く小説家の化け物に成り果てましょう。私を人間社会から追放するためにも、皆様には是非短編を書いていただき、私の糧としていただきたく存じます。
  • 2021年10月2日

    設定がたくさん思い浮かびます。

    設定がたくさん思い浮かびます。設定だけが先行すると、その間をつなげる物語が駄作になりがちですが、私の作品はまさにその状況に陥っています。 個人的にファンタジーな設定がツボに入ります。たとえば、主人公の存在自体が夢の具現化であったり、敵と思っていた存在が世界の意思そのものであり、常識を越えた超常的な現象であり、それらに尤もらしい解説が加えられていると、わたしは非常にワクワクします。そういった常識から外れながらも納得ができる設定が好きなのです。 それらのジャンルはファンタジーなのだと思いますが、探そうとしても出てきません。超常的ファンタジーとでも言いましょうか。ゆえに、私は私が好きなジャンルを書き連ねるのです。設定がたくさん思い浮かぶのもそのせいでしょう。好きなジャンルが既存の作品に見つけられないからこそ、私は好きな小説を紡いているのです。 そして、同じ趣味嗜好の方が世界に一人はいると考えて、世に発信し続けています。同じワクワクを届けられれば、クリエイター冥利に尽きるというものです。いつか、そんな感慨を抱けるように世界を展開してゆく所存です。
  • 2021年10月1日

    会話主体の小説が好きです。

    会話主体の小説が好きです。 地の文が苦手ということもありますが、単純に会話を読み続けるほうがテンポ良く、読みやすいと感じるからです。マンガやゲームはその類でしょう。視覚的な情報がある分、解説を省略できるのです。強みであり弱みでもあります。 小説は文章で綴られたこと以外は伝えられません。人物も環境も伝えなければ、読み手の想像力に一任する他ないのです。叙述トリックと呼ばれるものはその特徴を巧みに利用しています。敢えて説明しないことで読み手の意表を突くのです。サプライズというものです。 私はそんなサプライズが好きです。だからこそ、会話主体の物語が好きなのでしょう。推理物を書いているわけでもないのに、そんなことをすれば、ただただ説明不足の駄作が出来上がることは目に見えていますが。好きなものでも、入力と出力とでは可不可が異なるということなのでしょう。
  • 2021年9月30日

    集中力が不足していると駄作が生まれます。

    集中力が不足していると駄作が生まれます。集中力と言うよりも、脳の疲労が蓄積していると文章力と発想が全て落ちて、結果、小説が無駄な文章の羅列に生まれ変わります。そして、結局調子が良い時に文章を書き直すことになるのです。疲れている時に無理をしないほうが良い、という典型的な例でしょう。 それでも無理したがるのは一種の意地です。実直な証拠と言えば聞こえは良いですが、自身の体調を顧みない不器用な人間なだけなのです。頭では無理は禁物とわかっているのに、真面目さが仇となり、定期的に、決まった時間に文章を綴らなければ罪の意識に苛まれる、被害妄想人間なのです。 そんな人間は加害者側に回り、欲望のままに遊び呆けるべきでしょう。よく遊び、よく眠る、その先で面白さに辿り着くのです。楽しい気持ちにならなければ、楽しいものは思い浮かびません。小説は頭の中に浮かび上がるものなのですから、環境が良くなければ良いものは生まれません。植物と同じです。丁寧に忙しなければ、すぐに枯れてしまいます。 無駄な人生を送る無駄な人間とならないように、疲れを癒し、小説を書くという行為を楽しめるように生きてゆきたいものです。
  • 2021年9月29日

    登場人物のイメージが先行します。

    登場人物のイメージが先行します。人物像が定まってから物語が始まるような感覚でしょうか。 物語の始まり方は千差万別で、こと私に関して言えば、登場人物の外見や性格、過去や目的といったものが決まってから、漸く彼ら彼女らが関わり合う物語が思い浮かんでゆきます。物語あっての登場人物ではなく、登場人物あっての物語なのです。無論、登場人物を考える前に物語の大筋を考える場合もありますが、当初思い描いていた物語とかけ離れたものが出来上がる割合が多く、その原因として生み出した登場人物が取らないであろう言動が当初のプロットに組み込まれていることが挙げられます。 例えば、どれだけ感動的なシーンになると想像できても、武術に秀でた人物は絶対に命を落とさないし、感情よりも目的を優先する人物は恋人が命を落としたとしても涙を流さないのです。例外はあろうとも、その例外に到達する因子が物語上に組み込まれていない以上、その事象は起きようがないです。それが起きるのは『奇跡』か、あるいは『きまぐれ』と言えるでしょう。 私は自分が生み出した登場人物が好きです。殺したくないと思うほど、どの人物にも愛着を持っています。だからこそ、彼ら彼女らの性格を捻じ曲げるくらいなら、物語を捻じ曲げます。遠回りをして、当初の目標へと到達します。物語と登場人物の性格とを鑑みた結果の最適解を模索しているのです。 私にとって物語を紡ぐという行為は、愛着をもった登場人物たちの人生を追いかける行為に他ならないのです。彼ら彼女らが絶対に言わないであろう発言は取り消しますし、勝てないであろう相手には勝ちません。矛盾した行為が嫌いなのです。 もしもそういった矛盾が私の小説に散見される場合には、きっと私は登場人物よりも物語を優先しているに違いありません。そんな時には罵詈雑言を浴びせていただいて構いません。私のことは嫌いでも、彼ら彼女らのことは嫌いにならないでください。それが『偶像』とも言える彼ら彼女らのイメージを膨らませる一助を担った私の責任であり、願いでもあるのです。
  • 2021年9月28日

    望まれない続編を書きたくて堪らなくなります。

    望まれない続編を書きたくて堪らなくなります。望まれない続編を書きたくて堪らなくなります。 そもそも望まれた小説を書いたことなど皆無なのですが、それでも望まれていない小説の続編など誰にも望まれていないのは至極当然のことでして、望んでいるのは自分ただ一人というのが常でございましょう。こうして自分で小説を書いているということは自分一人のために書いていると言っても過言ではなく、そういう点で言えば、こうした苦悩は見当違いと言わざるを得ません。 それでも評価を気にしてしまうのが人間の性というものです。あるいは、私個人の性なのかもしれません。自分のためと言いつつ、書けば書くほど承認欲求が膨れ上がってしまうのです。手の付けようがない化け物の出来上がりです。封印しなければ人の世に災いを招くこと間違いないです。 さて、そんな化け物をどう退治すれば良いかと言えば、こう言えばいいのです。 「続編、楽しみにしています」 あるいは、こちらでしょうか。 「新作、楽しみにしています」 どちらにしろ、周囲の期待が重荷になれど嬉しくない人間など居ないはずですので、単純な人間であるところの私はこういった言葉で簡単にやる気を取り戻します。苦悩など吹き飛びます。承認欲求の化け物は承認されることで人間へと戻るのです。甘えたい盛りなのかもしれません。あえるいは、甘えることを我慢してきた人間の末路なのかもしれません。誰しも、周囲から望まれたいと思うものなのでしょう。
  • 2021年9月27日

    RPG風世界に違和感を抱きます。

    RPG風世界に違和感を抱きます。とは言いつつ執筆しますが。 昔ながらのRPGと言えば「剣と魔法の異世界もの」と相場が決まっており、ゲーム経験者であれば誰しもその認識を共有できるのではないでしょうか。ゆえに、世界観構築の一助としてその共通認識たる「RPG」の世界観が流用されるのでしょう。一から世界観を構築する必要がなくなり、スムーズに物語を紡ぎ始めることができるのですから、使わない手はありません。 世界観の枠を既存のものから流用し、細部を独創的な要素で詰め込むことで、見どころを強調できるという利点もあるのかもしれません。読者からしてみれば、世界観の把握という作業がひとつ減るのですから、良くも悪くも読みやすくなるでしょう。 今時の異世界小説が合わない方というのは、こういった世界観の流用が気に食わないか、あるいは独創的な世界観に惹かれるタイプの方なのではないでしょうか。はたまた、とても真面目な方で、似通った世界観を「横着」だと捉え、嫌悪感を抱く場合もあるかもしれません。 書き手からすれば、確かに楽ではありますが、個人的には「剣と魔法の異世界もの」は好きであるものの、魔法の原理が解明されていないとモヤモヤした気持ちになります。RPG世界であろうとも、魔法の原理が解明されないものは終始モヤモヤし、あまりのめり込めません。物語の主軸がそこに置かれていないのであれば問題ありませんが、魔法の強さが敵の強さに比例するのであれば、その点を解明しなければ、敵が強いことの証明にならず、首を傾げてしまうからです。 論理的と言えば聞こえは良いですが、おそらく細かい質なのでしょう。良くも悪くも理系人間なのです。理論的に解明されなければ納得できないし、覚えることも叶いません。 ですから、自分が紡ぐ世界観についても理論的に解明しなければ話を進められません。自分のことながら覚えることができないのです。致命傷です。自業自得と言えばそれまでですが。 RPG風世界に違和感を抱くと言いましたが、正確には理論が解明されていない世界観に疑問を抱くのです。終いには「何故説明しないのか」「何故そこまで考えていないのか」と文句を口にする始末です。救えません。きっとこんな人間が紡ぐ物語も救われることがないのでしょう。本末転倒。物語を始める前に計画が頓挫するタイプの似非完璧主義者なのです。まずは始めることから始めていきたいところです。
  • 2021年9月26日

    ゼロから物語を生み出すのは難しいです。

    ゼロから物語を生み出すのは難しいです。 全くのゼロベースからイチを生み出すことは、どの分野であろうとも難しいことで、コロンブスの卵という逸話があるように、第一人者が誰からも尊ばれるのは初めてその行為に及んだ勇敢さを褒められていることもありますが、未知の領域に既知の領域を創り上げるという、正にゼロからイチを生み出す行為をとっているからではないでしょうか。 物語を紡ぐ上でも同じことであり、たとえばアーサー王伝説という世界中に広く伝わっている騎士道物語は多くの物語に影響を及ぼしています。それは登場人物名であったり、その逸話、人物像、更には武器にまで、多くのフィクションがアーサー王伝説をモチーフとした物語を紡いでいます。名作であるほど、それは顕著になります。 土台が整っているほど、それを基にして創られた作品は秀逸なものになります。「素晴らしい出来だ!」と自画自賛してしまうほどです。登場人物の人物像に関しても、土台に少し手を加えれば、まるで自分が細部に至るまで練り込んだ人物のように見えます。名作の力を借りて、自身の物語の質を上げているのです。 読者からしても、著名な作品に感化されていたり、歴史上の人物に注目されていると、それが原作や史実に忠実であるほど「こいつわかってるな」「うまく史実と摺り合わせされていて面白い」といった感想を抱くようになります。誰もが認める名作が、更なる名作を生み出すのです。 他力本願。だからこそ、ゼロから物語を紡ぐことは難しいことなのです。誰しも、過去に読んだ物語に影響を受けるものです。影響を受ける度合いが大きいか小さいか、それだけの話なのです。 だからこそ、素晴らしい作品には素晴らしいと賛辞を送り、自分の作品に良い影響を及ぼせるようになれば、ゼロからイチは難しくとも、イチから百千万億……といった無限大の可能性に繋げられるのではないでしょうか。 影響を及ぼす側、及ぼされる側、どちらの位置にも立てるよう尽力していきます。
  • 2021年9月25日

    設定を考えるのは楽しいものです。

    設定を考えるのは楽しいものです。時間を忘れて没頭してしまいます。その瞬間が物語を紡ぐ上で最も楽しい時間であると言っても過言ではありません。 凝れば凝るほど面白いものになってゆくという感覚を得ます。本編で登場しない地図を用意したり、各都市の機能を考えたり、そういった裏設定を考えると自分がプロの作家になったように感じられ、才能があるように錯覚できるのです。いわゆる麻薬です。麻酔薬の間違いでしょうか。 風呂敷を広げるほど畳むのは難しいものです。設定づくりの時にはそのような問題は度外視し、単純に面白さや目先の欲求に従って動いているため、問題に直面した時、心が折れないように伏線回収を諦めます。それが駄作を量産することになろうとも、物語が下火になるよりも批判覚悟でバッサリと終えたほうが気持ちが楽になるからです。手間をかけた伏線回収は会話主体となり冗長になることがほとんどですので、それがわかっているからこそ、楽な方向に逃げようとするのです。 楽しいことは自分にとって良いことですが、周囲にとっては必ずしも良いことではありません。先々のことを関画れば、自分にとっても良いことではないのかもしれません。未来を憂えて筆を遅らせるよりは、勢いに任せて書き上げてしまったほうが気持ち的には楽かもしれませんが、後々苦しい想いを抱くことは避けられません。 物事には何にでも一長一短があるものです。その中で自分にとって良いものが何か、少しでも後悔しない選択ができれば、人生は楽しいものになるのではないかと考える今日この頃であります。
  • 2021年9月24日

    設定を凝り過ぎるとプロットを書くだけで満足します。

    設定を凝り過ぎるとプロットを書くだけで満足します。 今、その状況に陥っています。小説を書く理由は十人十色でありますが、こと私に関して言えば自分が読みたいと思う物語を紡ぐために小説を書いているのです。 ゆえに、好きな設定が入った物語は言うまでもなく、プロットですら面白く感じられ、満足してしまうのです。寧ろ、書き始めるとつまらない部分が浮き彫りとなり、やる気が削がれてしまいます。自分の空想の中で完璧な作品で在り続けたいという願望とは裏腹に、自分と同じ感性を持った他の誰かに読んでもらい、同じ感動を味わってもらいたいという欲も出てきてしまうのが困りものです。 プロットがつまらないと記録ごと消してしまいます。駄作の詳細を詰めるのはそれこそ無駄だと感じるためです。結局のところ、面白いプロットを書こうがつまらないプロットを書こうが、書く書かないは当人のやる気の問題であり、書かないことを正当化しようと言い訳しているだけに過ぎないのです。あるいは、プロットに納得がいっていない証拠なのかもしれません。 世の中に完璧などありません。色々な要素を詰め込みすぎればまとまりがなくなり、逆に魅力のない作品へと落ちてしまうでしょう。凝り過ぎはよろしくないと肝に銘じ、一貫性のあるテーマを題材にして書いてゆきたい所存です。
  • 2021年9月23日

    誰もカッコのつけ方なんて気にしていないのでしょう。

    誰もカッコのつけ方なんて気にしていないのでしょう。「」と『』の使い分けなんてものは読者が読みやすいようにすればいいだけで、明確に『電話越しの声はこっちを使って、手紙とかの文章はあっちを使って……』と区別するルールはありません。拘っているのは作者だけなのです。それが会話かアナウンスかなんてことは文章で説明すればよいだけであり、カッコでわかりやすく、などと言い訳するのは技量不足を露呈していることと同義です。恥晒しなのです。 私は恥を晒してでも技量不足を補いたいため、カッコの使い分けをメモして間違えないように努めております。しかし、一度間違えてしまえば、わかりやすさのために使っていたはずの道具は、いとも容易く混乱を招く凶器へと早変わりします。諸刃の剣なのです。ゆえに、決して用途を間違えぬよう、カッコの取り扱いには細心の注意を払っております。これはそう、一種の呪いなのでしょう。 カッコ付けなんてものは周囲からよく見られたいという虚栄心を満たすための行為に他なりません。行き過ぎた使い分けは自分の首を締めるばかりで、読者の読みやすさのことなど微塵も考えていないのです。初心を忘れてしまっているのです。 シンプルイズベスト。カッコを付けるには基本に忠実に、凝り過ぎに注意ということでしょう。程々に肩の力を抜いてゆければ、カッコが馴染んでくれるようになるのかもしれません。
  • 2021年9月22日

    戦闘の合間に会話を差し込みがちになります。

    戦闘の合間に会話を差し込みがちになります。これは地の文あるいは会話が長々と続くことによるテンポの悪化を防止するために行っており、例えば戦闘中にも拘らず会話が長々と続いていると、『こいつら戦闘中に何お喋りしてんるんだ?』と違和感を抱き、また、地の文が長々と続くと作者として読んでいても非常に疲れます。地の文は会話よりも堅くなりがちなので、会話よりも読むのが疲れるというのは往々にしてあることなのではないでしょうか。 ゆえに、折衷案として戦闘を描写する地の文の間に会話を差し込む形になるのです。これはこれでテンポが悪くなるのですが、作者側としてはどうしても登場人物に語らせたいことがあるのです。相手との軋轢や因縁など戦闘までの流れでうまく説明できていれば良いのですが、自然な流れや説明口調を避けるほどそれは難しくなり、とうとう戦闘にまで辿り着いてしまい、苦肉の策として戦闘中の会話という形で差し込むのです。技術不足が生んだ忌むべき形式なのです。 「私はこの悪しき風習を断ち切りますッ!」  六畳間で一人声高に叫ぶと、私は筆をとった。脳細胞を躍動させ、世界観や登場人物間の因縁といった読者へと事前に伝えておきたい事柄を、説明口調とならぬように物語の端々に自然と差し込んだ。読者の記憶へと無意識に植え付けるためだ。 「うあッ!」  私は筆を落とした。カタン、と冷たい音が鳴り、人間の無様な呻き声が部屋に虚しく響き渡る。 「私には……できないッ……!」  床に落ちた筆を拾い上げ、私は朦朧とした頭を振る。 「邪念を払えッ……! でなければッ……!」  不可能――脳裏にその言葉が過った瞬間、私は手に力が入らなくなった。 「もう、駄目……かッ……!」  私は居心地の良い夢の中へと堕ちていった。最後に、誰へ向けたものかわからない遺言だけ残して―― 「気持ちだけでは、どうにもならないッ……!」  悪しき習慣を断ち切るためには、そのための手段を講じなければならないと、その具体的対策案について考えをまとめてから行動に移さなければ、どれだけ気持ちが先行しても結果は伴わないと私は実感した。
  • 2021年9月21日

    眠気がやる気を削いでゆくのは至極当然のことです。

    眠気がやる気を削いでゆくのは至極当然のことです。気怠さがやる気を削ぐのと同じ道理です。身体が疲れているのでしょう。精神が肉体的疲労に引っ張られているに違いありません。 疲れている時に無理して創作活動に勤しむことはストイックであり、美徳とされる風潮もありますが、やはり素直に休むことを推奨します。健康第一であることは当然でありますが、疲労が溜まっていると頭が重く、思考力が鈍る傾向がありますので、納得できる作品を紡ぐためにも、ベストコンディションで創作活動に取り組むべきではないでしょうか。 日夜執筆活動に勤しんでおられるプロの小説家の方ならば、前述の事柄に当てはまらないのかもしれませんが、如何せん私はアマチュアの中でも最下位クラスの物書き、下手の横好きでございますので、本日は大人しく寝ることとします。 やる気は元気がなければ原動力に変えられません。元気は疲労によって蝕まれてゆきますから、眠気には睡眠という対策をとることが創作活動を行う上で不可欠の行為なのでしょう。当然でありますが、当然のことを当然のように行える環境がやる気につながるのだと感じております。 おやすみなさい。
  • 2021年9月20日

    語彙力が落ちました。

    語彙力が落ちました。過去の自小説を読み返していると痛感します。過去の自分が今の自分の知らない単語を使用しているのです。おそらく、直近に読んだ小説で覚えた単語なのでしょうが、残念ながら時の流れと共に意味を忘れてしまったようです。 語彙力と言うより記憶力が低下しているのでしょう。読書量が減ったのかもしれません。あるいは、そもそも長期記憶として保存するつもりがなかったのかもしれません。 背伸びして覚えたての単語を使うべきではないのでしょう。文章の美しさを競う小説を書いているわけではありませんから、どの時代の自分にも読める文章が望ましいのです。格好をつけて難しい単語を使ったところで、文章から浮いていて違和感に生じさせるだけですので、良いことはひとつもありません。語感を意識したとしても、わかりやすい単語は他にいくらでもありますので、わざわざ難しい単語を使おうとするのは知識のひけらかしであり、同時に読者へと理解を押しつけた愚行、横着でしかないのです。 語彙力が落ちたのではく、読者に寄り添った読み方ができるようになったと考えましょうか。気楽に読めるのがWeb小説の良さのひとつです。美しい文章を読みたければ純文学を読めばいいのです。私はその分野を目指しておりません。 語彙力が落ちたと悲観するよりも、文章力を向上させようという気概につなげてゆきたい所存です。語彙力も文章力には不可欠ですが、優先順位的には後者のほうが高いと感じておりますので、都合の悪い事実には目をつむって前向きに生きてゆきます。 これが文章力――もとい、決断力です。
  • 2021年9月19日

    Web小説ではライト層向けの作品が流行る傾向があるようです。

    Web小説ではライト層向けの作品が流行る傾向があるようです。それは利用者層がそこに集中しているからです。何を根拠にこんな戯言を申し上げているのかと言いますと、単純にランキング上位の作品を見た限りの憶測です。根拠と呼べるほどのものはありません。しかし、大多数の方はWeb小説にそのような印象を抱いているのでないでしょうか。かく言う私もWeb小説を書き始める前より、そのような印象を抱いておりました。 ゆえに、本気でWeb小説の頂点を目指す場合には、そういったライト層向けのジャンルを書くべきなのでしょう。ランキング上位の作品が同一ジャンルばかりなのはそういった要因があるのだと思われます。要は、流行り廃りにのって、皆が面白いと感じるジャンルを書くことで読者を獲得するという手管です。 それが悪いとは言いません。読者のニーズに合わせて物語を紡ぐことのできる能力は、誇るべきものなのです。しかし、私個人としては自分が興味のない、書きたくない物語を紡ぐことは苦痛の極みであり、血反吐を吐いたところで到底書き上げられるものではないと思うのです。読者に合わせて小説を書ける方は、だからこそ尊敬の念を抱かずにはいられず、しかし嫉妬や羨望の念をも同時に抱くのです。 「こんな稚拙な作品が流行るのか……ふうん」「自分の物語を絶賛しない読者は精神年齢が低い」「みんな同じ作品ばかりですオリジナリティがない。それに比べて私の作品は……」、全て言い訳です。意地とでも言いましょうか。ちやほやされたい、上位に立ちたい、という負けん気とは裏腹に、流行りに乗った物語を紡ぐことに抵抗感を抱き、自分が書きたいもので結果が得られないことに腹を立て、原因を自分以外に見つけようとする方は少なくありません。 ほら、ここにもひとりいます。逆張りの極み。逆さ吊りの王様なのです。吊るされた男、それは忍耐と試練が運命づけられておりますから、抗えないのも仕方のないことでございましょう。脱線しますが、ご時世的には吊るされた『男』ではなく『女』に代わるのでしょうか。それとも、逆位置になれば性別が反転するのでしょうか。男が苦しんでいるだけならば、声を上げる方は出てこないのかもしれません。 世の中、言った者勝ちなのです。やった者勝ちなのです。やらずに文句を垂れるのは見苦しく、負け犬の遠吠えと揶揄されようと、それこそ文句は言えないのです。ゆえに、ライト層向けのジャンルを開拓し、自身の可能性を広げることは悪いことではありません。寧ろ、普段と異なるジャンルを書くと新たな発見につながります。未知の領域は目新しさでいっぱいなのです。 新たな視点で世界を俯瞰するためには、新たなライトで照らすのもまた必要なことなのでしょう。物は使いよう。宝の持ち腐れ。灯台下暗し。夢見た宝は、存外近くにあるのかもしれません。
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